血の繋がらない家族の再構築と怪物“ジャバウォック”の謎をめぐる家族小説『君の名前の横顔』河野裕インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2021/11/27

君の名前の横顔
『君の名前の横顔』(河野裕/ポプラ社)

『サクラダリセット』『いなくなれ、群青』『昨日星を探した言い訳』など、多くの作品で10代の少年少女の特別な関係を描いてきた河野裕さん。最新刊『君の名前の横顔』(ポプラ社)は、そんな河野さんが初めて“家族”に焦点をあてた長編小説。本作で河野さんはどのような家族像を描こうとしたのか、そして物語の鍵となる怪物“ジャバウォック”とは。この壮大でファンタジックな家族小説を読み解くためのキーワードや作品にかける思いをうかがった。

(取材・文=橋富政彦 撮影=内海裕之)

(あらすじ)
 15歳のときに父を亡くして以来、楓は父の再婚相手である愛とその連れ子の小学生、冬明と3人で暮らしていた。愛と冬明のことを大切に思いながらも、血の繋がっていない母と弟という関係に違和感を持つ楓。一方、愛の目下の悩みは、学校に行きたがらない冬明の発育状況だった。冬明は奇妙なことを話し出す。「紫色の絵具がなくなったんだ。ジャバウォックが盗っちゃったんだよ」と。そしてある日、冬明はかつて父を自殺に追い込んだ炎上騒ぎにおいて、それを煽っていたアカウント「キササゲ」のユーザー名が「jabberwock」だったことを知る――。

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――『君の名前の横顔』は、血の繋がっていないひとつの家族が“ジャバウォック”という謎の怪物と対峙することで展開する物語です。この組み合わせが河野さんらしい独特な世界観を作り上げていると同時にこれまでにない新たな挑戦をされていると感じました。この作品の出発点となったのは?

河野裕さん(以下、河野):まずひとつのきっかけになったのは、ポプラ社の担当編集である三枝美保さんから次作に「兄弟をテーマにした作品はどうか」という提案があったことです。面白そうな予感があったので考え始めたところ、ちょうど私に子供が生まれたタイミングだったこともあり、意識が兄弟から広がってこれまで描いていなかった家族を描いてみようと思ったんですね。もうひとつ、本来はまったく別の案件だったのですが、近年とくに感じるようになった世界が窮屈化していくような感覚をメタ的に描こうとした“ジャバウォック”の原型となるアイデアがありました。これが家族の物語とうまくまとまるような気がして、ふたつを組み合わせてみようと思ったんです。

――窮屈化とは具体的にどのようなことなのでしょうか。

河野:これはあくまで象徴としての話なのですが、コロナの流行によって実家との間にちょっとした分断が生じたことがあったんです。去年の夏、私は徳島に住んでいる高齢の両親のもとへ帰省することを考えていました。孫の顔を見せたかったし、妻の父親をその年の春に亡くしていることもあって、私も自分の両親と顔を合わせられるうちに合わせておきたいという気持ちがあったんです。しかし、その頃は全国的な風潮だったと思うのですが、他県ナンバーの車が自宅に止まることへの忌避感が強く、両親から「周りを不安にさせるから今はやめてほしい」という連絡があって帰省は取りやめになりました。私はちょっとだけ心に引っかかるようなものを感じながら、この小説を書き続けていたのですが、それから1年ほど経った今年の夏、父に進行がんが見つかったという連絡があったんです。すでにかなり厳しい状態ということでした。

 帰省についての判断について社会的な正義は反対した両親のほうにあると思います。社会全体でコロナ感染拡大を防ごうという考え方も私はまったく否定しません。ただ、その社会的正義を守ることによって会えないまま父が亡くなったとして、そこに何の違和感も抱かないのか、帰省しなかった判断を100パーセント肯定できるのか、そう問われたらやっぱりそれはちょっと難しいんですね。それでも、去年の夏の時点で「両親が生きているうちに会いたいから帰省する」とは言うことはできなかったし、今でも言うべきではないと思います。この「言えない」という感覚が先ほどの窮屈化です。そして、この感覚が小説に出てくる“ジャバウォック”でもあるんです。このジャバウォック的なものによって作られていく家族像みたいなものが最初のイメージとしてありました。

血の繋がりと名前をつけることの肯定

――主人公の楓は一緒に暮らす義理の母の愛とその連れ子である冬明について、大切に思いながらも「どうしても家族だとは思えないでいた」「もっと能動的な、たとえば友達だとか、恩人だとか、自分で決めた関係を名乗りたかった」という感覚を持っています。そんな楓の家族観がジャバウォックの謎を追っていくうちに変わっていくわけですが、河野さんはどのような家族像をそこに描こうとしたのでしょうか。

河野:家族についての価値観には、ざっくりと三層のレイヤーがあると思っています。まず、家族という関係性を重視して、血の繋がりに縛られることすらも肯定する層です。次にそうした家族から解放されて個人の自由を追求することが幸せだとする層があります。私が暮らしている環境では、こちらのほうがメインストリームだといえるでしょう。そして、この小説では、三層目の価値観として、二層目を肯定しながらも同時に反論するものを書こうとしました。そこがこの小説のオリジナリティであり、アイデンティティになっているのではないかと考えています。

 個人の自由を追求することで幸せを手にする人がいることはわかるし、それを否定するつもりはまったくありません。血の繋がった家族がうまくいかなければ、それに縛られることなく新しい家族を見出そうとすることは当然で、そこは私の中では前提なんですね。この小説ではそうした血の繋がりを否定していた楓が、血の繋がりそのものを「羨ましい」と認めるところまでの物語だといえます。そして、それを肯定しても個人の幸せは否定されるものではないというところまで描きたかったんです。

――家族と同様に“名前”が本作では重要な要素になっています。作中では楓の友人である千守が「よくあることにはだいたい名前がある」と言っていますが、河野さんのこれまでの作品は、名前をつけることによって記号化できないような関係性を描くという一面があったと思うのですが、改めて本作では「名前をつける」という行為をどのように捉えたのでしょうか。

河野:名前をつけるということは、本来もっと複雑だったはずのものをシンプル化するために、他の要素を切って揃えるようなことだと思うんです。私は10代ぐらいの頃からそういうシンプル化が嫌いで、確かにこれまで名前のつかないものを肯定するような小説を描いてきたつもりです。ただ、今回は家族を中心とした人間関係を描こうとしたときに、切って揃えてでも何かを共有することの意味に意識が向いていきました。名前をつけるということに真面目に向き合い、それを肯定したところもある小説になっていると思います。それは私の中でも大きな変化でした。

 もちろん、名前のつかないものを肯定したいという気持ちはベースとして今も残っています。“冬明”の名前の成り立ちについて「意味のないところに意味がある」としたのは、私の根底にある切って揃えることに対する抵抗が表れたものです。この小説は名前をつけるということに対する肯定と否定の二律背反のようなところがあるともいえるかもしれません。

――作中では、形を切って揃えて単純化する過程は、ジャバウォック的なものとして語られていると思うのですが、それはどのように肯定されるのでしょうか。

河野:楓の初恋の相手でジャバウォックに名前を奪われた有住というキャラクターが、自分の名前を“呪い”とする楓に「名前の意味なんて、どんどん変わるものなんだよ」と言い、名前とその本質について語って反論するシーンがあります。そこで言いたかったことは、名前をつけられることによって切って揃えられ、シンプル化したものであっても、それは時間経過とさまざまな体験を通して再び複雑化していくことがあるということです。

 つまり、名前に込められた願いや、あるいはそこに感じていた呪いも、その名前をつけられた人の歴史によって変わっていく。その名前で生きてさまざまな経験をしていくことで、名前の意味が新たに決まっていき、またそれを好きになることがあるかもしれない。そうした流れは、ジャバウォックによって奪われたものを取り返していく過程でもあるのです。