銭湯の壁のペンキ絵はなぜ描かれるようになったの? 意外と知らない&知れば楽しい「銭湯学」
更新日:2021/10/21
1日の終わりに汗を流し、ほっとできる銭湯は、かつての日本で日常風景のひとつだった。ところが、近年、銭湯の数は激減。東京では最盛期の昭和43年には2687軒あったものの、現在では493軒(2021年8月時点)にまで減少した。
しかし、銭湯を心から愛し、足しげく通うファンは今なお健在。施設や設備を清潔・快適に維持したり、利用者のニーズに合わせて改築したりと営業努力を重ねている銭湯経営者も多くいる。
『懐かしくて新しい「銭湯学」 お風呂屋さんを愉しむとっておき案内』(町田忍:監修/メイツ出版)は、そんな銭湯文化を詳しく知ることのできる1冊。監修は、銭湯研究の第一人者の町田忍氏。一般社団法人日本銭湯文化協会の理事であり、これまでも銭湯に関するさまざまな書籍を手がけ、魅力を伝えてきた。
本書では、意外と知らない銭湯の歴史を紹介。全国各地の特徴ある銭湯にわくわくする「銭湯の楽しみ方ガイドブック」となっている。
歴史にびっくり! 江戸に銭湯が増えたのは「火の用心」のためだった
そもそも日本人は、なぜ入浴するようになったのか。町田氏いわく、入浴習慣のはじまりは神に祈りを捧げる時に心身を清める「禊」に遡るのだそう。
仏教の伝来後、寺院には浴室が設けられ、僧侶たちが身を清めるようになった。そして、法会(仏法に関した集会)に集まった民衆の心身を清めたり、治療したりするために浴室を解放する「施浴」が行われるようになったという。
文献で確認できる江戸で最初の銭湯は、天正19年に日本橋の近くにある銭瓶橋のほとりで、伊勢与市という人物が創業した店だ。その後、江戸の町には銭湯が増えるのだが、その理由には、豪商でも家に浴室を持たなかったことや湯を沸かすのにお金がかかったこと以外に、風が強く、乾燥し、火事になりやすかった江戸の土地柄も関係していたのだとか。
江戸の町では、当初「戸棚風呂」と呼ばれる蒸し風呂形式の銭湯が多かった。
だが、次第に湯船に浸かる「湯屋」を好む客が増えていき、明治10年頃には従来と異なり、洗い場が広く、明るくて衛生的な銭湯が神田に開店。「改良風呂」と呼ばれたこの風呂は、現在の銭湯の礎となった。
明治末期から大正時代にかけては衛生面で優れているタイル張りの銭湯が増加。関東大震災後には火災の教訓もあり、タイル張りがより普及。昭和初期になると衛生面を考慮し、カランが登場するなど変化が見られるようになっていったが、第二次世界大戦が起きると空襲や燃料不足などにより銭湯の廃業が相次ぎ、終戦時には都内の銭湯は400軒ほどに。しかし、戦後復興を遂げると店舗数は急増した。
だが、高度経済成長期に入り、各家庭に内風呂が普及し始めると木造の銭湯は少しずつ姿を消し、ビル型銭湯としてリニューアルされることが多くなった。ビル化に伴い、銭湯にはジェットバスや露天風呂が登場。外観も個性的になっていき、現在ではバリアフリー化を進めたり、サウナやプールを設けたりし、多様なニーズに応える店も増えてきている。
時代の変化に合わせ、変わってきた銭湯。その歴史にロマンありだ。
銭湯の壁に「ペンキ絵」が描かれているのはなぜ?
なぜ、こんなところに絵が描かれているのだろう。銭湯で壁に目を向けた時、そう思ったことがある人は多いのでは?
実はこうしたペンキ絵は、東京・千代田区にあった「キカイ湯」から始まったもの。増築の際、2代目のご主人は子どもたちに喜んでもらいたいと考え、静岡出身の川越広四郎という画家に絵を依頼した。
すると、背景画は東京中で評判に。背景画を描く銭湯が全国的に増えていった。ちなみに富士山が描かれていることが多いのは、末広がりのシルエットで縁起が良いと考えられていたからだという。
なお、キカイ湯の背景画が話題になった後には広告代理店が近所の店から広告料を集め、背景画の下に広告を出すように。そして、銭湯へのサービスとして、その広告料で背景画が描かれるようにもなった。
実際、昭和40年代頃の銭湯最盛期には銭湯専門の広告代理店が16社ほどあり、所属する絵師も数十人いたそうだ。
背景画は湿気でいたむため、年に1度描き直す必要があり、絵師たちは1日2~3軒も描いて回るほどの忙しさだった。しかし、時代の流れにより、現在、絵師は全国でわずか数人となっている。
あの目を引くペンキ絵は絵師たちの努力の結晶であり、誕生の裏には利用者を思いやる銭湯経営者の愛があったことを知ると、銭湯という空間がより愛おしく思えてならない。
いつ訪れても快く迎え入れてくれ、童心に帰れる温かさが銭湯にはある。これまで築いてきた歴史ごと愛され、この先も銭湯文化が受け継がれていくことを心より願いたい。
文=古川諭香