特別試し読み第3回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/5

お父さんにもなりたい 山崎ナオコーラ

ミルクとコロナ
イラスト:山崎ナオコーラ

 前回の白岩さんの原稿には強く心を揺さぶられた。

 

「女の子の世界がいろいろと複雑であるように、男の子の世界も『男気とエロ』という大なわとびに入れなければ、指を差されて笑われてしまうところがある」というのは、わかる気がする。

 テレビなどで見るお笑いの世界も「男気とエロ」がないと成立しない感じになっていて、お笑いが好きな私はよく疎外感を味わう。たとえば、ハイセンスな芸人さんがバカにされているのをよく見かける。それから、女性の芸人さんの多くが「男気とエロ」に馴染めることをアピールしている。画一的な男性観が蔓延する世界が構築されていて、「もっと多様な笑いがあっていいのになあ」とよく思う。もちろん、「男気とエロ」は悪いことではなく、素敵なことに違いないのだが、世界には他にも素敵な価値観が溢れているわけなので、違う価値観でも笑い合えたり、その人らしさできらきらしたりできる社会になるといいなあ、と思うのだ。男の人の多様性を、女性側も努力して見つけていかなければならない。いろいろな男の人がきらきらできる社会を作りたい。

 

 そして、後半では、お父さんとのエピソードが率直に綴られていた。「父親という立場に興味がある」という白岩さんの気持ちの芯が垣間見られた。それを読んで、心がびりびりした。

 

 自分の場合はどうだろう? と改めて考えてみた。

 さっきまで、「自分が現在行っている育児には、自分の親は関係していない」と私は思い込んでいた。私は家系図の中で連綿と続いてきた育児を引き継いだわけではないし、血縁だからという理由で子どもを育てているわけでもないし、個人の力仕事として育児を行っているんだ、という意気込みでいた。

 そして、私の母親は可愛らしいタイプで、私とは性格がまったく違う。私に対して行ってくれた育児にはもちろん感謝しているのだが、自分が育児を行う段になって、母を真似をしようだとか、母と自分を比べて考えようだとか、母からアドヴァイスをもらおうだとかといったことは、微塵も思ったことがない。母も、進学や就職のときと同様、結婚や育児に関しても私に意見することがなかった。母自身の考え方を雑談の中で耳にしても、正直なところ、「へえ、お母さんはそう思うんだ。面白いなあ」という程度でスルーして、自分の考えに取り入れようとは全然してこなかった。育児の疑問は病院で聞くか、あるいは書籍やインターネット等で調べることが多い。

 

 親と自分を比べる必要はない。でも、本当に自分は常にそうしてきただろうか? ちょっと心に引っかかっていることがある。

 私は、「三十五歳までに子どもが欲しい」という目標を漠然と抱いていた。それから、「三十八歳までに、あるいは子どもが三歳になるまでに、自分で稼いだ金で、一戸建てを建てたい」という夢を持っていた。どちらも叶えられなかったのだが、なぜそんなことを思っていたのかというと、父親が三十五歳のときに私が生まれたこと、そして父親が三十八歳で私が三歳のときに一戸建てを建築したことを、意識していたのだ。私は父を人生のロールモデルにしていたのではないだろうか。

 父親が四年前にがんで亡くなってからは、「自分もがんで死にたいなあ」と思うようになった。がんは死の準備ができるし、悪くない死に方だなあ、と憧れる。

 なんだ、やっぱり、私もやっていた。身近な大人の存在を、子どもは未来のモデルにしがちなものなのだ。家がどう、血縁がどう、ということではなく、身近な人が生育に影響しないわけがない。

 

 作家としても、他の作家を意識している。私は子どもの頃から、文学全集や文庫などに付いている年表を見るのが好きで、「この作家は十七歳でこれを書いたのか」「四十歳でこれか」「七十歳で代表作を書く作家もいるのか」といったことをしょっちゅう考えていた。それで、「二十五歳までにデビューする」「三十歳までに十冊本を出す」と年齢で区切って目標を立てて過ごしてきた。

 今でも、「この作家は、何歳のときにこれを書いたのか」「この年齢のときは、まだ貧乏だったのか」といったことをしきりに気にしてしまう。

 谷崎潤一郎になりたい、金子光晴になりたい、穂村弘になりたい、長嶋有になりたい、といったことを常に考えてきた。江國香織や松浦理英子や藤野千夜などの作家にも憧れているが、多くの男性の作家に憧れてきた私としては、「女性が作家になった場合、どれだけがんばったところで、『女性作家』にしかなれない」と言われると、自分の夢を否定されたような、がっかりした気分になる。

 ただ、誤解されたくないのだが、私は男性になりたいわけではない。江國さんのように「女性作家」として堂々としている人にも憧れている。つまり、女性らしさや男性らしさを大事にしている人を否定する気は毛頭なくて、そうではない人もいるから区分けはしないで欲しいというだけだ。決して、「女性は嫌だ、男性になりたい」なんて思っていない。そうではなくて、「性別にかかわらず、すべての人間に憧れていい」という社会を私は希望しているのだ。

 

 私は妊娠中に、「母ではなくて、親になろう」ということを思いついた。これも、今から思えば、親になるときに母親像しかモデルにできない悔しさを感じたからかもしれない。親になるとき、父親をモデルにしたっていいのだ。私はコミュニケーション能力や優しさや美しさが劣っている代わりに、経済力や凜々しさをがんばりたいという思いを持っている。私は、お父さんにもなりたい。

『ミルクとコロナ』「before corona」より

<第4回に続く>