現実とは異なる月が輝く異世界で、「生きられるかぎり生きるのだ」の声が轟く!――小田雅久仁『残月記』
更新日:2021/11/30
2021年度小説界、最大の事件だ。稀代のファンタジー作家・小田雅久仁氏が、『本にだって雄と雌があります』(第3回Twitter文学賞国内編第1位)以来、9年ぶりとなる第3作『残月記』を刊行した。収録作全3編に共通するモチーフは、『竹取物語』をはじめ古今東西の物語作家たちが想像力を競い合ってきた、月。
そもそも著者は第21回日本ファンタジーノベル大賞受賞のデビュー作『増大派に告ぐ』において、現代日本に暮らしながら「月世界都市」と交信する男を主要人物に据えていた。「月世界から月人が宇宙船に乗って地球にやって来る」、アポロ計画ならぬ「アルテミス計画」というパフォーマンス・イベントの存在も、物語を動かす歯車の一つとなっている。とはいえ、それらはみな地球上で(想像の中で)起こる出来事だった。『残月記』は、違う。登場人物たちは実際に、月世界へと飛び立つ。あるいは、月の作用によって現実がガラッと塗り替えられてしまった世界を生きる。
第一編「そして月がふりかえる」は、43歳の大学教授・大槻高志が幼少期に抱いた、月に対するオブセッション(強迫観念)の描写から物語が始まる。夜空に浮かぶ月は、もしかしたら、俺だけにしか見えない「俺の月」なのではないか……。ある夜、高志は妻の詩織と2人の幼い子供を連れて、ファミリーレストランへと足を運ぶ。トイレを済ませ席へと戻ろうとしたところ、レストランにいたすべての人々が空に顔を向け、食い入るように月を見ていた。自分も視線を向けると、月が少しずつ回転している。<やがて回転が止まった。かつて見せたことのない裏側の月世界をさらして、ぴたりと静止した。こちらこそが本当の顔だと言わんばかりに>。テーブルに戻ると、妻は「どなたですか?」と言った。元いた席には、自分によく似た男が座った。
高志は、月の裏側が表となる「もう一つの世界」で、「もう一人」の人生を歩まされる運命に陥ってしまったことに気付く。運命に逆らおうともがくものの、「入れ替わった」という自説は証明のしようがない。主人公の全身が絶望で満たされていく様子を、五感描写や比喩表現を駆使した伝染性の高い──経験したことなどないはずなのに、なまなましいと感じられる──文章で綴っていく。元いた日常への帰還を半ば諦めながら、男がたった一つ願ったこととは何か?
実のところ、現実とは異なる「もう一つの世界」を表現するうえで、物語作家たちが月をモチーフに選ぶケースは少なくない。古き良きロールプレイングゲームの数々や村上春樹の『1Q84』などで描かれた、「月が二つある世界」は定番中の定番だ。しかし小田氏は、ありそうでなかった、思いつきそうで誰も思いつかなかった「月の裏側がぐるんと回って表になる」という発想から、「もう一つの世界」へのワープを実現してみせた。
その発想は、続く第二編「月景石」に記されたこんなフレーズで評するべきかもしれない。<嘘だとわかっていても胸が高鳴るような冴えた発想>。
第二編でこのフレーズが現れるのは、主人公である会社員の女性・澄香が、叔母の形見分けとしてもらった「風景石」にまつわるエピソードを開陳する場面だ。その石は、表面に月の風景が描かれているように見えるものだった。
「この石を枕の下に入れて眠ると、月に行けるんだよ」
かつて耳にした叔母の言葉通りにしてみると、澄香は月世界で暮らすスミカドゥミとして覚醒する。胸に石が埋め込まれたイシダキである彼女は、仲間達と共に故郷の村から首都へと移送される途中だった。月世界での生物の生存を可能にした大月桂樹が枯れてきたため、イシダキたちの力が必要になったというのだが……。
主人公が現実世界と「もう一つの世界」を行き来していった先で、壮大にして優美なビジョンが現れる。そのビジョンを前に喚起させられたのは、ジョルジュ・メリエス監督のサイレント映画『月世界旅行』(原作はジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』およびH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』)の記憶だった。科学技術が進展し、人類が宇宙に浮かぶ星々を探査できるようになったことによって奪われた、月に対する原初の想像力と呼ぶべきものが、2021年の日本に蘇ったことに心底驚いた。
最終第三編「残月記」もまた、核にあるのは<嘘だとわかっていても胸が高鳴るような冴えた発想>だ。
パラレルワールドの近未来日本は、内閣総理大臣・下條拓による全体主義国家が実現していた。独裁者の強権により、「月昂」という感染症に罹った患者──月昂者は、逮捕・監禁され、ウイルスの封じ込めを図っていた。その裏では、捕らえられた月昂者の一部が剣闘士となり、闘技場で決死の戦いに挑んでいた。リドリー・スコット監督の映画『グラディエーター』とタイマンを張る、ハリウッド級のどエンタメが展開していく。
満月前後になると躁状態となって心身に力が漲る月昂者は、狼男に代表される「満月の力を浴びて変貌する異形」の一変種だ。そこへ、「残月記」というタイトルの元ネタとなったであろう、中島敦の小説「山月記」が接続される。なおかつ描き出されるラブストーリーの感触および顛末は、『創世記』のアダムとイブだ。
小田雅久仁氏は、本も結婚するし出産もする……というケッタイな想像力が炸裂した第2作『本にだって雄と雌があります』のスマッシュヒットにより、「奇想」の人、「文学」の人というイメージがついていたように思う。9年ぶりの第3作となった『残月記』にも「奇想」があり、「文学」もまた有り余るほどにある。しかし、本書を読んで何よりも印象に刻まれたのは、人類の集合無意識、人類が太古から積み重ねてきた想像力のデータベースを駆使する、「娯楽」の人であるという事実だ。
「娯楽」とは、息苦しい現実から離れて、「もう一つの世界」を垣間見させてくれるもの。その世界で深呼吸するような体験をしたうえで、きっちりと現実への帰路を作ってくれているものだ。その際、現実へのお土産があったなら、なおいいだろう。何をお土産と感じるかは人それぞれだが、例えば、全3編の主人公はどんな絶望の最中にあっても、決して諦めずにいたことがあった。生きることだ。その意志を象徴するフレーズが、「残月記」の主人公の口から放たれる。
<生きるのだ。生きられるかぎり生きるのだ。>
本は、娯楽は、ファンタジーは、人を救う。その真実が、読み終えてしばらくたった今もなお、なまなましく胸に輝き続けている。
文=吉田大助