【話題の「ストゼロ文学」】金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』の一篇を全文公開 連載第4回

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/5

【第57回 谷崎潤一郎賞受賞】コロナ時代の恋愛を描き話題沸騰の金原ひとみの作品集『アンソーシャル ディスタンス』から、「ストロングゼロ」を特別全文公開。飲みやすいがアルコール度数の高い飲料に依存する女性を描き、「自分もこうなりそうで怖い」という声も多数、「ストロングゼロ文学」の代名詞にもなった作品です。

アンソーシャル ディスタンス
『アンソーシャル ディスタンス』(金原ひとみ/新潮社)

 がくんと頭が揺れてハッとする。校了前でもないというのに、日中からデスクで船を漕ぐなんてさすがにひどい。氷カップに注いだストロングをストローで吸い上げると、氷がかなり溶けて味が薄くなりかけていた。しばらく意識が飛んでいたのだろうか。

 月曜だというのに、疲れも寝不足も極まっていた。土曜日は夕方から朝まで約十時間大学時代の友達と飲み、昼過ぎに起きて二日酔いのまま原稿を読みつつ、ひどい状態だった部屋を掃除し、無理やり行成をソファに移動させて久しぶりにシーツを洗濯した。枕の染みがひどく、私はまた少し行成を嫌いになる。そのせいで、普段は土日は出ないと伝えていたのに、昔からの友達と飲んでるんだけど良かったら合流しない? と連絡してきた裕翔の飲み会に参加した。神奈川出身の裕翔の地元の友達には、普通に彼女だと紹介された。まだ彼女じゃありません、と笑って否定すると、付き合っちゃいなよと裕翔の友達二人にはやし立てられた。二人とも、普通に顔は良くなかった。一人は裕翔と同レベル、もう一人は更にレベルが低かった。気分は良くなかったけど、そこまで悪くもなかった。でもとにかく寝不足で酔っ払っていて、帰りのタクシーで目覚めた瞬間、やっぱり自分がどこに向かっているのか分からなかった。

 足元に目をやるとコンビニ袋が散乱している。社内では捨てられないからとストロングの空き缶を毎回縛って置いておいたら、瞬く間に溜まってしまった。二つずつくらい外に持って出て、コンビニのゴミ箱に捨ててくるか、それともトイレのゴミ箱に捨ててしまうか。社内に張り巡らされた防犯カメラを思い、私が出した結論は「段ボールに詰めて自宅に送る」だった。お昼時の人が少ない時を狙って、袋ごと段ボールに詰め、あまりにも軽いと不審だからもう捨ててもいい何冊かの本を詰め、更にやっぱり缶の音がするから、動かないよういくらか緩衝材も詰めた。伝票と共にバイトの和田くんにこれお願いと渡したら、足元がすっきりしたと同時に、何やってんだろうという気持ちになった。

 何やってんだろう。ずっとそれの繰り返しだった。私何やってんだろう。裕翔のこともそうだし、アルコールのこともそうだ。自分がやってきたことのほとんどは「何やってんだろ」と思うことばかりだ。ずっとずっと消去法で生きてきた。こっちは嫌だからこっちかな。そうやって気乗りしないまま二種類の社食を選ぶようにして、生きてきた。それなのに、は? 私何やってんの? ばっかりだ。

「あれ、桝本さん、奥滋おくしげさんのトークショー行かないの?」

 原稿に赤入れをしている最中、編集長に言われて目を泳がせた後血が沸き立つように全身がカッと熱くなっていく。慌ててスマホで時間を確認すると、15:47だった。四時から開始のトークショーだ。今からタクシーに乗れば開始二十分後くらいには着けるだろうか。

「途中入退場大丈夫なんで、ちょっと遅れてもいいかなって思ってたんです。そろそろ行きますね」

 もちろん覚えてますよ風を装って編集長に答えると、彼女は少し戸惑ったような表情を浮かべたけれど、じゃあ奥滋さんによろしくねとにっこり笑った。会社を出ると目の前ですぐにタクシーを拾う。何であんなバレバレの嘘をついてしまったのだろうと数分前の自分を悔やむ。奥滋さんは担当編集者が自分のイベントに出席するのは当然というタイプの人だし、時間に厳しい人だ。開始後に入場したことがバレた時の言い訳を考えながら、トークショー会場である本屋近くで渋滞に嵌って動かなくなったタクシーから降りた。小走りで本屋に向かう途中、駅のロータリーで座り込んでいる男がいて思わず目を取られる。皆素知らぬ顔をして彼の前を通り過ぎている。足を投げ出して植え込みに背を凭せぐったりした様子で半目を開けている彼を見てゾッとする。薬物かもしれない。自分が危害を加えられるのだけは嫌だと足早に通り過ぎようとした時、彼の胸ポケットに何か大きなものが入っているのが見えて目を凝らす。彼の胸ポケットに入っていたのは、私がいつも飲んでいるストロングの缶だった。一瞬彼の顔を凝視した後、足を速めた。私はあの男だ。自分が何をしているのか冷静に考えることもできない、酒を飲んで醜態を晒すあの男と同じだ。

 大型書店内のトークショー会場までエスカレーターを駆け上がっている途中、不意に記憶が蘇る。確か先週、母親から連絡があって、家族で入っていたガン保険を継続するかどうか聞かれたはずだった。でも母親とのトーク履歴を見ても、母親と父親とのグループトーク履歴を見ても、メールの履歴を見てもそんな話は一切出てこず、着信履歴にも母の名前はなかった。でも、そう言えば保険なんて入ってたなと思った記憶と、確か二十歳の頃に入った保険だから保険料も安いんだろうし継続かなと思った記憶がある。社会人になって久しいのに親に払い続けてもらうのも申し訳ないから、私の分だけ引き落とし口座を自分の口座に変更するのと、年間の保険料をまとめて振り込むのとどっちが良いか聞こうと考えていたのだ。「あのさ、先週あたり、ガン保険を継続するかどうか私に聞いた?」もしかしたらそんな夢を見ただけだったのかもしれないと思いながら母にそうLINEを入れると、ちょうど奥滋美津子×村松勝トークショー、という看板が見えてきて歩調を緩める。規模の小さいトークショーだけれど、立ち見客もいて何となく人に紛れながら入場し、ずっとそこにいたような顔で会場の一番後ろの辺りにそっと立ち位置を定める。それでも顔見知りの編集者何人かと目が合い、目で挨拶をする。会場の随分前の方で見ている吉崎さんに気付いて、昨日一緒にいた裕翔のことが頭に蘇る。吉崎さんは村松さんの担当で、トークショー終了後に吉崎さんが担当した新刊のサイン会をするらしいから、きっと会場入りから、あるいは村松さんの自宅から付き添っていたのだろう。ここ最近の一連のボケと、奥滋さんたちが話す「ジェンダーと小説」というテーマが酔っ払っているせいか全く頭に入ってこないこと、その会場にいるすべての人が私よりも優秀で意義ある人生を送っているような気がすること、途中で届いたLINEに「先週転送した郵便物の中に、保険のことについて聞くメモを同封したよ」と母親から入っていて、ああそうかと思うもののそのメモに正確に何が書かれていたか全く思い出せないこと、メモがどこにあるのか、捨ててしまったのかさえ定かではないこと、あらゆる事象の数々から、棘のような自責の念と恐怖が襲ってくる。

 トークショーが終わり、村松さんのサイン会が始まると、私は奥滋さんに挨拶をするため会場前方に向かった。動悸が激しかった。

「奥滋さん、お疲れ様でした。素晴らしいお話でした」

 ああ、桝本さん、来てくれたの。眼光の鋭い奥滋さんには、今の私の体たらくが全て見透かされているような気になる。

「以前ご相談させて頂きました対談集の件、ぜひご検討ください。村松さんと改めて対談して頂くのも良いかもしれないと、今日お話を聞いていて思いました」

「そう? 村松さん、意外とシニシストだったわね」

 どこがどうシニシストだったのか思い当たる節はなかったが、とりあえず「確かに、ちょっと意外でしたね」と相槌を打つ。ちょうどその時吉崎さんがやって来て、「教育制度についての話ですよね。小説では結構そういった面がぼかされているので気づかないんですが、本人は割と、まあああいうタイプなんです」とにこやかに言った。

「でも明るいシニシストは嫌いじゃないわ」

「だと思いました。だから今回の件依頼したんです。ああいう立場を取っていても、彼の考える理想は奥滋さんのお考えと大きくずれていないように感じていたので。今回の新刊は奥滋さんの著書を参考文献に挙げていますし、影響されている部分もあると思います」

 私が今日こんなに寝不足なのは、昨日私を呼び出したあんたのブサイクな元彼のせいだ。訳のわからない呪詛を頭に思い浮かべながら、控え室にアテンドしていく書店員と奥滋さんの後ろ姿を見送る。

「桝本さん、酒臭いよ」

 吉崎さんの言葉に凍りつき、思わず一歩後ずさる。いつもはミナちゃんと呼ぶ吉崎さんは、冷たい目で私を見つめ、村松さんの所に戻って行った。笑顔で書店員やお客さんに対応している吉崎さんをしばらく呆然と見つめた後、私は書店を出てタクシーに乗り、会社近くのファミレスの前で降りた。店内をずんずん歩いて席に着くと、ビールを頼んでバッグから原稿を取り出す。先週の木曜に届いて、これから拝読させて頂きますと連絡をして、まだ五十枚ほどしか読めていない原稿だった。いい加減感想を送らないとまずい。赤ペンを持ったまま原稿と対峙して三十分もすると行成から「お腹空いた」とLINEが入った。いつもはパンやご飯などすぐに食べられる状態にして置いておくのに、今日はすっかり忘れていた。お米も切れていたし、冷蔵庫にもほとんど物が入っていなかったはずだ。

「出前のチラシが入ってるクリアケースにお金が入ってるから、それで出前取るか、買いに行くかしてくれない?」

 苛立ちから、突き放すようなLINEを送る。別に、私がUber Eatsや出前館で家に届くように手配しても良いのだけれど、彼が自主的に空腹を満たすために行動してくれるんじゃないかと、期待していた。少しずつでいいから、自分で自分のことをできるようになってもらわないと。そうでなければ私はもう近い内に潰れてしまう。でも彼への希望は、私が自分に対して持てなくなってしまった希望を仮託しているだけなのかもしれなかった。

 レモンハイを注文してガリガリと原稿に指摘を書き込んでいく。これ以上誰も自分を煩わせないで欲しかった。しばらくすると、裕翔から「ミナ、昨日結構酔っ払ってたけど大丈夫? 俺は悲惨で午後出社」と情けない顔つきのLINEが入る。文芸と違ってこっちは午後出社できる空気じゃねえんだよと突然全てが許せない気持ちになって裕翔とのトーク履歴を消去する。消した瞬間メールの通知が入って受信ボックスを開くと、吉崎さんから「うちの編集部でも奥滋さんの単行本を検討してるから、内容が被らないよう今度打ち合わせしましょう」と入っていた。吉崎さんは何か勘付いているのだろうか。裕翔から何か聞いたか、或いは最近裕翔と会っているのを誰かに見られて又聞きしたか。この間まで普通にセナちゃんと社食を食べたりしてたのに、どうしていきなりこんな態度になるのだろう。返信をしないまま、再び原稿に視線を落とす。パワハラセクハラのルポルタージュという内容のせいか自分の精神状態のせいかお酒のせいか全く頭に入ってこない。どんなに文字を目でなぞっても一向にそれが意味のある文章として繋がらない。おかしい。おかしいな。訝りながら何度も同じ箇所を読んでいるとゲシュタルト崩壊してしまいもはや文字の意味さえ分からなくなってくる。どうしよう、そう思いながらレモンサワーのナカをお代わりする。ナカを注いだレモンサワーを一気に半分飲むと唐突に今日はもう酔っ払ってるから無理だ、と諦めがつき、赤ペンを放り出す。スマホのパズルゲームを開くと、私は延々ピースとピースをひっくり返し続ける。ハイボールとワイン数杯を経ると、もう夜の十一時を過ぎていて、原稿を読み終えたら一旦会社に戻ろうと思っていたけれどその気も失せていた。こんなところで時間を潰すくらいなら家に帰って眠りたいと思うが、家に帰れば行成がベッドにいる。ソファで寝ても彼がトイレに向かう音で目が覚めるし、大体腰か首を痛める。針山の中の小さなハゲに突っ立っているかの如く、私は疲れ果てても立ち続けなければならない呪いにかかったかのようだった。漫画喫茶にでも寄って一眠りしてから帰ろうか、或いはもうホテルにでも泊まってしまおうか。そう思いかけて、そんなことをして行成はどうなるんだろうと思い直す。でも、本当に私がずっと帰らなかったら行成はどうするんだろう。さすがにあの家で餓死するなんてことにはならないだろう。じゃあ彼はどうやって、誰に助けを求めるのだろう。ベッドとトイレを往復しながら徐々に腐敗していく行成を想像しながら、私はファミレスを出た。何でもない地面を見つめたまま歩き回り、ようやく観念して電車に乗る。

 コンビニでストロングを買うことだけを考えながら駅から家に向かっている途中、わき道の奥に見える明かりに気を取られ、思わず足を向ける。何度か入ろうかなと思っては、もう家も近いし帰ろうと思い直して結局一度も入ったことのないバーだった。人が多かったらやめよう、そう思ってドアの小さな窓から中を覗くと、二十席くらいのバーには四人しか客が入っていなかった。

 おしぼりをもらうと、ジントニックを注文する。CAFE・BARと書いてあっただけあってカジュアルな雰囲気だった。バーテンは二人いて、店主っぽい人がジントニックをコースターに置いた。手持ち無沙汰になる一人バーの時だけ吸う電子タバコを取り出し、カートリッジを用意する。ジントニックは普通に美味しいけれど少しジンが薄い気がする。二杯目を悩みつつ陳列棚のウィスキーを眺めていると、眼鏡をかけたオタクっぽい見習い風の男の子がウィスキーお好きですか? と声をかけてきた。

「何かおすすめはありますか?」

「フレッシュで飲みやすいものと、スモーキーで重ためのものとどっちがいいですか?」

「スモーキーな方がいいです」

「ボウモアは飲まれたことありますか?」

「ああ、アイラ島のウィスキーですよね」

「ご存知ですか?」

 彼が嬉しそうな顔をして言うと、店主が「彼、アイラ島のウィスキーが好きで、今年アイラ島に行ってきたんですよ」と彼を指差して言った。思わず笑って、ウィスキーのために? と聞くと、一人で蒸留所巡りしてきました、と恥ずかしそうに微笑む。彼は私のウィスキーに関する質問に全て軽々と答え、お勧めのウィスキーを何本も出してきてそれぞれ嬉しそうに解説した。ウィスキーオタクだったのかと思いながら、笑顔の幼い彼に少しずつ警戒心が解けていく。もしかしたら年下かもしれない。この間友達とサイゼリヤで十二時間飲んでたんですよというバーテンらしからぬ話に声を上げて笑う。

<第5回に続く>