「僕は自分で“ライブの場”を作らないといけない」。又吉直樹がオフィシャルコミュニティ『月と散文』を立ち上げた理由

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/20

又吉直樹

 芸能人の活躍の場がテレビなどから移行しつつある状況は、作家にとっても同様なのかもしれない。というのも、又吉直樹氏が『月と散文』という有料会員制コミュニティを立ち上げたからだ。そしてこのコミュニティサイトが今後、又吉氏の文筆活動の中心となっていくという。毎週新作原稿を3本投稿すると自らルールを決めているものの、内容やテーマ、文字数、場合によっては締め切りさえも又吉氏次第。かつファンにとっては作品の制作過程をリアルタイムで共有し、コメント機能などで著者との繋がりを実感できる。文芸誌や新聞といった既存メディアでは叶わなかったメリットを著者・読者共に享受できるのだ。なぜ又吉氏は、文芸界で先陣を切り独自の道を進む決断を下したのか。その動機と新たな活動で感じた思いを語ってもらった。

(撮影=三宅勝士)

「陽の当たらないところにいる人」が僕の一番書きたいこと

――『月と散文』って素敵なタイトルですね。

又吉直樹氏(以下、又吉):マネージャーと喋りながら考えてたんですけど、名前を考えるのはなかなか難しい作業で。やっぱり僕の好きなものを付けるのがいいかなと思ったんですよね。だったら「月」だなってなって、それで『月の会』にしようかと思ったんですけど、ちょっと“怖い”感じが出る気がして。じゃあ、月ともう一個好きなものを組み合わせようと考えて「散文」だと。収まりがいいし、やることも伝わるかなと思って、この名前になりました。

――又吉さんが月が好きって、ものすごくしっくりきます。

又吉:太陽も好きなんですけど、夕暮れ時の沈みかかって黄色い光がだいぶ弱ってきたあたりなんで。やっぱり夜寄りというか、月が子供の頃から好きですね。

――子供の頃に月に特別な感情を持つきっかけがあったんですか?

又吉:ある晩、突然「一個だけめちゃくちゃでかい星があるな」と思ったんです、「みんな月だからOKにしてるけど、あれでかいよな……」って。なんであれだけあんなでかいんやろと思ったときに、「月」がそれまで思っていたものから一歩違うステージに行ったというか、すごく奇妙なものにも見えて。その頃からですね。

――やっぱり又吉さんの頭の中は独特ですね(笑)

又吉:バグったんだと思うんですけどね、一瞬。「あれ、なんであれだけあんなでかいんやろ」って見えてしまったんですよね。そこから「なんか変やな」と思いながらも距離感が近くなったというか、月について考えることとか、「どこにあんねやろ」って見ることが増えました。

――ちょっと情緒的な解釈になりますけど、「月」の異常なデカさ、星としては異端の存在という部分と、周囲や社会となじめない又吉さん自身を重ねるようなところがあったんですかね。

又吉:わかりやすく重ねたことはなかったです。でも僕は、みんなの中心でというようなタイプではないし、気がついたら出てたり出てなかったりするし、昼より夜という印象でしょうし。だから親しみは感じますよね。

又吉直樹

――ところでなぜ『月と散文』という場を自ら持とうと思ったのか、うかがいたいんです。というのも、又吉さんは指折りの人気作家で、それこそ文芸誌や新聞とか、既存の媒体から連載場所を選べる立場じゃないですか。

又吉:シンガーソングライターに憧れがあるんですよね。一人で曲を作って歌詞を書いて、一人でライブをやって成立させるのはすごいな、って。僕が世に出られたのはあくまでもピースというコンビとしてで、相方の綾部がおったときは2人でそれができてました。綾部がニューヨークに行って一人になってからも、『実験の夜』(※2012年より又吉が独自に毎月開催していたライブ。今年4月、第100回を迎えたのを機に終了した)みたいなライブができてたときは、「一人でも舞台に立てているな、一人でできているな」という気持ちが持ててたんですけど、コロナになってそれもできなくなったら自分の存在意義というか、価値みたいなものが見えにくくなったんです。それで「一人で立てる場所を持たないといけない」っていう意識が強くなったんですね。綾部がいない僕は、自立し続けていなければならないので。

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――いざ『月と散文』を始めてみて、手ごたえだったり気づきはありましたか?

又吉:結局ね、僕は「妖怪」とか「怪人」のことを書くんですよ。そしてそれは、僕にとってとても重要なんだと思いました。だって書こうと思っていないんで。気がつくと、怪人のこととか、水木しげる先生のこと書いていたり。「僕、水木先生のことこう思ってたんや」ってあらためて気づいた(笑)。なんかね、そういう発見がありますね。

――『怪人インタビュー』(「実験」第2回)に書かれていたことですね。「先生は人間以外の存在を排除せず、いつでも受け入れてくださった」「絶対悪として描かないことが肝心なのです。いじけていた俺達にとって先生は特別な方です」という文章が印象的でした。

又吉:意識はしてなかったけど、ピースとしても、社会のど真ん中じゃなくて端っこのほうにいるキャラクターが出てくる、そんなネタばかりやってたし、そもそも芸人自体ど真ん中の人たちではないじゃないですか。僕の書いた『火花』も『劇場』も『人間』も、基本的には社会の端のほうのギリギリの所にいる人を描いている。でも決してそれを描くのを特別なルールにしているわけじゃない。「陽の当たらないところにいる人」というのが、自分の一番書きたいことだったり気になることだったりするんだな、と思いましたね。

――社会の端にしかいられない、陽の当たらない場所や夜にしかいられない人たちって、又吉さんにとってどんな存在なんでしょう、悲しい存在なんですか?

又吉:僕の場合は、敗北感は常にあります。その繰り返しです、「真ん中には行かれへんな」とか。

――その敗北感は、真ん中に立つ人たちに対してですか?

又吉:僕と同じ世代で活躍している人は同業者でもいますし、異なるジャンルにもすごい人がいっぱいいるのを目の当たりにしてますからね。そういう人たちの活動にたくさんの人たちが夢中になって、僕もすごい「かっこいいな」と思うんです。でも一方で夢中にはなれない。僕は手放しで、「あなたの表現に僕のすべてを託して、それだけで満足です」とはタイプ的に思えないんですよね。

――誰かの活躍に敗北感を感じてしまい、それがゆえにその人の表現や活動をストレートに受け入れられない、ということですか? 嫉妬というかやっかみというか……。

又吉:夢中にはなれないという意識があるだけで、ファンを公言している人たちと話をすると、僕のほうが好きだと感じるときが多々あるんです。答え合わせをすると大体僕のほうが好き(笑)。知り合いだったり友達だったりが、あのミュージシャンがすごい、あの俳優がすごいって言うんです。で、「すごいとは思うけど」とか僕は返すんですよ、「各々が自分のやりたいこと、やるべきことを表現するべきや」みたいなことを。でも多くの場合、僕のほうが絶対にその人を評価して、めっちゃ楽しませてもらっている(笑)。みんなの言う「好き」ってそういうことなんやなあ、って思います。

――又吉さんの「愛」はでかすぎるんでしょうね。

又吉:どうなんでしょうね。でも、どう面白がるかという点に関して、しつこさとか粘り強さはあるのかもしれないですね。好きになると、ミュージシャンだったら曲は全て聴いて歌詞も読んで、ライブも行って。小説家だったら作品を全部読んで、繰り返し読んで。昔の作家だったらどの辺に住んでたんかなってとこまで調べて、なるほどな、こういう景色の中で活動してたんかと思いを巡らせて。そんなとこまでいっても、特別ファンとは思わない。「いいですよね、あの人」くらいでそういう行動を僕はとる(笑)。確かにそういう傾向はあるのかもしれないですよね。