家族の「あるべき形」に傷つけられてきた大人たち…「大人だって泣きたくなる」連作短編集

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/27

大人は泣かないと思っていた
『大人は泣かないと思っていた』(寺地はるな/集英社文庫)

 大人は泣かないと思っていた、というのが真実ではないことを、たいていの大人は知っている。泣かないのではなく、なかなか人前では泣けなくなるのだということも、泣いたところで何も解決しないし誰も助けてなどくれないから、いつしか涙が渇いてしまっただけなのだということも。寺地はるな氏の『大人は泣かないと思っていた』(集英社文庫)は、それでもこらえきれずに零れ落ちた大人たちの涙や、泣きだしたいほど切実な瞬間を集めた、連作短編集である。

 舞台となる耳中市は、〈そもそも耳中市を擁する県自体が九州というくくりで見ても、日本というくくりで見てもひときわマイナーな存在〉という田舎町で、主人公のひとり、時田翼(32歳)の住む旧肘差村を〈「でも肘差よりはマシ」と思うことによって〉もとからの耳中市民は〈必死にそのプライドを守っている〉。はたから見ればどうでもいい序列が、いい歳をした大人たちのあいだに強固に存在しているということ、理不尽は笑って受け流すしかないということが序盤でちらりと語られるだけで、その土地の“生きにくさ”がありありと浮かびあがる。お菓子作りが好きで、お酒はほとんど飲まず、独身で、飲んだくれの父親とふたり暮らしの翼だけでなく、序列の上位になんの違和感もなく溶け込めてしまう人以外は、きっとみんな、泣きたいほど理不尽な瞬間を「そういうものだ」と諦めながら、心をちょっと鈍感にすることで生き抜いているだろうということも。

 翼の家からこっそりゆずを盗み続けていた小柳レモンという22歳の女性は、「そういう親なの。レモンって名づけちゃうような」と言う。けれど彼女の母親は、仕事に誇りをもって働き続け、女手ひとつでレモンを育てあげたカッコいい看護師で、“そういう親”としてイメージされる人では、決してない。いや、“そういう親”だったとして、何が悪いのか。子どもに愛情をもって名付け、慈しみ、育てたのであれば、それが“ふつう”じゃなくても誰に謗られるいわれもない。母が再婚した義父との関係を、レモンが若くてかわいいからといって、当時女子高生だったからといって、無関係の他人に邪推される屈辱を受けるいわれもない。けれどそうやって、記号で相手を判断し、一般論を盾にあけすけに他者を傷つける人たちは、世の中に少なくない。耳中市のように、序列が強固な社会ではとくに。

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「市町村合併もしたことだし、わたしも自分の可能性を信じたい」と言って、翼が大学生のときに家を出ていってしまった母の広海や、恋人が年上でしかもバツイチというだけで結婚を反対されている翼の幼なじみ・鉄也など、本作では耳中市の“ふつう”からはちょっとそれた人たちが登場する。どんなに厄介でも簡単には切り捨てられない、切り捨てることまではしたくないしがらみのなかで、どうすればいいかわからないこと、わからないで済ませなくてはならないことは、たくさんある。でもそれが、大切な人の尊厳を傷つけ、壊すことになってしまうのだとしたら。ときには暴挙ともとれる抵抗に、出なくてはならない瞬間もきっとある。

 懸命に自分と自分の大事な人たちの幸せを模索する彼らの姿を通じて、私たちはそのための勇気をもらう。泣いてもいいから明日も一緒に生きようと、物語に手を差し伸べられているような気がするのである。

文=立花もも