【話題の「ストゼロ文学」】金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』の一篇を全文公開 連載第5回
公開日:2021/10/6
【第57回 谷崎潤一郎賞受賞】コロナ時代の恋愛を描き話題沸騰の金原ひとみの作品集『アンソーシャル ディスタンス』から、「ストロングゼロ」を特別全文公開。飲みやすいがアルコール度数の高い飲料に依存する女性を描き、「自分もこうなりそうで怖い」という声も多数、「ストロングゼロ文学」の代名詞にもなった作品です。
割れるように頭が痛い。いやむしろ、頭の上でガラスをかち割られたような、いやもっとシンプルに壺で頭を殴られたような痛みだ。はっとして一瞬で上半身を起こす。私は何か交通事故にでも遭ったのだろうか。完全に記憶が欠落していた。右を見て、左を見て、後ろを振り返る。カーテンを通過する明るみ始めた空からの光を受ける男は、どう見てもあのバーテンの彼で、ベッドの脇に置かれた眼鏡はあのバーテンの彼の眼鏡だった。そして感触からして私は完全に裸で、でも触ってみた感じとりあえず中出しはされてなそうだった。ぼさぼさの髪を撫で付けると、事後特有のキューティクルが逆立っているような、ざらざらと指が引っかかる感触があった。一瞬だけ、この家に上がった時の記憶が蘇る。玄関に上がった瞬間キスをしていたはずだ。でもそれ以外、私とこの男との間に起こったことが全く思い出せない。
呆然としたままベッドを出ると、私はのそのそと下着と服を身につけた。ちらっとゴミ箱を見たけれどゴムは見当たらない。それなりの大きさのティッシュボールが入っているから、生で外出しが濃厚か。バッグを見つけ手を伸ばすと、財布の中身を確認する。カードも、現金も多分問題ない。スマホを取り出し、ほっとする。行成からの連絡は入っていない。6:35という時刻にため息をつき急いで帰らなきゃと思った瞬間、別に行成は私の帰宅なんて待ってない、とも思う。私はどうしていつも、毎日毎日行成のいる家に帰るのだろう。完全に力が抜けてバナナの皮のようになったままスマホの画面を見つめる。11月29日。なんか見覚えのある日付だなと思った瞬間、行成の言葉が思い出される。
「今日からミナは俺の彼女ってことでいい?」今日は、付き合い始めた記念日だった。初めて寝た日の朝、行成はそう言った。イケメンはこういうこと余裕で言えるんだなと、彼の顔と性格のイケメンさに感動しながら、うんと満面の笑顔で私は答えたのだ。そして三年後の今日、行成は根を生やした私のベッドに寝ていて、私は名前を知らない男の家で目を覚ました。泣けないのはアルコールのせいで、多分脱水症状だ。緩慢な動作で立ち上がりバッグを手に持つと、立ち上がってコートを羽織る。スチームパンクっぽい家具や置物で構成されたインテリアに、強烈に他者を感じる。ドアを開けて外に出ると、目が眩む。
「二十二だったらいい夫婦の日だったのにね」私の言葉に、行成は「十一月二十九かあ、いいフックの日、でどう?」と答えた。何いいフックって! と笑う私に、こんな感じ、と彼は右腕で鋭いフックをして見せた。あんなに幸せな日はなかった。自分の好きな人が私のことが好きで、彼は私が好きになった男の中でも一番のイケメンだった。
マンションのエントランスを出てマップアプリを開くと、ここは私の家まで十分ほどの所で、行成の寝ているベッドから歩いて十分の所で他の男と寝たのだという事実が判明する。裕翔と浮気を続けておいて今更かと思いながら、目に留まったコンビニに足を止める。
ただいま。呟いた声に返事はない。バッグも下ろさないまま寝室のドアを開ける。ベッドと一体化した行成と目が合う。
「おかえり」
黙ったまま、じっと彼を見つめる。彼の視線は私の手に握られたストロングに移動して、それからすぐに瞼がその目を覆った。
「ご飯、食べた?」
憂鬱に開いた目がまた私を捉え、彼が微かに首を振る。
「ねえユキ、ケーキ食べない?」
コンビニ袋からショートケーキが二つ入ったパックを取り出し、同じ袋からフォークを二本取り出す。怪訝そうな行成に、今日は付き合い始めた記念日なんだよと明るい声を出す。あ、だか、ああ、だか何か短い言葉を漏らした彼の傍に座り込み、パックを開ける。
「すっかり忘れてたんだけどね、ちょうど帰りに寄ったコンビニでこれ見つけてラッキーって思って。コンビニでショートケーキって、意外になくない? ユキ、イチゴ好きでしょ?」
ほら、俺栃木出身じゃん? いつか、イチゴが好きだという話をした後、彼はそう付け足した。そっか、とちおとめってあるもんね、と私は答えて、イチゴが好きな彼を愛おしく見つめていた。こんなに何の変哲もない、別段可愛くもないし大して面白いことも言えない私のことを好きになってくれてありがとう。いつも私のことを大切にしてくれてありがとう。荷物も持ってくれるしおかずは取り分けてくれるし洗い物もしてくれるしいつもいつも私が辛い時にはよく頑張ったねって頭を撫でてくれて抱きしめてくれて疲れでへたり込んでる時は拭き取りクレンジングで化粧を落としてくれたりマッサージをしてくれてありがとう。こんな私にはもったいない彼氏だ。ずっとそう思っていた。好きで好きで堪らなかった。彼が好きすぎて、好きがパンクして死んでしまうかもと思った。好きだよと毎日伝えても伝え足りなくて、伝え足りなさでパンクしてやっぱり死んでしまうかもと思った。
「ユキ、私のイチゴあげる。好きでしょ?」
その言葉は、私のこと好きでしょと迫っているようで押し付けがましく醜いと分かっているのに手は止まらずにフォークでイチゴを刺していた。
「脂肪分の多いもの、気持ち悪くなるんだ」
拒絶された私の押し付けは行き場を失い、フォークは空を立ち往生する。
「イチゴだけでいいから食べない?」
彼は空洞のような黒目でしっかりと私を見つめたまま微かに首を振り、また目を閉じた。うっと声が出て、次の瞬間には「うわあっ」と号泣していた。ぼろぼろと涙が出て止まらない。その様子はパチンコのフィーバーを思わせた。ぽろぽろぽろぽろと玉が排出されていくパチンコ台のようだった。私はパチンコ台になって玉を吐き出す。一銭にもならない玉を吐き出す。「どうして」「どうして」「ユキ」私の嘆きは無視されたまま、彼は目を開けない。溢れる涙は手元のショートケーキを濡らし生クリームが溶け、安っぽいスカスカのスポンジがふやけていく。号泣したまま衝動的にケーキのパックを床に投げつけ、バッグからスマホを取り出す。連絡帳をスクロールして一度も掛けたことのなかった彼のお母さんに電話を掛ける。初めて挨拶しに行った日、これからも行成のことをよろしくね、何かあったらいつでも連絡してと渡された電話番号だった。最初で最後の電話は、私の号泣で始まる。
お母さん、もう私では無理なんです。彼は働けない、バンドももうやってない、もう外に出ることもできないんです。コンビニにも行けないトイレに行くこととたまにお風呂に入ることとご飯を食べることしかできないんです。私はもう、私には限界なんです助けてください。お願いです助けてください。泣きながら一気に捲したてる。「駄目なんです私じゃ駄目なんです。私じゃ駄目なんです」。私の叫びは私に言い聞かせているようでもあって、言えば言うほど興奮が加速していく。「助けて」。いや違う。私は今ユキに呼びかけてるんだ。私は今、「助けて」とユキに縋っているのだ。電話の切るマークをタップして通話を切ると、私はスマホを床に投げつけ布団を剥がしてユキに馬乗りになる。
「ユキ!」
目をつむったまま、彼は眉間に皺を寄せ苦痛に顔を歪める。
「助けて!」
両手で胸元を掴まれた彼から苦痛の呻きが漏れる。
「私を助けて!」
馬乗りになった私の背中に冷たい彼の手が回る。死を間近に控えた末期患者のように今にも息絶えそうな弱い力で抱き寄せられた私は、ユキの胸に顔を埋めて久しぶりの安堵に肩で息をしながら耽溺する。
「無理だよ」
ユキの諦念が音と振動で伝わる。
「無理なんだ」
悲惨な泣き声は彼の胸に吸収されていく。それでもどんなに声をあげても、もう彼には届かない。何かの偶然で届いたとしても、彼は私を救えない。
「ごめん」
汗と涙でびしょびしょになった私に届いたのは簡潔な謝罪の言葉で、それでも私は、彼が数ヶ月、いや、ほとんど一年ぶりに私に声を掛けてくれたことに気づく。ずっと自分の話しかしなかった彼が、私という存在を認識して私に声を掛けてくれたことに気づく。悲しくて寂しくて、悔しくて情けなくて、本当に馬鹿みたいに、南極の氷の上に裸足で佇むみたいに寒くて一人だった。私を抱きしめる彼の腕には何のエネルギーも感じられない。カカシみたいだ。私は人形に縋る頭のおかしい人間のようだ。美しい人形に魅せられた。夢中になって愛した。美しい彼に魅せられた私は、こうして剥き出しになった彼の本性に触れ、恐れ戦きながらも彼に縋り結局彼を諦める。無理なのだ。私も彼も、もう無理なのだ。
「無理なんだよ」。寄り添うように、行成は優しい声で囁いた。散々泣いて、行成の胸から顔を上げると暗いところから突然明るいところに出た時のように激しい眩暈がして視線がふらつく。霞んだ視界の端に、生クリームに突っ込んだスマホが見えた。
行成の両親は次の日の朝家にやって来た。両親がやって来てもほとんど言葉を発することのできない息子を見て、二人は驚いた様子だったけれど、彼や私を責めることはしなかった。行成、一緒に家に帰ろう、しっかり休んで、ゆっくりでいいから、少しずつ治していこう、ミナさんも大変だったでしょう、迷惑かけたね、ちゃんと責任持って面倒見るから心配しないでね。彼の状態を把握したお母さんはそう言った。
「行成、高校生の頃にもしばらくこうして鬱みたいになって引きこもったことがあってね、その時は半年くらいで治ったんだけど」
お母さんの言葉は、彼が鬱の症状を現し始めてから半年ほどで浮気に走った私に僅かに罪悪感を与えた。
「経過、連絡しますね」
じっと視線を落としたまま逡巡して、いいですと呟く。
「彼も、それを望んでいないと思います」
私がそう言った時、お父さんが行成の肩を抱いて寝室から出てきた。お父さんは息子の症状を受け入れられないのか、ここに来てから寡黙なまま私には何も言わなかった。もう行くの? と慌てた様子のお母さんは、荷物とかそういうことはまたメールか電話でやりとりしましょうと言って立ち上がった。玄関まで連れて来られた行成は一度だけ私を振り返る。でも何も言わないままお父さんに促されて靴を履いた。エレベーターに乗るところまで見送ったけれど、行成はもう二度と私と目を合わせなかった。一言声をかけたいという思いは、私の視線から逃げるユキの淀んだ目によってかき消された。ちゃんと治してね、出かかっていたその言葉は、自分の狭量と無力さの証にしかならず自分をより苦しめることも分かっていた。
行成のいない部屋は寂しいようで清々しくもあり、まるで市に電話を掛けて粗大ゴミを捨てたような気分になる。私は彼を捨てたのだろうか。いやずっと前に私は捨てられていた。どうしてこんなことになったのか、自分にもっとできることがあったんじゃないか、何か自分に間違いがあったんじゃないか、そんな風に思うだろうという予想は裏切られ、私にはもうただの一ミリも感情らしきものは残っていなかった。
今日三本目のストロングを傾けながら、寝室でぼんやりと抜け殻になったベッドを見つめる。ふと、彼のギターケースがクローゼットに入れっぱなしのままだったことを思い出す。彼がこのベッドで歌ってくれた曲の歌詞は一字一句記憶していて、それでもこの状況で彼の作ったセンチメンタルな歌詞を口にすることに躊躇して、鼻歌を歌う。涙は出なかった。涙を流すには、この世界はあまりにも濁っている。ストロングを呷りながら、行成分広くなったベッドに大きく寝転び、スマホでパズルゲームを始める。
ピンポーンとインターホンが鳴ったのは、五本目のストロングが空いた頃だった。行成が普通にバイトから帰ってきていた頃の記憶が蘇り、ユキ? と思わず呟きを漏らしながら玄関に駆け寄る。
「宅配便です。サインお願いします」
顔見知りの宅配便業者から段ボールを受け取りドアを閉めると、その場で無表情のまま段ボールのガムテープを引っぺがす。大量のストロングの空き缶が、そこにあった。