書評っていうなればポテサラなんです――朝井リョウが語る書評の魅力/燃えよ書評【後編】

文芸・カルチャー

更新日:2021/12/16

雑誌等での扱いはあくまで小鉢、メインに躍り出ることは滅多にないけれども、実はめちゃくちゃ手間がかかる! ゆえに、書評=ポテサラ!

戦後最年少直木賞作家であり、今春刊の『正欲』で柴田錬三郎賞を最年少受賞(またしても!)した朝井リョウさんは、書評の名手でもあります。

「書かれる側」でもある朝井さんが考える、いい書評とは?


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――7月からTwitterで紙媒体に掲載された書評情報を自他問わず発信するようになったんですが、アカウント開設直後に朝井さんからいただいたメールで勇気をもらいました。「書評などはもっと世の中の人に読まれるといいのになー!と勝手に思っていたので、吉田さんが発信してくださるのはとても嬉しいです」と。その思いのたけを、この機会にぜひ伺ってみたかったんです。

朝井 私は最近書評を書く時に、本の作者のほうを向いてしまっていることが多いんです。それはどうしてかなと考えてみると、自分が書いている小説などに比べて、書評に対する反響って少ないんですよね。書評というものがたくさんの人に届いているという感覚をなかなか持てなくて、ゆえに作者や出版社の人たちへの意識がどんどん強まってきているんじゃないかな、と。

で、それはあまり良いことではないんです。書評を書くときはもっと「本の奴隷」になりたい。そのためには、書評はたくさんの人に読まれるものである、という前提が自分の中に欲しい。書評というものへの注目度が高まったら、もっと純粋に本の魅力を読者の方に伝えたい、というふうになっていけるのかなと思うんです。

――『小説現代』が2020年2月にリニューアルした際のキャッチコピーの一つは、「全ページ、面白い。」でした。載っている小説が面白いのはもちろんのこと、書評ページも単なる書誌情報やレコメンではなく、コンテンツとして面白いものなんだよという編集部側のメッセージを感じて嬉しかったんです。書評って、書く側も実は気合いが入っていますよね?

朝井 私にとっては気合いもカロリーも相当使う仕事です。私みたいに小説も書くし書評も書くという立場だと、小説は本業で、書評は空いた時間に片手間でちゃちゃっとやっているイメージかもしれないけど、書評も小説と同じぐらい頭を使わないと書けないものなんですよね。だから、書評の依頼が来ると受けるかどうか相当悩むし、勇気も必要になってくる。ちょっと余談ですが、私に限らず作家が書く書評って、その人はどんなものが好きでどんなことを考えている人なのかコンパクトに知ることができる、お試しサンプル的な機能もあると思うんです。作品よりも圧倒的に手軽に読める書評が、その作家の本を手に取る入口になる、というふうに使われていくのはアリだなと思います。

■あらすじを書くことで自分の考えが整理される

――朝井さんは2016年春から2018年末にかけて約2年半、読売新聞の読書委員(書評委員)をされていました。2019年夏からは、『週刊文春』の名物書評連載である「私の読書日記」のレギュラー執筆者に名を連ねています。最近では、9月3日号の原稿が特に素晴らしかった。平野啓一郎さんの『本心』、奥田亜希子さんの『クレイジー・フォー・ラビット』という2冊の小説と、大原扁理さんのエッセイ『隠居生活10年目 不安は9割捨てました』、新刊3冊を「優しさ」というテーマで括って紹介していましたね。

朝井 「私の読書日記」は書評と言うよりも、枠の名前の通り「日記」だなと思っています。私自身の考えたことや感じたことが、露骨に出ちゃっている。ただ、これは普通の書評を書く時もそうなんですが、「自分の意見を言うための〝材料〟として本を使う」というふうにはならないように意識しています。正直なところ、私は自分の本についての書評はあまり読めなかったりするんですが、それは引きずっちゃうからなんですよね。「自分が思っていたことはそうじゃないんだけどなぁ」となるのは読み手の自由だからいいとしても、「あー、そこをそう書き換えて持論に繋げていったか……」みたいな書評を読むと、疲れちゃうんですよ。自分がされて疲れちゃうことは人にしたくないので、書評を書く時は「ここからは私の意見ですが」というような文章をやけに入れるようになっちゃっています。本の〝形〟は変えたくないというか。

「書評するうえでの、自分ルールがあるんです」。あらすじをしっかり押さえ、深掘りし、自分が発見した視点へと至る。この3つのプロセスが必要だという朝井さん。

――確かに朝井さんの書評は、きっちり本の内容紹介をしたうえで、その本から引き出されていった自分なりの意見が提示されていく。そこの順番が逆になっているのは、おっしゃる通り悪い書評と言えそうです。

朝井 書評するうえでの、自分ルールがあるんです。具体的には3つあって、まずは、「あらすじをしっかり書く」。テーマが複数あるような本だと特に、どこをメインにあらすじを書くかで「あっ、自分にとってはここがポイントだったんだ」と、考えが整理されます。そのプロセスを経ないと、考えがその先に進めなかったりする感覚があります。その次は、「深掘りする」。その深掘りは、本を読んだ人はわりとみんな思うことだろうな、この小説もこの部分を特に取り扱われたいはず、というもの。そして最後に「自分が発見した視点を出す」、ここまで書けたら嬉しい。そのためには、それなりの文章量がどうしても必要になってくるので、原稿用紙10枚弱使って書ける文庫解説が一番、私が思う書評に近いのかなと思ったりしています。

■いい書評はスニッカーズかポテサラか?

――さきほど「自分の本についての書評はあんまり読めない」とおっしゃっていましたが、『桐島、部活やめるってよ』でデビューした頃は少し違う気持ちだったんじゃないですか?

朝井 確かに、飛びついて読んでいました(笑)。今でも忘れがたいのは、書評ではスクールカーストのことであったり、私の年齢の若さであったりといった部分に注目されることが多かったんですが、小泉今日子さんが読売新聞の書評で、音の表現の仕方について指摘してくださったんです。デビューしたてだし不安で、自分のいいところなんて何もわからない中で、そんなふうに書いてくださったことはすごく嬉しかった。「私は音の表現がいいんだ!」と、小泉さんの言葉をお守りのように思っていた時期は長かったです。

――自分も、そういう書評が書きたい?

朝井 狙って書くとブレてしまうので、結果的に誰かのお守りになるような書評を書けたらいいな、と思います。作者に鋭いと思ってもらいたい、とか思いすぎないようにしないと。

――本人も気づいていないような書き手としての魅力や、作品に対する深い読みを提供できれば、結果的に読者の好奇心を焚きつけることにも繋がる。それは、すごく「いい書評」だと思います。

朝井 世の中には、激サボり書評もあるじゃないですか。長々とあらすじだけ書いて、最後にちょこっとこの本面白かったよ的なことを付け加えて終わり。「おかゆじゃん!」みたいな。私が個人的に好きだなとかいいものを読んだなと思う書評は、食べ物でたとえるなら、例えばスニッカーズ。登山に持っていくような食べ物って、ちっちゃい分量で何100キロカロリーもあるじゃないですか。あれです。もしくは、ふわふわスフレチーズじゃなくてバスクチーズケーキ。……いや、違うな。ポテトサラダだ!

――えっ?!

朝井ポ テトサラダって食事のメインにはならないというか、小鉢で出てくるものだけど、めちゃめちゃ手間がかかるじゃないですか。書評も同じで、雑誌なり新聞のメインのコンテンツになるものではないし、基本的に文字数は少ないけれど、書くためにかけているコストであるとか、使うカロリーはとんでもないんです。決めました。今日からこれを持論にします。


取材・文:吉田大助

イラスト:伊東フミ

朝井リョウさん

1989年、岐阜県生まれ。早稲田大学在学中の2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年、『何者』で第148回直木三十五賞を受賞(戦後最年少受賞)。14年、『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞を受賞。21年、『正欲』で第34回柴田錬三郎賞を受賞。ツイッター@asai__ryo