特別試し読み第2回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/4

 白岩玄・山崎ナオコーラ著の書籍『ミルクとコロナ』「before corona」「under corona」から、厳選して全6回連載でお届けします。今回は第2回です。「野ブタ。をプロデュース」の著者・白岩玄さん、「人のセックスを笑うな」の著者・山崎ナオコーラさん。2004年、ともに20代で「文藝賞」を受賞し、作家デビュー。子どもが生まれたことをきっかけに、育児にまつわるエッセイの交換を始める。約4年間にわたって交わされた子育て考察エッセイ!

ミルクとコロナ
『ミルクとコロナ』(白岩玄山崎ナオコーラ/河出書房新社)

立ち会い出産は難しい 白岩玄

ミルクとコロナ
イラスト:白岩玄

 山崎さんが前回、電車のことを「決まった通りにしか動かない、四角四面でたいした個性のない人工物」と切り捨てたところに笑ってしまった。

 ぼくも歳の離れたいとこの面倒をよく見ていたので、小さい子の電車に対する熱狂ぶりは覚えがあるのだけど、電車好きは大抵プラレールに移行するので覚悟しておいた方がいいと思う(ご存じかもしれませんが、あれは子どもが小さいうちは大人がレールを組まねばならず、めちゃくちゃ場所も取るので、親が電車嫌いだと本当に面倒臭いと思います)。

 さて、「親だけでなく、時代や文化や環境だって育児をしている」という山崎さんの話を読んで、そういう考え方があるかとうならされた。たしかに、今子育てをしている人たちは、育児の責任が自分にあると思い込みすぎているところがある。おまえが欲しくて産んだんだろうが、という言葉に象徴されるように、子どもは親のエゴで産む、という考え方がいつからか主流になったことで、親がすべての責任を取らなければいけないと必要以上に背負い込んでしまうのかもしれない。でも山崎さんが言うように、育児というのはそもそもあらゆる要素が混ざりあった大きな流れの中でしているものだから、なんなら親にできることなんてたかがしれているくらいに考える方が、もう少し気が楽になるのではないか。

 時代や文化と言えば、最近は立ち会い出産をする男性が増えている。データによると、およそ五〜六割の人がしているようで、十年ほど前と比べても、二十パーセント近く増えているらしい。周りでもした人の方が多いし、ぼく自身も独身の頃からそれをすることに抵抗を感じていなかった。産む女性が望まなかったり、仕事でどうしても無理、あるいは産院の都合で立ち会いが不可でもない限り、現代の(特に若い世代の)男の人は、立ち会いをそこまで拒まないんじゃないかという気がする。出産を他人事だと考えない男性が増えたのは悪いことではないはずだ。

 ただ一方で、出産というものを考えたときに、「それは本当に男性が踏み込んでいい領域なんだろうか?」という疑問がある。出産は女性の仕事だと言っているのではなく、なるべくストレスがない環境で産むことが重要である以上、「立ち会う」という行為には、正直かなりの繊細さが要求されるんじゃないかと思うからだ。

 まず、産婦の中には(それを口にするかしないかは別にして)男性に立ち会ってほしくないと思う人が一定数いる。育児雑誌なんかを読んでいても、「出産のときはノーメイクだから嫌だ」とか「いきんでいる最中に排便をしてしまうこともあるようだから見られたくない」という声を目にするし、男性が横にいても使いものにならないから、いるだけ邪魔と考える人もいるようだ。あとは、分娩中にデリカシーのないことを言われたり、自分が望むような振るまいをしてくれなかったことで、立ち会い出産を選択したことを後悔している産婦もいるらしい。

 実際、ぼく自身も立ち会いを経験したときに、異国に放り出されたような戸惑いを感じた。まぁこれはぼくが考えすぎなところもあるのかもしれないが、あの空間では具体的に何をすればいいのかが、いまいちよくわからないのだ。とりあえず、こまめな水分補給が必要な妻のために、ストローをさしたペットボトルの水を口元に持っていったり、助産師さんから教わった「陣痛の痛みが和らぐマッサージ」とやらをしていたのだけど、水はともかくとして、マッサージは教わった通りにやっても、助産師さんがするようには上手くできず、何度かやっているうちに、あまり効果がないことをぼくも妻も悟ってやめるという結果になってしまった。なので、結局のところ、ぼくがしていたことと言えば、「痛い」「つらい」「やめたい」などの妻の嘆きを聞く壁になることと、トイレに行くときに手を貸してやるくらいのものだった(膀胱が圧迫されて頻繁に尿意をもよおす上に、痛みでちょっとずつしか歩けないからだ)。そして、いざ出産の段階まで来ると、必死になって赤ん坊を外に押し出そうとする妻の横で手を握って、ひたすら「がんばれ、がんばれ」と声を掛け続けることしかできない。

 あの無力感の入り交じった居心地の悪さは、ちょっと独特なものだ。しかもぼくの場合は、「がんばれ」と横で言われるのは、もうめいっぱいがんばっているから腹が立つ、という女友達の話を聞いていたので、声援を送ることにすら遠慮があった。自分の妻と女友達は違うとわかっていても、頭のどこかでは「俺のこの励ましは妻をいらだたせているだけなんじゃないのか?」と疑心暗鬼になったりして、子どもが産まれる瞬間まで戸惑いが消えなかった。

 白岩さん、気にしすぎですよ、と山崎さんにまた言われてしまうかもしれない。そんなのは自分の妻としっかりコミュニケーションを取ればいいだけの話で、頭でごちゃごちゃ考えるから、不要な迷いを抱え込んでしまうんだろうなというのは、自分でもよくわかっている。でも、不特定多数の女性の声って、なぜかぼくの体には蓄積しやすいんだよなぁ……。

 ちなみに、分娩室では何をすればいいかわからなかったと書いているが、一歩間違えれば、妻に怒られるようなことを、ぼくもしてしまっている。立ち会い出産をした中で、個人的にテンションが上がったのは、分娩監視装置という、子宮の収縮具合と胎児の心拍を計るための機械に出会ったときだった。およそ十分おきに来る陣痛で子宮が収縮を始めると、お腹の痛みに伴って、用紙に出力されたグラフがぐぐっと山なりになる。実際、傾斜がつきだすと、妻は「うー」と眉間にしわを寄せて苦しみ始め、ピークを越えて線が下降を始めると、少しずつ穏やかな顔になっていった。人間の痛みが可視化されるのを初めて見たぼくは、その機械にしばらく夢中になってしまった。用紙が出てくるところに張り付いて、グラフの線が上昇を始めるたびに、「来るぞ、来るぞ!」と嬉しそうに警告したりしていたのだ。幸い妻はそういうアホさを相手にしない人なので大丈夫だったが、もし自分がそんなことをやられたら、そいつを殴っていたと思う。

『ミルクとコロナ』「before corona」より