【話題の「ストゼロ文学」】金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』の一篇を全文公開 連載第1回
公開日:2021/10/2
【第57回 谷崎潤一郎賞受賞】コロナ時代の恋愛を描き話題沸騰の金原ひとみの作品集『アンソーシャル ディスタンス』から、「ストロングゼロ」を特別全文公開。飲みやすいがアルコール度数の高い飲料に依存する女性を描き、「自分もこうなりそうで怖い」という声も多数、「ストロングゼロ文学」の代名詞にもなった作品です。
ストロングゼロ
Strong Zero
「カレーうどん・麻婆豆腐」。素っ気ない手書きのメニューに、期待していたわけでもないのに落胆していた。こってり系の多い社食だけれど、時たま冷製パスタや焼き魚定食なんかもあって、そういう時は女性社員たちの間で「今日は当たり」と連絡が行き交う。今日は普通に外れだ。
「どうします? ラ・カンティーヌでも行きます?」
不満そうに振り返って近くの人気ビストロの名前を挙げたセナちゃんに、私と吉崎さんは「いやいや校了」「今晩打ち合わせの松郷さんの新作読まないと」と首を振る。ま、いっかーあたしうどーん。セナちゃんは軽い口調で言ってカウンターに向かっていく。吉崎さんどっちですか? 私もうどんかな。じゃあ私は麻婆豆腐かなー。言いながらトレーにミニサラダを載せる。
ミニサラダ、麻婆豆腐、ワカメスープ、少なめにしてくれと言ったのに普通に盛られた白米。レンゲから一口頬張った麻婆豆腐はまあレトルトよりはましだけど適当に入った中華料理屋でももうちょっと美味しいよなというレベルだった。せめてラー油や山椒で誤魔化したいところだけれど、卓上にはどっちも無い。二百九十円である以上、食べる者が文句を言えないことを見越したかのようなぴったり二百九十円クオリティだ。
「聞いてくださいよー。この間彼氏が大学時代の友達とバーベキュー行ってきたんですけど、画像見せてもらったら普通に可愛い女の子たちいっぱいいて!」
「女の子いるって聞いてなかったの?」
「聞いてたけど、それでもやっぱ可愛い女の子たちと一緒にいる彼氏見ると萎えるじゃないですかあ」
「まあ、分からなくはないけど」
「でもね、ちょっと拗ねてみたら彼、ちゃんと皆に結婚前提で付き合ってる彼女いるって報告したよって、言ってくれたんですー。ヨシヨシってほんとそうやって私の嫉妬あしらうのがうまくってー。あっそういえばミナちゃんは彼氏と最近どうなんですか?」
え私? そう言う自分が挙動不審であることに自分でも気づいていた。マウントか? 幸福度の査定か? 反射的にそう思う。二十代前半の頃普通に楽しかったこれ系の話題にマウントを意識するようになってしまったのは、多分セナちゃんのせいではなく年齢や結婚の話に敏感になってしまった私のせいだ。
「まあ、普通に上手くやってるよ。まあもう長いし、わあって感じの盛り上がりはないけどね」
「何年でしたっけ?」
「そろそろ三年」
吉崎さんは黙々とカレーうどんを啜っている。彼女はつい三週間前に彼氏と別れたばかりなのだ。間接的に傷口に塩をごりごりすり込むセナちゃんに苦笑いしながら、向かいの吉崎さんの顔色を窺おうとするものの、彼女の視線はまっすぐカレーうどんの丼に注がれていて確認できない。
「ミナちゃんは今の彼氏と結婚するの?」
ナプキンで口を拭いながらようやく顔を上げた吉崎さんが吐いたストレートな言葉に思わず一瞬口を噤み、軽く噎せたフリをして時間稼ぎをする。
「彼安定した職についてないし、まだ分かんないです」
「イケメンバンドマンとの結婚なんて憧れるなー。うちの彼氏なんて見た目激地味なSEですからねー」
「いやいや、バンドもうやってないんだって。今はただのフリーター。それにそんなイケメンじゃないよ」
うそおめちゃくちゃイケメンでしたよ前見せてくれたじゃないですか! とセナちゃんが追い打ちをかけ、吉崎さんもうどんを啜りながらうんうんと頷く。はいはいありがとうございます。と呟くと、あーミナちゃん感じわるーい、とセナちゃんが私を小突いた。確かに彼はイケメンだ。私の彼氏はイケメン。本当にどこからどう見てもイケメンで、恐らく世界中どこでも認められるイケメンだ。
私ちょっとコンビニ寄ってくから。二人にそう言い残して先に社食を出ると、歩いて三分のコンビニに入りストロングのレモンを二本手に取りチョコやグミと共に買う。コンビニを出ると人通りの少ない路地に入り、電柱に背を凭せながらハンカチで覆ったチューハイを一気に飲み干した。もう一本飲もうかどうか迷っていると、スマホが震えた。
「ミナ、明日か明後日この間話してた六本木の熟成肉の店行かない?」トーク画面の一番上に表示された裕翔という名前を見つけるたび、長めのパンツを穿いた日に限って雨が降り、裾が濡れてしまった時のようなドブネズミ的憂鬱が襲う。
「元々彼女とはうまくいってなかったんだよ、別にミナのせいじゃない、二股してたのは事実だし、ミナがいたから踏み切れたところはあったかもしれないけど、大丈夫だよ、俺は彼氏と別れろとかそういうことは言わないから、辛い時とか寂しい時に使われるガス抜きでいいから、だからミナは重く考えないで」。裕翔が彼女と別れたと告白した時、彼はそう話していた。つまり、お前は俺にとって体のいいセフレで、寂しい時はいつでもヤリますよって公言してるようなもんじゃん。言われた時は頭が回らず何も言えなかったけれど、家に帰った後そう思いついて元々熱くなっていたわけでもなかった裕翔への気持ちが更に冷めたのを感じた。こっちは別れたんだからお前も彼氏と別れて俺と付き合えと言われても困るけれど、ガス抜きという言葉には彼が自分自身ではなく私を軽んじているニュアンスを感じた。でもその時の言葉とは裏腹に、何だかんだで長かった彼女との別れが堪えているのか、ここ最近裕翔は以前よりも頻繁に誘いのLINEを送ってくる。丼から湧き上がる湯気を顔に受けながら、黙々とうどんを咀嚼していた吉崎さんの姿が蘇る。裕翔は吉崎さんの彼氏だった。三週間前まで、彼らは一緒に暮らす恋人同士だった。
二本目のストロングに指をかけ、半分ほど飲んだところでさすがにお腹の空きスペースがなくなり、コンビニ前のゴミ箱に缶を放り込んで会社に戻った。
家の電気は点いていた。ただいまと呟きながらパンプスを脱ぎ、冷蔵庫からストロングを取り出す。音を立てないようにゆっくり引き上げたプルタブからはプシ、と小さく小気味良い音が響く。一気に半分ほど飲んでからアームに突っ伏すようにしてソファに横になる。手に持ったままのストロングを定期的に口に運び、力を振り絞って起き上がると化粧を落とすため手首のゴムで髪をくくる。洗面所に行く前に寝室のドアを開けると、薄暗い部屋の中ベッドに潜ったままの行成と目が合った。リビングの光を反射するその眼にみとめられた瞬間、怯んでいる自分に気づかない振りを自分にしていることに気づいて、なぜそんな振りをしなければならないのかと、この憤りの源である行成への複雑な感情が「起きてたの?」という僅かな不愉快さの混じった言葉となる。
「起きてた」
「ただいま」
「忙しいの?」
「言ったでしょ。今週校了」
「そう、だっけ」
消え入りそうな声でそう言うと、彼は元気のない貝のようにゆっくりと目を閉じた。もう何ヶ月もまともに話をしていない。私がいくら話そうとしても二言三言喋るとガス欠でエンストした車のように、シュン……といった音が出そうな様子で黙り込む。そうして思考停止、活動停止した彼を見ているのが辛くて、何でこんなことにという行き場のない思いが募ってこのままでは行成に当たってしまいそうな気がして口を噤む。
付き合い始めて二年は天にも昇るような気持ちで毎日を過ごしていた。仕事が忙しかろうが彼の稼ぎが少なかろうが、家に帰れば超イケメンな彼が待っていて、ご飯一緒に作る? 何か食べに行く? それとも出前でも取ろうか、と話し合い、二人でお風呂に入り、夜には彼がギターを弾いて歌を歌ってくれたり、たまに奮発して買ったいいワインを飲んだり、映画や旅行番組を見たり、会社の近くに美味しいラーメン屋さんがあってねとか、今度霜降り牛食べに行こうとか話して、どんなに忙しくても疲れていても、彼の隣で眠るだけで、睡眠時間三時間でも肌や爪や髪がボロボロでも、全てがリセットされるように力がみなぎった。
狂い始めたのは一年前だった。バンド活動をしながら他社のファッション編集部で雑用のバイトをしていた彼が、新しく配属された女性編集長に気に入られ、ランチに誘われたり私的な話を一方的に聞かされた挙句、彼女いるんでとフライング気味に拒絶反応を示した時から彼女に嫌がらせを受けるようになり、彼は次第にバイトを休むようになっていった。家でも生気がなく、スマホでストラテジーゲームばかりやり、欠勤の連絡さえ怠るようになった頃、彼にそのバイトを紹介してくれた音楽関係の友人からもう来なくていいと伝えてくれという連絡が私にきた。いつもスマホでゲームをしていた彼が連絡を受けられなかったはずはないのだけれど、何度電話しても出ないとのことだった。心配ではあったけれど、私も当時新書編集部に配属されたばかりで余裕がなく、バイトのことくらい自分でどうにかしてよという苛立ちがあったのも事実だった。
バイトの解雇通知を知ると、彼は一時的に元気を取り戻した。派遣登録をして、短期でアパレルの販売員をしてみたり、日雇いで肉体労働をしてみたり、心配かけてごめんねと私を気遣う言葉を口にしたりもした。でもそれから一ヶ月ほど経ったある日、行成はまたおかしくなった。バンドメンバーと明け方まで飲んで帰宅した時だった。確か休日で、私は原稿を読んでいた。昼を過ぎてもベッドから出てこない彼に、何か食べる? と寝室を覗いて言うと、ベッドの中に彼の見開かれた目を見つけた。
「どうしよう」
「なに? どうかした?」
「怖いんだ」
訝りながらベッドに腰掛けて彼の手を握ると、震えていた。
「昨日、何かあったの?」
「何も。皆で楽しく飲んでた」
「何が怖いの?」
「分からない。ずっとおかしいんだ。頭の中がぐるぐるして、次々に恐ろしい映像とか、不安が湧き上がってくる」
パニック障害、自律神経失調症、真っ先に二つの病名が浮かんだ。二日酔いの時に憂鬱な思考に襲われるのは、誰にでもあることだ。大丈夫冷静になれと自分に言い聞かせながら、「どうしよう」と「怖い」を繰り返す彼に、私も動揺していた。イケメンでファッションセンスも良くてバンドをやっていてコミュニケーション能力の高かったはずの彼が、その時突然赤子のように見えた。
「俺おかしくなったのかな」
出版社に勤めていると、精神がもたついている人によく出会う。自分だって、取り立てて精神が安定している人間ではない。それでも、抽象的な考え方や議論をしない純度の高いリア充だと思っていた彼が突然不穏なものに囚われてしまったことに、動揺していた。
「大丈夫だよユキ、大丈夫。まだお酒が残ってるのかもしれないし、しばらく経っても変わらなかったら病院行こう。もうちょっと様子見よう」
布団に潜ったままの彼の背中を撫でながら、私は喪失感に苛まれていた。私の好きだった彼が少しずつ壊れ始めている。振られたわけでもない、浮気されたわけでもないのに、裏切られたような気持ちになっている自分に、裏切られたような気がしていた。
人は変わっていくものだ。人に絶対なんてない。全ての人が明日ドブに落ちて死ぬかもしれないし、明日交通事故に遭って顔面や四肢が崩壊するかもしれないし、明日原因不明の難病を発症するかもしれない。人は偶然性によってのみ存在し続け、偶然性によってのみ死ぬ。必然的に人が存在することも存在しなくなることもあり得ないのだ。彼が変わってしまったのも必然ではなく偶然で、むしろ偶然性を前提に考えれば彼は変わってなどいないとも言える。人は毎日、毎時毎分クジを引き続けているようなもので、引いたクジが交通事故死であったり、世界滅亡であったり、空からカエルが降ってくるであったり、彼が突然怖がるであったりすることに何ら訝る理由などないのだ。考えれば考えるほど、彼への憤りが緩和していくだろうと思ったけれど、偶然性が支配する世界について考えれば考えるほど、視界がひん曲がっていくような吐き気がした。
発作はその日中に治ったけれど、その日以降彼は明らかな鬱状態に突入した。みるみる生気をなくし、ベッドにいる時間が日増しに長くなった。不眠も進行し、二時間ベッドに潜って、ようやく寝付いたと思ったら一時間で起き、また二時間かけて寝たと思ったらまた一時間で目覚め、といった具合で、細切れ睡眠しかできないようだった。睡眠薬だけでももらいに行こうと病院に連れて行き抗鬱剤と睡眠導入剤を処方してもらったけれど、それから二ヶ月もするとどうしても外に出れない日が続き、病院に行くことも止めてしまった。それでも眠れる薬が欲しいと言う彼のために私が別のメンタルクリニックに行き、彼の症状をそっくりそのまま虚偽申告し、抗鬱剤と睡眠導入剤をもらってきた。