江戸時代の戦場は城中にあり!? 情報戦の中で踊らされずに家を守った細川家をひもとく1冊
公開日:2021/10/27
政治にとんと興味のない私が、面白いと思った時期がある。それは、細川護熙(もりひろ)氏が首相になった1993年のこと。戦国大名のひとり、細川忠興(ただおき)の直系の子孫が現代で国のトップになるということに、ロマンを感じたのだ。
奇しくも同年に刊行された、関ケ原の合戦から大坂の陣にも参戦し島原の乱を鎮めるまでの細川家についての研究本が、『宮廷政治 江戸城における細川家の生き残り戦略(角川新書)』(山本博文/KADOKAWA)として復刊したのを知った。残念ながら20歳かそこらだった私は、ロマンは感じても歴史の勉強は苦手で、漫画やゲームなどの創作物で知っている程度だったため、この手の本には触れてこなかった。20年以上を経て、ようやく歴史が面白くなってきたところだ。
本書のキーワードとなるのは2つ。1つは戦国時代が終わって江戸時代に入り、刀や槍に代わる武器となったのが「手紙」ということ。最近では、連絡はLINEやメール、SNSという人もいるだろう。本人同士で直接やり取りするのと違い、江戸時代の大名は右筆(ゆうひつ)と呼ばれる秘書役に話して手紙を書かせるのが普通であったが、しかし「完全に信頼できる保証はない」ため、将軍家にかかわる噂や家臣に聞かせたくないやり取りなどは、自筆で書いたという。
本書は、忠興・忠利(ただとし)親子の往復書状を中心に、忠利の子供の光尚(みつなお)や他の大名などへの書状を史料とし、さまざまな考察を行っている。その書状を送る方法には格式があり、最も丁重なのが使者を立てて相手方で口上を述べるというもので、他には家臣に託す「便宜」か、飛脚を雇うこととなる。いずれの方法にせよ、江戸と小倉間の所要日数は早くて8~9日、遅いと20日以上かかることも珍しくなく、事故を起こすこともある。だから返事を待たずに重ねて次の書状を送ったり、誰かに見られたときのために一種の暗号のような文書にしたりなんてこともあったそうだ。二代将軍・徳川秀忠が病気のときに、忠利が忠興に病状を知らせる書状の中で秀忠を刀に見立てたものの、事前に打ち合わせていた訳ではないので、記述の意図が伝わらなかった、というのには思わず笑ってしまった。
もう1つのキーワードは、タイトルにもなっている「宮廷政治」だ。初版が刊行されたさいに、「宮廷とは朝廷のことであるはずだ」という批判があったそうだが、著者は江戸時代初期の政治にフランス宮廷のイメージを重ねたと述べている。ヴェルサイユ宮殿に集う貴族たちは、「王の着替えや洗面など私的な行為に関与することが名誉とされていた」ということからすれば、実効支配者が望むことに否は許されなかった。
たとえば現代でこそ伝統芸能とされている「能」は当時、気軽に楽しめる娯楽だったらしく、三代将軍・徳川家光が好きであったことから、「命じられれば、たとえ不得手でも舞わねばならない」のを、著者が「カラオケ好きの上司に誘われて」しかたなく練習するサラリーマンに重ねたのも分かる気がする。なにしろ、家光に能を舞うよう命じられた将軍の近臣から、練習場所を貸してくれと頼み込まれた忠興がその練習風景を見て、なかなか上手にならない様子に苦笑している手紙も残っているそうだ。
現代のサラリーマンにも通じる状況になんとも微笑ましく思えてしまうものだが、本人たちにすれば戦に出陣するも同様の覚悟だったかもしれない。政治を政(まつりごと)と云うのは、神に供物を捧げて舞い踊り神託を受け治世したのがお祭りの起源だからとする説を想起させられた。国を家を守るために、命懸けで踊らなければならないとは実に大変なことである。
文=清水銀嶺