特別試し読み第3回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ
公開日:2021/12/5
白岩玄・山崎ナオコーラ著の書籍『ミルクとコロナ』「before corona」「under corona」から、厳選して全6回連載でお届けします。今回は第3回です。「野ブタ。をプロデュース」の著者・白岩玄さん、「人のセックスを笑うな」の著者・山崎ナオコーラさん。2004年、ともに20代で「文藝賞」を受賞し、作家デビュー。子どもが生まれたことをきっかけに、育児にまつわるエッセイの交換を始める。約4年間にわたって交わされた子育て考察エッセイ!
それでも、父になりたい 白岩玄
山崎さんの自己紹介的な文章を読んでいて、なんだか自分の無神経さを恥ずかしく思った。ぼくも山崎さんに対して無意識に女性としての意見を求めていたかもしれない。
ぼくは申込書などに性別を記入する際に苦しくなったこともなければ、パスポートに性別欄があることに憤りを覚えたこともない。でも、山崎さんがせっかく性別をとっぱらった話ができる場を作ってくれたので、そこで書けることをぼくも書いておきたいと思う。
ぼくは自分が男性であることには馴染めているが、世の中の「男性的なもの」には若干の嫌悪感がある。子どもの頃から、男同士の殴り合いのケンカや、度胸試し的なことが苦手だった。そういうものが男の子を育てる部分も確かにあるとは思うのだけど、「できなければ男ではない」という排他的な空気が嫌だった。
それから、思春期に突如として始まる、性的な会話も好きじゃなかった。なんというか、エロいのはぼくも好きなのだけど、誰彼構わず強要してくる感じが気持ち悪かったのだ。女の子の世界がいろいろと複雑であるように、男の子の世界も「男気とエロ」という大なわとびに入れなければ、指を差されて笑われてしまうところがある。
あまり顔に出ない上、適当に合わせることもできる方だったから、それらのことでいじめられたり、はぶられたりすることはなかったけれど、そのつど心のシャッターは下ろしていた。そのせいか、今でも男性でありながら、世の男性たちに背を向けて生きているような気がすることがある。三十歳を過ぎて、もうそれでいいやと開き直ってもいるのだけれど、完全に克服できているかと言うとそうではない。劣等感にさいなまれたり、自分は男として不良品なのではないかと寂しい気持ちになることもある。
でも、そんなぼくにも、家庭を持ち、子どもを育てる権利はあるはずだ。だから、ぼくも男性の代表などではなく、あくまでも一人の人間としてこの先のエッセイを書こうと思う。山崎さんが言うように、作家の仕事は社会の分析などではなくて、個人の心に寄り添うことだとぼくも痛切に感じているからだ。
さて、さきほど男性であることに馴染めているかどうかという話をしたけれど、それならば今、自分が父親であることに馴染めているのかと言うと、正直よくわからない。まだ父親になってから一年くらいしか経っていないし、家庭を持った男性がプレッシャーとして捉えがちな経済力も、うちの場合は家事と育児を分担して、必要なお金は二人で一緒に稼ごうというスタンスなので、そんなに嫌な思いをしていないのだ。
ただ、親になったから、はっきりとわかるようになったこともある。それは、おそらく他の人よりも、自分が父親という立場に興味があるということだ。
ぼくは六歳のときに父を亡くした。物心はついていたので記憶は少し残っているが、どんな声をしていたかとか、見た目の細かな部分については、正直ほとんど覚えていない。顔も写真で見ているからイメージを補完できているに過ぎないし、はっきりと思い出せるのは、本当に断片的ないくつかの触れ合いの記憶だけだ。
その中でも、喫茶店をやっていた父が、仕事の合間に工作を教えてくれたことは、たぶん死ぬまで忘れることはないと思う。ぼくは小さい頃、ボール紙やいらない箱などを材料に工作をするのが好きだった。保育園から帰ってくると、父の店の一角を陣取り、ハサミとセロハンテープを使ってロボットや動物を作っていた。恐ろしく器用で家の中にブランコを作ったこともある父は、そんなぼくのたった一人の先生で、いつもぼくが作ったものに対して的確な批評をしてくれた。しかも「ここがよくない」「こうすればもっとよくなる」と実際に手を加えて改良までしてくれたのだ。ぼくは父に教わったことを真似して、次々と新しいものを作った。父は相手が子どもと言えど、面白くないものには面白くないと言う人だったので、褒められたときは本当に嬉しかった。
やがて父は持病のぜんそくが悪化して、あまりかまってくれなくなった。単に調子が悪いとしか聞いていなかったぼくは、母になだめられながらも一人で工作をし続けた。父が見てくれない工作は張り合いがなかったのを覚えている。店や家の中にもなんとなく重たい空気が流れていて、子どもながらに漠然とした不安を感じていた。
そしてあるとき、突然父が亡くなったことを知らされた。父は朝方にぜんそくの発作を起こして、病院の診察を待っているときに急変して亡くなったのだが、ぼくが父の死を知ったのは夜になってからだった。死というものをまだきちんと理解していなかった当時のぼくが、その訃報をどう受け止めたのかはわからない。でも、きっと見えないものが体に浸透するような形で影響を及ぼしたのだろう。ぼくはいつからか、自分の中に空白のようなものを感じるようになった。
おそらくその空白は、本来なら身近にいるべき存在が自分にはいないという欠落感から生まれたものだと思われる。ぼくは四十一歳で亡くなった父が、その後どんなふうに生きるのかを見ることができなかった。そして当然のことながら、父が大人になっていくぼくに対してどんなことを思ったのかも知らないままだ(まぁそれはたとえ生きていたとしても、知ることができなかったかもしれないけれど)。
そんなふうに父の不在によって空白を感じ続けてきたぼくは、三十三歳で一人の子を持つ親になった。世間的に見れば、自分は間違いなく父親になったわけだが、長年いないものとして付き合ってきた父と同じ立場に自分自身がなるというのは、なんとも変な感じがするものだ。働いて家にお金を入れ、家事や育児に取り組むという父親としての役割をこなしていても、どこかで自分の心と体が一致しないように思えてしまう。家の中に愛すべき存在がいるのは確かだし、実際に息子に対して日々愛情を注いではいるけれど、父親というのは自分の世界にはいないものだという思い込みがあるからだろうか。自分がいったい何者なのかが、時折あやふやになってしまうのだ。
とはいえ、子どもが一歳になった今、その空白がほんの少しずつ埋まってきているようにも感じている。自分が親になったことで、知り得なかった父の気持ちを前よりも想像できるようになったし、四十一歳の若さで子どもを残して死ぬのがどれだけ無念でつらいことかも、今の自分なら理解することができるからだ。だからこの先も父親として生きていけば、ぼくが長年感じ続けてきた欠落感をある程度は埋められるかもしれない気はしている。父の死を克服する、というのは大げさだけど、ぼくにとっての子育ては、多分に自分を癒すためのものでもあるのだ。
それにしても、幼くして父を亡くしたのは、自分にとってすごく大きなことだったんだなとあたらめて思う。父が亡くなったことを知らされた夜、ぼくは悲しいというよりも驚いて大泣きし、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。その後、どういうわけか悲しみや寂しさは湧いてこず、覚えている限り、父がいないことで涙を流したことはない。でも、それから二十五年後の三十一歳のある日の夜、妻と子ども時代の話をしているときに、急にふたが開いたみたいに父を亡くした悲しみが押し寄せてきた。ぼくは人前で泣きそうになったことに動揺しつつも、「親父にもっと遊んでほしかった」と自分でも意外な言葉を口にした。子どもの頃は言語化できなくて、感情そのものを閉じ込めてしまっていたのだろう。もっと早くに気づけばよかったのだが、たったそれだけの言葉を外に出すのに、実に四半世紀もの時間がかかってしまった。
できれば自分の子どもには、そういう経験はさせたくない。人生は何が起こるか予測がつかないものだけど、最低でも子どもが大人になって独り立ちするまでは、元気に生きていたいものだ。
『ミルクとコロナ』「before corona」より