血の繋がらない家族の再構築と怪物“ジャバウォック”の謎をめぐる家族小説『君の名前の横顔』河野裕インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2021/11/27

社会の通過儀礼としてのジャバウォックと“悪”

――ジャバウォックの存在は物語の中心にあり、それは読者にさまざまなものを連想させます。冬明が「紫色の絵具をジャバウォックに盗まれた」と言い出したことで物語が動き出すわけですが、その真相が明らかになるエピソードを読んで、ジャバウォックとは子供時代のイノセンスを失うある種の通過儀礼のような意味もあるのではないかとも感じました。

河野:冬明の存在はこの世界でもっとも神聖なものとして描いていて、最終的に彼もジャバウォックを受け入れる小説であるとも言えるので、確かにそういう側面もあると思います。この小説はジャバウォックを受け入れることを否定しているわけではなく、また受け入れたとしてもそれで自分を責める必要がないということは、私の根本的な考え方でもあります。

 子供はずっと純粋なままではいられなくて、いつか無菌室のような空間から出て、どこかでジャバウォック的なものと遭遇するし、それはどうしても避けられない。そのとき、できるだけ必死に戦って、やがてその戦いを終えるという経験を10代の頃にしておくことが、きっと大事なことなんだと個人的に思います。もう大人になっている人であれば、ジャバウォックについて考える中でそういう自分の経験を思い返してもらえるかもしれません。ジャバウォックは善悪ではなく、社会のさまざまなところに自然に存在するもので、それを忘れないでいて欲しい、という願いを込めて書きました。

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――ジャバウォックは必ずしもネガティブなものではなく、さまざまな可能性を切り揃えることは成長の過程の象徴のようにも読めました。その一方で本作には、SNSの炎上を扇動し、楓の父を死に追いやった“キササゲ”のように悪意を持った人間も登場します。楓や愛がそうした“悪”によって追い詰められていく展開は、胸が苦しくなるものがありました。これまでの河野さんの作品にはあまり出てこなかったように思うのですが、本作ではなぜこうした悪を描いたのでしょう。

河野:もともと私は悪人を作中に出したくないわけではなくて「理解(共感)できないキャラクターは出さない」という考え方だったのではないかと思います。基本的に私は明らかに悪い人には共感できないので、そのせいで作中にはあまり現れることがありませんでした。プロット上、どうしても必要な場合は書いていたのですが、よくわからないまま書いていたので比重がずいぶん軽くなっていたんです。ですが、今回の作中の“悪”に当たるキャラクターが少しずつ理解できるようになったため、私にとってはわりと自然と彼や彼女を書くことになりました。それは恐らく、私が家庭を持って「自分がそういった悪い要素を持つ可能性をリアルに恐れるようになったこと」が原因にあるように思います。

 いくつかの間違いがあれば、自分がそうなってもおかしくないという感覚があるというか。たとえば、大事なものをすべて奪われて自分に何もなくなったという状況で「それでも真人間でいられるのか」と問われたとき、自信を持って絶対に大丈夫だと答えられる人はそんなにいないのではないでしょうか。そして、そういう悪は現実に存在しているものであり、小説にもそれが自然と出てきた感じです。

再構築の象徴としての“バール”

――ジャバウォックやそうした悪、あるいは“呪い”に立ち向かうためのアイテムとして“バール”が重要な役割を果たします。この意外性がとてもユニークに感じられましたが、これはどういう発想で生まれたのでしょうか。

河野:どこかでバールについて「重機が入ることができない狭い場所で、人の手で解体作業を行うときに使われる道具」という説明を読んだんです。これが私にはなんだか家族という関係性を象徴している文章に思えたんですね。バールが他者が入っていけない家族という空間、関係性を破壊するアイテムだ、と。つまり、それは血の繋がりに縛られた家族像を破壊するということです。しかし、書いている途中にそもそもバールの目的は破壊そのものではなく、その次に新しいものを再構築するためだということが見えた瞬間があって、そのときにこの小説のテーマがわかったような気がしました。楓がもともと破壊しようとしていたものを、再構築するためのアイテムとしてバールは登場しているのです。

――『君の名前の横顔』という作品自体が、読むことで家族観の再構築に繋がるバール的な役割を果たす小説になっているように感じました。最後にこのタイトルに込めた意味を聞かせてください。

河野:今回のタイトルは私がつけたものではないんです。当初のタイトル候補として最後まで残っていたのが『君の名前の修繕』というものでした。「修繕」という単語が楓の移り変わりを表しているな、と。ただ「修繕」という単語にピンと来ない人も多いかなとも感じて悩んでいたときに、編集担当の三枝さんから「横顔」はどうかという提案があったんです。

 今回はエピグラフに「横顔」の辞書の説明文を引用しています。その三番目にある「ある人物の日常的な、あるいは、あまり人に知られていないような一面」という意味はもともと知っていましたが、二番目の「(――する)意識的に、横に顔をそむけること。また、その顔」という意味があることは、その提案をもらったときに辞書を調べて初めて知りました。そして、これはまさに作中で楓がやっていることなんですね。

 そして、「横顔」という言葉のふたつの意味は、この小説を持つ両面性をうまく表したものにもなっているな、と。『君の名前の横顔』というタイトルだけでは何のことかわからないと感じる人も多いかもしれませんが、読み終えてからこのふたつの意味を確認してみてほしいですね。自分の作品に自分でタイトルをつけなかったのは初めてなのですが、奥行きと響きの気持ちよさのある素敵なタイトルになったと気に入っています。