ラウール侯と名乗るルパンの前に、日本の美女・不二子が現れて…/松岡圭祐『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』①

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/15

 松岡圭祐の書き下ろし文庫『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』を全5回連載でお届け! アルセーヌ・ルパンと明智小五郎が、ルブランと江戸川乱歩の原典のままに、現実の近代史に飛び出した。昭和4年の日本を舞台に、大怪盗と名探偵が「黄金仮面」の謎と矛盾を追った先にある真実とは!? ルパン、55歳の最後の冒険。大鳥不二子との秘められた恋の真相や、明智小五郎との関係を綴った『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』。は、全米での出版『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』を凌ぐ、極上の娯楽巨篇です。

アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実
『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 五十代でも心は若々しい。すらりとした瘦身、まっすぐに伸びた背筋、軽快な足どり。二十五以上に見られることは、断固として拒絶したい。それがアルセーヌ・ルパンの信条だった。

 とはいえさすがに五十三歳だ。いかに遠目に見ようが、青年と呼ぶには無理がある。けれどもわが身に備わったものは老いではない。渋さと貫禄だ。うわついた軽薄さを、この歳にしてようやく卒業しつつある。と同時に紳士にふさわしい、頼りがいのある存在感が備わりだした。頭髪に交じる白いものを、あえて黒く染めずとも、中高年のなかでは若々しい魅力を放つ。同世代がみな羨むであろう、端整な顔立ちと肉体を誇るがゆえだ。

 揺るぎなき自己評価は、けっしてうぬぼれではない。いまもルパンは上質な仕立てのタキシードをまとい、黄昏どきのコート・ダジュール、高台の古城につづく石段を駆け上っていた。それでも息切れひとつしない。

 華やかな様相を呈する一帯だった。貴婦人たちがパーティーへと足を運んでいく。女性はみな窮屈なコルセットから解放されて久しい。バイアスカット、チューブラーシルエットのドレス、誰もが当世風の装いをしている。

 一九二七年。パリ華やかなりし時代は、とうに過去となった。ルパンが都会を離れ、郊外に大邸宅と別荘をかまえたのが三年ほど前。今度ばかりは隠居の決意も固かった。しかし目と鼻の先にある古城で、かのブルガリがパーティーを開くときいては、じっとしていられるはずがない。

 落ちぶれた『エコー・ド・フランス』紙は、アルセーヌ・ルパンが人格破綻者だときめつけた。金銭めあての窃盗というより、その行為におよぶ際の緊張感や、達成感と優越感こそが目的となる異常な性格。いわば窃盗のための窃盗を繰りかえす、衝動制御に難を抱える哀れな人物。忌々しい現編集長は、そんな腹立たしい記事を載せた。

 冗談ではない。そう単純に分析されてたまるか。アルセーヌ・ルパンは多面的で複雑な存在だ。あらゆる権威性や常識の破壊は、衝動でなく使命だった。この歳になっても使命感はいっこうに薄らがない。ことあるごとに全身の血が沸騰し叫びだす。人を法で支配せんとする、あるいは富裕をもって万能感に浸ろうとする、無知蒙昧な輩どもを打ちのめせと。

 城の正面玄関に差しかかった。白髪頭のフロックコートが、あくまで礼儀上の笑顔を保ちつつ、来客の招待状をたしかめる。警備兼案内係。こういう男が年上に思える感覚が、いまだ失われない。やはり自我はせいぜい三十歳のままだ。

 それでも実年齢相応に、こんな場合にとる手段は、むかしとは異なってくる。

 男が向き直った。ルパンは目を細め、さも愛想よく見える微笑を湛えた。

 招待状の提示を要求される、その前に先手を打つ。ルパンは愛想よく話しかけた。

「ソティリオに伝えていただけないかな。ラウール・ドゥヌーヴ侯が現れたと」

 男は面食らった反応をしめし、次いで申しわけなさそうにいった。「あいにくソティリオ・ブルガリは、まだニースにも到着しておりませんで」

 知っている。調べはついていた。だがルパンはさも残念そうに、哀感すら漂わせてみせた。「なんと……。歓喜の声とともに両手を広げるソティリオを、今宵は全身で受けとめたかったのに」

 創業者ソティリオ・ブルガリの友人にして、直接の招待を受けたらしい初老の貴族。そう信じさせるに足る言葉の断片をちりばめ、あとはひたすら同情を誘う。若かったころは強気にでて、威厳ある態度でねじ伏せようとした。けれどもこの歳になってからは、こんなやり方のほうが効果的だった。

 予想どおり男はにこやかに城内を指ししめした。「なかへどうぞ。ソティリオは来られませんが、弊社の重役たちが顔を揃えております」

「ありがとう!」ルパンは一気に距離を詰め、間近に男の顔を見つめた。同時に右手で男の左肩を軽く叩く。ねぎらいの動作に見せかけながら、むろん狙いがある。

 男は急接近したルパンの目を見つめている。だが人間の視界は上方に六十度、下方に七十五度、外側に百度まで達する。男の懐に手を滑りこませれば、視野の下端に動作をとらえられてしまう。肩を叩くことで、前腕により視線を遮り、下方視界を三十度までに制限できる。

 ほんの一秒にも満たなかった。ルパンは男の内ポケットからメモ用紙をすりとった。古城に着く前、ルパンは望遠鏡で状況を観察していた。夕方五時ごろ、男はメモを手渡された。その瞬間の表情により、重要なことが書かれている、そう推測できた。

 賑やかな城内ホールをひとり突っ切る。ルパンは左手のなかのメモ用紙を一瞥した。〝D―Q S―C D―X〞。記載はそれだけだった。

 ルパンはひそかに鼻を鳴らした。連中が二階に運びこんだ大きな鉄箱、あれはやはり金庫だったか。

 行く手から四十代半ばのタキシードが、素知らぬ顔で歩み寄ってくる。ジルベールの振る舞いは堂々としていた。初めて部下に起用したのは、彼が十七歳のころだ。二十歳でギロチンにかけられそうになったとき、ジルベールはすっかり青ざめ、ただ震えるばかりだった。いまやまるで別人、肝が据わった中年の風格を漂わせる。

 ジルベールとのすれちがいざま、ルパンはメモ用紙を手渡した。互いに目も合わせなかった。警備の視線が逸れている隙に、ジルベールがひとり螺旋階段を上っていく。ルパンは悠然と腕時計を眺めた。ジルベールが戻ってきて、一緒に玄関をでるまで、残り八分。

 大広間に入った。シャンデリアの輝きが会場の賑わいを鮮明に照らしだす。大勢の来客が埋め尽くすなか、クラシックの演奏が厳かに流れる。南フランスの伝統風建築を、ブルガリが持ちこんだアールデコ調の装飾が彩る。

 着飾った男女が関心深げに、ガラスケースに入った展示物を鑑賞している。婦人のひとりがいった。「みごとね。ダルタニアンの剣ですって」

 紳士があきれた態度をしめした。「小説のなかにでてくる剣です。現存するはずがない。馬鹿げてる」

 ルパンは声をかけた。「そうでもありません。物質的再現芸術ですよ。音楽の演奏と同様、それぞれの道で名工として知られる職人が、文学に著された架空の品を現出してみせるのです。世界戦争ののち流行し始めた、新進の芸術です」

「芸術?」紳士が眉をひそめた。「戯れにすぎんでしょう」

「いえ。あちらに飾られている『ドン・キホーテ』の甲冑ですが、さるイタリアの富豪により、三百万フランで落札されましてね」

 婦人たちが感嘆の声を発した。「まあ! あれが三百万フランですって」

 全員の目がひとつの方向を見つめる。一同の視線が逸れている隙に、ルパンは婦人のひとりが身につけた首飾りに手を伸ばした。瞬時に留め具を外し奪いとる。首をひねった直後は、筋肉の緊張と弛緩により、首筋の触覚が鈍る。よって婦人が気づいたようすはない。盗んだ理由はただひとつ、宝石をあしらったパフュームボトルがトップのネックレスとはめずらしい、それだけだった。

 だが婦人が甲冑に注意を向けるのは、わずか数秒にすぎない。ルパンは自身の美貌ゆえ、女性陣の目がほどなく戻ると予期していた。ネックレスは迅速にポケットにねじこんだ。

「失礼」ルパンは余裕たっぷりにその場を離れた。

 婦人たちがうっとりとした表情で見送る。同時に男性陣の嫉妬に満ちた、射るような視線にも追われる。いつものことだった。

 大理石の床を横切り、大広間の中央付近に向かいかける。ふとルパンの足がとまった。

 艶やかな和服の婦人が複数いた。日本人一行とわかる。そのなかに、ひとりだけ洋物の白いドレスをまとった、若い女性が立っていた。

 チューブラーシルエットに身を包みながらも、適度に丸みを帯びた上半身と下半身をつなぐ、くびれた腰が浮かびあがる。調和のとれた容姿は、緻密に計算された彫像に似ていた。加えて長い黒髪に色白な細面、極端な小顔がある。西洋のどんな美女にもみられない、真珠のような輝きを放っている。

 東洋人が若く見えることを考慮しても、実年齢は二十歳そこそこだろう。ごく薄い化粧にきめ細かな肌、少女のように清純そのもののつぶらな瞳。これは引き寄せられずにはいられない。

 女性は高齢の西洋人男性と談笑していた。ルパンが歩み寄ると、ふたりが揃って向き直った。いずれの顔にもまだ微笑が留まっている。

 ルパンは挨拶した。「初めまして。ラウール・ドゥヌーヴ侯です」

 男性が手を差し伸べ、イタリア訛りのフランス語でいった。「どうも。ベニート・アルトベッリです」

 ブルガリの重役だ。ルパンは握手に応じながらも、女性から目を離さなかった。初対面で関係を深めたいとき、とるべき常套手段がある。ルパンはさも懐かしそうな表情をしてみせた。「あなたはたしか……」

 戸惑い顔の女性に代わり、アルトベッリが陽気に紹介した。「大鳥喜三郎さんのご令嬢、不二子さんです」

 大鳥喜三郎。おそらく日本の名士か富豪だろう。遠い東洋の国の金持ちには詳しくない。それでもルパンは大きくうなずいた。「ああ! やはりそうでしたか。大鳥さんの」

 不二子はいっそう困惑のいろを濃くした。胸に緑いろの丸いブローチが光る。ヒナゲシの花が彫りこまれていた。去年の六月以降、パリのカルティエが発売した、百個限定の高級品だ。たちまち売り切れたときく。

 ルパンは女性に微笑みかけた。「ツール・ド・フランスのゴール付近でお見かけを」

 すると不二子が驚きの表情に転じた。流暢なフランス語でルパンにたずねてくる。

「あの場においでだったのですか」

 一九二六年六月といえば、ツール・ド・フランスが開催されていた。ゴールはむろんパリだった。不二子はその当時、大勢の目に触れた、そんな自覚があるらしい。ルパンは調子を合わせた。「群衆のなかでも、ひときわめだっておいででしたので」

「恥ずかしいところをお目にかけました」不二子が頰を赤らめた。「近くを優勝者が横切っていったので、はしゃいでしまいまして」

 この女性とふたりきりになりたい。アルトベッリを遠ざける必要があった。ルパンは不二子をうながした。「一緒に踊りませんか」

「……ダンスはうまくなくて」

「お教えしますよ。これから何度も踊る機会があるでしょう」

 不二子は照れたようにはにかみながらも、すなおにうなずいた。「はい」

 初対面の女性をうまく誘った。だがむかしとは少し状況が異なる。アルトベッリはまったく嫉妬をしめさない。ただ微笑ましくふたりを送りだした。ルパンを見あげる不二子のまなざしも、父親に向けられる視線に近かった。

 父と娘ほどの年齢差が安心と信頼を生む。周りで踊るカップルが、特にこちらを気にかけるようすはない。ルパンは複雑な思いを抱えながらも、四拍子のリズムに乗り、ゆっくりとステップを踏んだ。不二子は抵抗なくリードを受けいれている。ひたすら優雅に身を揺らす。

 ルパンはたずねた。「大鳥という家名の意味は?」

「フランス語でグラン・オワゾーです。英語ならビッグ・バード」

「ふうん。大きい鳥か。おぼえやすい」

「父の事業のひとつをご存じなら、より記憶に残りやすいかと」

「なんですか」

「大鳥航空機です。飛行機の製造工場を経営しております」

「飛行機。それはいい。グラン・オワゾー、大鳥の家名にふさわしい事業ですね」

 不二子の笑顔がかすかにこわばるのを、ルパンは見逃さなかった。すると不二子は目が合うのを避けるようにうつむいた。

 ルパンは思いのままを口にした。「由緒正しい旧家というわけではなさそうだ」

「なぜおわかりですか」

「飛行機の製造事業とは冒険心があります。古い頭の持ち主には実現不可能でしょう」

「曾祖父は明治期の政商でした。鉄鋼や造船に代わる新たな事業として、父が一大決心をして……。日本で初めて航空機の大量生産に踏みきったんです」

「すべてを財産でまかなえるとはうらやましい」

「ご冗談を」不二子は苦笑した。「フランスの投資家であられるご婦人が大株主です」

「ああ。こうしてパーティーに出席しなければならないのも、各方面への気配りですか。まだお若いのに、大変な責任を負ってらっしゃる」

 不二子が上目づかいに見つめてきた。「責任にともなうのは苦労ばかりじゃありません。幸運もあります」

「どんな?」

「いまこうして……」不二子は静かに身を寄せてきた。

 喜びと自信がよみがえってくる。ルパンは実感した。どうだ、若いころと変わりはしない。世にも特異な存在、アルセーヌ・ルパンに年齢など関係はない。恋愛においても常人の限界を突破してみせる。

 不二子のくびれた腰を抱き寄せ、しなやかにステップを踏む。ルパンは笑ってみせた。「この国はリンドバーグの大西洋横断飛行の話題で持ちきりです。でも今年あなたの祖国でも、素晴らしい記録が樹立されている」

「どんな記録ですか」

「今井小まつというかたが航空操縦士免許を取得しましたよね。日本の女性ではふたりめだとか」

「よくご存じですね」

「新聞に載っていました」

「わたしも……」不二子はなにかをいいかけて口をつぐんだ。「いえ。なんでもありません」

 悪戯心が芽生えるのは、五十を過ぎても変わらない。ルパンは四拍子を無視し、ふいにウインナワルツのステップに転調した。不二子を抱いたまま高速に横回転する。振りまわされた不二子があわてた顔になった。ルパンは笑いながらターンをつづけた。

 不二子はけっして体勢を崩さなかった。要領をつかんでくると、笑い声をあげる余裕をみせた。不二子がルパンにうったえてきた。「ドゥヌーヴ侯。どうかおよしになって」

「おや? おかしいな。目が回らないようだ。不二子さん。ダッチロールにも平衡感覚を失わない訓練を受けてますね。どうやら操縦士の候補生らしい」

「ドゥヌーヴ侯……」

「ラウールと」

「では、ラウール様。あなたも飛行機にお詳しいのですね。おっしゃるとおり、欧州への留学には、操縦士訓練も含まれていて」

「そうでしょう。リズムが変わってもステップを踏み外さない。三半規管もやられない。あなたは常に冷静だ。操縦士向きといえます」

「本当ですか」

「ええ。請け合いますよ。私がそう信じる最大の理由は、あなたのまなざしです」

「わたしの……?」

「自由を求め、大空を舞いたいと、心から願っておられる」

 不二子は穏やかな表情になった。また四拍子に戻ったステップに、ゆったりと身をまかせる。「ふしぎなお人。なんでも見抜いておられるかのよう」

「飛ぶことを恐れないでください。あなたの国で女性操縦士とは、素晴らしく先進的な職種じゃありませんか。私の浅はかな想像における日本女性とは、あちらにいるおしとやかな着物姿ばかりです。あなたは未来を生きている」

「そんな素晴らしいものでは……」

「いいえ。ご自身ではわからないのです。あなたは大空に浮かぶすべての理想をひとり占めにしている。鳥のように自由で、天使のごとく純粋で、太陽のように熱く燃えている」

「よくわかりません。なぜ太陽のようだと……?」

「私の心が溶け始めているからです」

 不二子の恍惚としたまなざしが見あげてきた。「ラウール様。わたし、こんな気持ちになるなんて」

「どのようなお気持ちですか」

「父のようなかたに、父以上のものを感じている気がします」

 ルパンは軽くむせそうになった。父という言葉をきいたとたん、現実に引き戻されたような気分になる。

 いや。不二子はいま、父以上のものを感じている、そういった。それはすなわち恋心だろう。

「ねえ、不二子さん」ルパンは甘いささやきを口にした。「城の裏庭にでれば、地中海が見下ろせます。いまの時間、月明かりが海面を照らし、光輝いているでしょう」

「それは……。ラウール様。案内していただけますか」

「ふたりきりで外に?」

 不二子はまた照れ笑いを浮かべ、ルパンの胸に頰を寄せた。

 快感とともに上機嫌に浸りきる。いつまでもこうしていたい。ルパンの目はぼんやりと、自分の手首に向いた。腕時計の文字盤をとらえる。

 思わず息を吞んだ。そうだった。ジルベール。八分はとっくに超過しているではないか。

 ルパンは焦燥に駆られながらも、ひとまず笑顔を取り繕った。「不二子さん。私は行かねばなりません」

「まあ」不二子がさも残念そうな顔になった。「こんなに早く……」

「また近いうちに会いましょう。私はここコート・ダジュールに、いくつか別荘を持っていますので」

「素敵ですわ、ラウール様」不二子がぴたりと身を重ねてきた。「でもどうやって……」

「私から連絡します。あなたがどこにいようと、きっとお迎えにうかがいます。たとえ空の彼方だろうと」ルパンは不二子の手をとり、ゆっくりと退いた。「そのときまでしばしのお別れです。では」

 不二子の手の甲に軽く口づけをする。まだルパンを引き留めたがっている、そんな不二子のせつないまなざしを見かえす。ルパンは微笑してみせると、優雅に踵をかえし、その場から立ち去った。

<第2回に続く>