「書くことが、もたらしてくれた“すごく幸せな産みの苦しみの時間”」――初エッセイ集『いろいろ』上白石萌音インタビュー
公開日:2021/10/8
何気ない日常の断片や去来する思いを綴った50篇のエッセイ、家族との再会や、ゆかりの地を巡った故郷・鹿児島ルポ、初の創作となる掌編小説……。この一冊からは、“上白石萌音”から感じられる透明感の核が、タイトルどおり、“いろいろ”見えてくる。初の書下ろし作品が生まれた過程、そのさなかで感じていたこと、そして“書く”という表現に込めた想いについて伺った。
取材・文=河村道子 写真=干川 修
エッセイ50篇のタイトルをすべて“動詞”にして
“わたしの好きな音”というひと言から始まる≪叩く≫という一篇では、日常のなかに響く様々な音が行の間に聞こえてくる。なかでも“ダントツで好き”と綴っているのは、ノートパソコンのキーボードを叩く音。“今いい具合に爪が伸びていて、ことさら素適な音を鳴らしながらエッセイを書いている”。そんな心地よさが伝播してくるリズミカルで端正な文体で綴られるエッセイの数は50篇。タイトルはすべて“動詞”だ。
「辞書をめくるのが好きで、ひも解いてはいつも言葉を眺めているんです。その感じで、ひとつの単語について思うこと、そこから想像されることを書いてみるのが、ラインナップを見たときも読みやすいものになるのではないかと思いました。さらに文章初心者である自分にとっても書きやすいのではないかと」
読書家として知られ、語る言葉に趣きと美しさを感じられるこの人が、文章をまた新たな表現方法のひとつにすることは自然な流れだったように思う。だが、本好きだからこそのためらいもあったという。
「素人が手を出してはいけない領域、それを私がするのはおこがましいと思っていたんです。けれどそうした自分を突き動かしたのは、やっぱり“本が好き”という気持ちでした。技術もないし、格好つけてしまったら恥ずかしい。とにかく着飾らず、素直にありのままを書くことしかできないな、と、素っ裸になったつもりで、一篇、一篇を綴っていきました」
“動詞”というシンプルなテーマは、当初、ジャンプ台にもなったという。けれど執筆から3ヵ月ほどを経たとき、あることに気付いてしまった。
「動詞って、ごまかせないじゃないですか。すごく日常的ですし、本質的なものだから、“これはすごい挑戦になってしまった”と気付いてしまったんです。ゆえに最後まで書けなかったのが、≪演じる≫や≪歌う≫というエッセイ。本質を見据えなければならない怖さや目を背けていたところを直視しなければいけないことがたくさんあって。でもこれを機に、自分の嫌なところや思い出したくないことも、しっかり見つめてみようと思いました」
だが一篇、一篇、読み終えたあとの余韻は心地いい。
「どんどん陰に入ってしまうこともあったんですけれど、どの一篇もすべて前向きに終わらせたいと思いました。自分なりに、“こういう風に考えればいいんだ”というところへ向かっていきました。今、振り返ってみると、苦しみはあったものの、それは味わって良かった苦しみ。今年でお仕事を始めてからちょうど10年になりますが、その節目に、本を書くことで、こんなにも自分のことを考えられる機会をいただけて、本当にありがたかったなと思います」
衝動でこぼれた言葉のなかから現れ、読み手とつながる普遍性
“このお仕事をしていると、「言葉」に殴り倒されることがしょっちゅうある”と語りゆく≪参る≫では、“たぶん鋼の精神は手に入らない”と素直な気持ちを吐露している。
「つらい気持ちや思い出を、うわぁーっと衝動で書いたものもいくつかあります。私はわりと気持ちのアップダウンが少ないほうなので、そうなることは少ないのですが……」
“何をしても上手くいかないことが続いた”から始まる≪駆られる≫では、自己嫌悪の大波に溺れてしまいそうになり、畳みかけの洗濯物をほっぽり出して外に出た休日の行動が綴られていく。夜7時、無性に餃子が食べたくなり、スーパーで材料を買い込んで、ひとりで作り、ひとりで食べた餃子。それは、“とても粗くてとても美味しかった”という言葉がしっぽりと落ちてくる。
「餃子をつくるまでの数時間は、いろいろ考えていられないくらいに煮詰まっちゃっていて。翌朝、起きたとき、“あ、私、昨晩、すごい煮詰まってたな(笑)、せっかくだから書いてみよう”と書いた一篇です」
勢いによって、ふと零れた言葉に宿ったのは、読む人の気持ちに引っ掛かっていくもの。それは“こういうとき、あるよね”という、やさしい連帯感を、読む人との間に生んでいく。上白石さんのことなのに、なぜか自分のことのように思えてしまう。素直で、謙虚で、真摯な、心地よい文章からは、そんな普遍性が顔を出す。
日々の暮らしのなかでふと思い出すこと、その“ふと”を大切にしていました
“わたしはとても目が悪い。コンタクトの度数を聞かれても恥ずかしくて言えないほど悪い”から始まる≪視る≫は、小学二年生の頃の“メガネデビューの日”から始まる。そこから掘り起こされていく、照れ、自意識などの感情には、どこか懐かしさを感じてしまう。
「小・中学生の頃のことも時間を遡って書いていますが、きっかけはすべて今日起きた出来事から、ふと思い出したことに由来しています。≪視る≫を書いたときも、朝、起きて、コンタクトをつける前のぼやっとした視界のなか、“あ、今日も見えないな”と思っていたところに、その記憶がふと立ち上がってきたんです。書いている時間は、日々の暮らしのなかの、その“ふと”をすごく大切にしていました。“思い出したことを、根詰めて思う”みたいな」
女優としての自身について“思う”も顔を出す。なかでも、この11月から放送がスタートするNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』で演じる安子役についての思いは、オーディションで出演が決定した≪決まる≫を皮切りに、この1冊のなかに、ときどき現れてくる。
「この本のなかの“カムカム”率、高いかもしれません(笑)。ちょうど執筆が始まるくらいから私のなかで安子さんが動き出し、この一冊と安子はずっとともにいたので。自分の口から語ることが、作品をご覧になる方の邪魔になるのは嫌だという思いを、私は常に持っているので、“そうならないといいな”と思いつつ、けれど、作品をご覧になることが楽しみになるように書くことができたら、と考えながら書いていました」
一人が好きで、独りが怖い。自分のなかの矛盾と対峙して
作品に入る前、舞台となる土地やモデルになる場所を訪れることについて綴った≪赴く≫では、演じる役が行くべき道を案内してくれる“一人旅の顔をした二人旅”が描かれる。
「実在した人の足跡を辿る時はいつも、なんとも言えない感動があります。≪赴く≫は、舞台『組曲虐殺』で、小林多喜二を愛し、愛された田口瀧子(本名・田口タキ)さんを演じさせていただくとき、小樽へ赴いたときのことを綴りました」
その一篇では、役に向き合った心情とともに、その土地の風景や音、温度、湿度までもが読み手にも実感として伝わってくる。
「路地を入ると、メインストリートの喧噪が突然消えるように、動と静がはっきりとし、そのギャップがとても印象的な場所だったんです。うだるような暑さのなか、坂道を登り、文学資料館に一歩、入ったときの、涼やかさや、しーんとした静けさも心に残っていて。『組曲虐殺』は、私のなかですごく大きな作品だったので、あの役に向き合うきっかけとなった出来事は記しておきたいなと思いました」
そこで語られる、“この手の旅にはいつも一人で行く。でも独りではない”という感覚は、このエッセイ集とも、どこか通じている。
「私は人が大勢いる場所って苦手で、一人になりたい、と思うことがよくあるんです。でも独りでお店に行ってご飯を食べたり、休日に誰とも会わなかったりということはすごく淋しくて。一人が好きで、独りが怖い。その気持ちは自分のなかでも矛盾しているなと思いつつ、ずっと持ち続けている感覚です。このエッセイを書いているときは、実際一人だったのに、独りではなかった。思い出のなかにいろんな人が現れてくるし、自分について、まるでもうひとりの自分が見てくれているような気がして。私はけっこう人見知りで、なかなか人に心を開けないところがあるのですが、基本的に人は大好き。書いている間は、そうした自分のいろんな矛盾とも向き合いました。そうしたぐちゃぐちゃなものも、文章のなかにはすごく残したかった」
刻まれている率直な“ぐちゃぐちゃ”。けれどそれこそが、この本を幾度も開き、読んでしまいたくなるところなのだと思う。
本をつくる過程で、さらに“本”が愛おしくなっていった
“読書という行為以前に、「本」そのものが物質として好き”という言葉が、≪はじめに≫には記されている。その言葉どおり、この本には上白石さんの“好き”が詰め込まれている。エッセイの他に、故郷・鹿児島小旅行リポート、そしてこの本ができるまでの過程を追った≪『いろいろ』ができるまで≫は、上白石さんの本への愛着が感じられるページだ。
「なんとなく想像はついていましたが、一冊の本をつくるために、これほどこまやかな過程があることは初めて知りました。紙も、文字も、スピンの色も、自分で選ぶということができる、そのひとつひとつの過程に携わることができたということが、うれしくて、楽しくて。そうして本がつくられているということを知ると、改めて、自分の本棚にある一冊、一冊が大切に、愛おしく思えてきました。どんどんデジタル化が進んでいる今だからこそ、紙を触りたくなるような本にしたいなと思いました」
“好き”が詰まった“おもちゃ箱”のような一冊にしたい、と願った本書には、読者が出会う驚きや発見がいっぱい。ページのところどころには、上白石さんが日常のなかで撮りためてきた写真がさりげなく配されている。
「すべて使い捨てカメラで撮っていたんです。写真は、その近くにあるエッセイの主題に合わせたというわけではなく、たとえば、小樽を綴った≪赴く≫のページの写真は、小樽ではなく、両国なんです」
けれど、そんな文章と写真との“ずれ”や“隙間”のようなものが、この一冊全体に、見る人の想像を広げる“余白”のようなものを生んでいる。
「使い捨てカメラって、ピントも自分で合わせられないし、思いがけない光も入ってきてしまうんです。でもそれって紛れもない“瞬間”の記録で。そういう意味も含められたらいいなと思いました。自分の意図ではどうしようもできない、ということも、この本のなかには込めたかった」
小説を書くことは、脚本を読むことと、どこか似ていた
さらに本書では、初の小説にも挑戦した。短篇小説『ほどける』は、右目から涙が止まらなくなってしまった娘と、左の口角が下がらなくなってしまった母の話。
「私には、まったく泣けなくなった時期と、涙が止まらなくなってしまった時期があって。どちらもすごくつらい時期だったんですけれど、この経験が、何か物語の設定の引っ掛かりになるかなとずっと考えていて。涙が止まらない女の子と、逆の設定の人もつくろうと思いつき、“あ、そうだ、母娘にしてみよう”って」
「小説を読むのは大好きなのに、書くことは、すごく勇気のいることでした」という。
「けれど自分ではない人を動かし、喋らせて、ここにどういうものが見えているかな、どういう音が聞こえているかなと、書いていくのはすごく楽しかったです。脚本を読んでいるときと、どこかよく似ていました。脚本を読むときって、どんな部屋なんだろうとか、ここで、この人物には、どんなものが見えているのか、空は晴れているのか、曇っているのかなど、映像を思い浮かべながら読むので、小説は、その逆をしているような感覚がありました」
“書く”という表現は一番、人間臭い行為だと思いました
俳優、声優、歌手など、様々な表現を持つ上白石さんにとって、“書く”という表現形態は、どんな思いを自身にもたらしてくれたのだろう。
「一番、人間臭い行為だったなと思います。“書く”は、しようと思えば、誰もができること。だからこそ生き様がすべて出るし、自分から逃げられない行為であることをすごく感じました。そして、“あ、私、こんな言葉も持っていたんだ”ということにも気付かされました。それは、これまで私自身が読んできた本が大きな糧になっていると感じます。好きな作家さん、憧れの文体というものはなんとなくありましたが、書いているうちに、人の真似ではない、自分の言葉みたいなものが見えてきたような気がして。私がこれまで読んできた作家の方々も、いろいろ模索するなか、独自の文体や言葉の選び方を見つけてきたわけで、そうして個性って生まれていくんだなと。と同時に、誰かの真似ではない、自分自身の言葉、文体に出会えたというのは、読書をすることによって、どんどん広がっていった世界が、書くことで、どんどん自分に寄ってきたような感覚でした」
「私はやっぱり言葉が好きなんですよね」。ひと息をつき、柔らかな笑みとともに、ふと零れたそのひと言が、この一冊を物語っている。
「いろいろ言葉を探しながら、書いている時間は、難しかったのと同時に本当に楽しかった。すごく幸せな産みの苦しみの時間でした」
“今”の上白石萌音が、真摯に現れている一冊の本。読者の方に手渡すにあたり、という言葉に、「軽い気持ちで手に取っていただけたら……」と、戸惑うように返ってきた言葉もまた上白石さんらしい。
「私というひとりの、本当に普通の人間が、悩んだり、もがいたりしながら、日々を生きているということが、恥ずかしいくらい正直に綴られています。この本を手に取られて、“こういう人もいるんだ”“私も頑張れるかな”と思っていただけたら、すごく幸せです」
スタイリング=嶋岡隆・北村梓(OfficeShimarl) ヘアメイク=冨永朋子(アルール) 衣装=ワンピース 39,600円(nooy)、イヤリング 3,960円(Matilda rose)、その他スタイリスト私物 nooy(ヌーイ) 東京都中央区日本橋堀留町1-2-9 3F TEL:03-6231-0933 Matilda rose(マチルダローズ) https://www.matildarose-online.com
かみしらいし・もね●1998年、鹿児島県生まれ。俳優のほか、歌手、ナレーター、声優など幅広く活躍。ドラマ『ホクサイと飯さえあれば』『恋はつづくよどこまでも』、映画『舞妓はレディ』『君の名は。』、舞台『組曲虐殺』『ナイツ・テイル―騎士物語―』など出演作多数。11/1より放送の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』ではヒロイン・安子を演じる。