何者かに襲撃される不二子。ルパンは正体を隠し救出に向かうが…/松岡圭祐『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』②

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/16

 松岡圭祐の書き下ろし文庫『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』を全5回連載でお届け! アルセーヌ・ルパンと明智小五郎が、ルブランと江戸川乱歩の原典のままに、現実の近代史に飛び出した。昭和4年の日本を舞台に、大怪盗と名探偵が「黄金仮面」の謎と矛盾を追った先にある真実とは!? ルパン、55歳の最後の冒険。大鳥不二子との秘められた恋の真相や、明智小五郎との関係を綴った『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』。は、全米での出版『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』を凌ぐ、極上の娯楽巨篇です。

アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実
『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 大広間をでるや、ルパンは一気に歩を速めた。玄関ホールに戻ったものの、ジルベールの姿はなかった。

 あいつめ、なにをやっている。ルパンは苛立ちを募らせながら、周囲に警戒の目を配った。ホールをフロックコートが数人うろついている。警備の目が逸れた瞬間を見計らい、ルパンはすばやく螺旋階段を駆け上った。

 城内二階は暗かった。誰もいない廊下を突っ切る。行き先は裏手の角部屋。金庫とおぼしき大きな鉄箱が、昼間そこに搬入されたのを、望遠鏡で確認済みだった。

 半開きのドアを入った。部屋の暗がりには、さまざまな展示物がところ狭しと置かれている。パーティー会場に飾りきれなかった品々らしい。盾や銀食器、燭台、テーブルや椅子。いずれも有名な文学に基づく物質的再現芸術だった。世に蒐集家はいるだろうが、いずれもルパンの趣味ではなかった。

 ジルベールは窓辺で身をかがめていた。金庫のダイヤルをしきりに回している。

「おいジルベール」ルパンは小声でいった。「なにをもたついてる」

「すみません。どうも手間どってまして……。この金庫、とんでもなく重いんです。親分と力を合わせても、まず持ちあがらないかと」

「金庫なんかいらん。中身をだせ。ソティリオ・ブルガリが到着する明日以降、客に披露する宝が隠されてるはずだ」

「どうにもわからないんです。イタリア語なんで、Dが右、Sは左を表わすんですよね?」

「ああ。常識だろう」

「D―Qってのは、右に回して、アルファベットのQの順番……。Aが1で、Bが2と数えていけば、Qは17。それからS―Cってことで、左に3……」

 ルパンは思わず歯ぎしりした。「ジルベール。おまえ何年、俺の下で働いてる」

「もう四半世紀かと」

「ブルガリは近いうち商号をBVLGARIとする。BULGARIの商標は他社が取得済みだからだ。古代アルファベットの綴りではUがなくなる」

「Uがない……」

「帝政ローマのラテン文字だ。だからJとWもない」

「あー! じゃそうすると、Qは16番目……」

「右に16だ。左に3。最後は右にX。Xは21番目になる」

「右に21と」金属音が響いた。ジルベールがいった。「開きました!」

 ルパンは足ばやに歩み寄った。ジルベールが差しだした獲物を受けとる。

 片手におさまる大きさだが、ずしりと重かった。手枷のように太く幅のある、純銀製のブレスレットだった。幾何学模様に無数のダイヤモンドとプラチナがちりばめられている。まさにアールデコ調の美術品の最高峰。鬼才の銀細工職人、ソティリオ・ブルガリの傑作にちがいない。これは値がつけられないだろう。

「よし」ルパンはブレスレットをポケットにおさめた。「ジルベール。先に行ってエンジンをかけとけ。すぐ追いかける」

「わかりました」ジルベールが部屋を駆けだしていった。

 退出には時間差を置かねば玄関先でめだつ。もしジルベールが怪しまれたら、彼はその場で騒ぎを起こし、囮になる手筈だ。ルパンは余裕をもって脱出できる。捕まったジルベールはあとで助けに行けばいい。以前にもやったことだ。

 仕事の記念を忘れてはならない。ルパンは万年筆をとりだした。からになった金庫のわき、壁紙にペンを走らせる。アルセーヌ・ルパンとサインした。

 金庫の前を離れようとしたとき、ルパンは間近に人の気配を察した。思わず立ちすくんだ。

 だがそれは等身大の人形だった。顔を金いろの仮面が覆っている。金の刺繡をしたマントも羽織っていた。

 ルパンはため息を漏らした。『黄金仮面の王』か。マルセル・シュオブの短編にでてくる仮面の再現だった。

 ただし想像とはずいぶん異なる形状をしている。ふつうに考えれば、仮面舞踏会の仮面が金いろになった、そんな物体を思い描くだろう。だがここに再現された黄金仮面には、凹凸がほとんどなかった。装飾はほぼ彫りこまれず、目と口の部分だけが三日月形に刳り貫かれている。東洋の仏像のように、艶やかで滑らかな表層の仕上げが特徴的だった。

『黄金仮面の王』において、王は何者なのか、どこの国のいつの時代を舞台にしたのか、まるで明白ではない。いま目の前にある黄金仮面は、中世史家で文献学者のピエール・シャンピオンによる解釈に近い。シャンピオンが今年だした本には、この王が仏陀に基づいている、そう書いてあった。

 ほかにもさまざまな推測がなされている。西洋と東洋が融合した物語とも考えられた。著者のシュオブがユダヤの血統のため、ユダヤ人の王ではないかとする説もある。

 王は偽りの顔に囲まれていることに絶望した。みずからの仮面の下の醜悪さに怯えた。病を受け継がせた王家の血筋をも憎悪した。ほどなく王は自分の目を潰した。

 なにがそこまで王を追い詰めたのだろう。富める暮らしのすべてを捨て、孤独を選んだ理由はどこにあったのか。

 ルパンは黄金仮面を眺めていた。長いこと目を離せなかった。けっして魅了されているわけではない。だがなぜか胸騒ぎがしてくる。

 黄金仮面の王が感じた絶望、その果てにあった孤独と死。あの短編はなんらかの啓示だろうか。世にも特異な存在、無法者の極み。アルセーヌ・ルパンも人生を振りかえるときかもしれない。

 かすかな物音を耳にした。ルパンは我にかえった。石畳を歩くヒール。歩調はゆっくりとしている。窓の外からきこえてくる。

 窓辺に歩み寄った。ルパンは屋外の暗がりを見下ろした。二階の高さだった。裏庭だけにひとけはなかったが、そこを白いドレスの女性が歩いてくる。大鳥不二子だった。森のほうに視線を投げかける。海を眺められる場所ではない。不二子は戸惑ったようすでさまよいつづける。

 ルパンは唇を嚙んだ。若い女性が出歩くべき時間ではない。城の敷地内だけに危険はない、そう思いたいが、コート・ダジュールに不案内な異国の女性だ。森に迷いこんだら、方角を見失ってしまうかもしれない。

 城の裏庭にでれば、地中海が見下ろせます。そんなふうに告げたのはルパンだ。不二子はあの言葉にいざなわれたのだろう。彼女は和服の集団のなか、ひとり浮いているように見えた。パーティーに溶けこめず、寂しさを感じていた可能性もある。ルパンと出会ったことで、不二子のいたたまれなさに拍車がかかったのか。

 後ろ髪を引かれるものの、いまは退去を急がねばならない。ルパンは窓辺を離れかけた。

 ところがそのとき、不二子の悲鳴をきいた。ルパンははっとした。ふたたび窓の外に目を凝らした。

 黒い人影が四つ出現している。こぞって不二子に群がっていた。戯れには思えない。ひとりが不二子に背後から抱きつき、手で口を押さえた。ふいに悲鳴が途絶えた。男が不二子を羽交い締めにし、連れ去ろうとする。不二子は脚をばたつかせ抵抗した。ひとりの男が不二子の腹を殴りつけた。呻き声がかすかに響く。不二子は地面にくずおれたものの、失神には至らなかったようだ。四つん這いになり、嗚咽とともに逃げまわる。四人は嘲笑うかのように不二子を包囲した。

 こうしてはいられない。だがルパンは出方を迷った。不二子にはまた会いたい。ルパンでなくラウール・ドゥヌーヴ侯として。

 ドゥヌーヴ侯はとっくに城を去ったはずだ。ブルガリの宝が消えたことは、ほどなくあきらかになる。アルセーヌ・ルパンのサインも見つかる。ドゥヌーヴ侯がルパンだったと、不二子に悟られたくはない。

 判断を下すまで二秒とかからなかった。ルパンは黄金仮面に手を伸ばした。思ったより軽い。純金でないのは明白だった。仮面の左右に蔓が突きだしている。先端が斜め下方に曲がっていた。眼鏡の先セルと同じく、耳にかけられる仕組みだ。

 黄金仮面はルパンの顔にぴたりと嵌まった。思ったより広い視野が確保されている。呼吸も申しぶんない。金いろのマントを人形から引き剝がし、タキシードの上にまとった。

 なんの酔狂でこんな扮装をするのか。正体を隠すにしても、もっと選びようがあるだろう。残念なことに一刻を争う事態では、これ以外に方法がなかった。

 ルパンは窓に突進した。身体ごとぶつかりガラスを割る。飛び散る破片から仮面が顔を保護する。窓枠に片足をかけ、ルパンは屋外に跳躍した。

 風圧を全身に浴びる。二階の高さだけに、落下はさして長くつづかなかった。石畳から逸れた芝生に、ルパンは転がりながら着地した。柔道の受け身の要領で首を曲げ、頭が地面に打ちつけられるのを防いだ。

 ふたたび起きあがったとき、石畳にへたりこんだ不二子を目にした。恐怖のまなざしを向けてくる。襲撃した男たちも同様だった。四人のうち三人は腰が引けている。全員が白人、年齢は三十代と思われた。タートルネックのセーターとスラックスは黒。全身黒ずくめは、闇夜の隠密行動の基本だった。

 それに引き替えルパンは、黄金の仮面に黄金のマント、派手づくしの装いだ。常軌を逸している。敵も行動を迷ったらしい。だがよほど不二子を連れ去りたいのだろう、退散する気配はなかった。ひとりの男がルパンに飛びかかってくる。右手のこぶしに銀いろの刃が突きだしていた。

 ルパンはマントの裾をつかみ、敵のナイフを巻きこんだ。布にくるんだ敵の手首を強く締めあげる。黒セーターの胸倉を掌握しながら、ルパンは片膝をつき姿勢を低くした。瞬時に敵を背負い、前方へと投げ技を放つ。敵はもんどりうって背中から石畳に叩きつけられた。

 マントを広げ、奪ったナイフを遠方に放りだす。ふたりめの敵が拳銃を向けようとしていた。一瞥して国産の軍用自動拳銃だとわかる。ルパンは身を翻し、マントの裾で敵の視界を塞ぐや、片脚を高く振りあげた。膝の裏側で敵の腕を挟みこむ。銃口を逸らすと、ルパンはみずから地面に転がり、敵の重心を崩した。脳天を石畳に激突させる。男は呻き声とともに全身を弛緩させた。

 ルパンが地面に転がったからだろう、三人めは勝機とばかりに、すかさず上方から襲いかかった。だがルパンはそれを予期していた。距離を詰めてきた敵の足首を水平に蹴った。足払いをかけられた敵が横倒しになる。ルパンは跳ね起き、敵のうなじに手刀を見舞った。のけぞった敵が痙攣し、ほどなく脱力した。

 最後のひとりが少し離れた場所に立っている。長身で瘦せていた。その男がフランス語で低くつぶやいた。「ああ。琉球の唐手か」

 年齢はほかと同じぐらいだが、ひとりだけ服装がちがう。ジャケットの下にウエストコート、シャツにネクタイ。それでもすべてを黒に統一している。全身黒ずくめながらスーツを好む、変わった趣味だった。帽子はない。猫のように柔らかな金いろの毛髪が、微風にそよいでいる。

 色白で鷲鼻、顎の幅が広かった。にもかかわらず目鼻立ちは均整がとれている。肖像画のように見えてくるのは、いささかも動じない澄まし顔のせいか。

 前に会ったことがある、ルパンはそう思った。だがどこだったか。アフリカのモーリタニア帝国か、パリのテルヌ地区か。男の顔が変わっていないとすれば、さほどむかしではないだろう。

 男は悠然と立っているようで、わずかな隙も見せない。常に身体の正面をルパンに向けている。自分から近づこうとはしない。

 だが男は中年のルパンが立ちあがるまで、あるていど時間がかかる、そう判断したらしい。不二子のもとに歩み寄ると、腕をつかみあげた。力ずくで引き立てようとする。不二子は泣きながら拒んだ。

 ルパンは地面を蹴り、瞬時に身体を起こすや、男に猛然と突進した。間合いに入って胸倉をつかめば、柔術の投げ技に持ちこめる。

 ところが男はルパンを一瞥すると、ふいに高い蹴りを繰りだしてきた。唐手の蹴り技とはちがう。片脚が鞭のようにしなり、曲線を描きながら飛んでくる。ルパンは避けきれず、もろに側頭部を蹴られた。甲高い耳鳴りとともに、頭部全体に激痛が走った。男は軸脚を動かさず、片脚を宙に浮かせたまま、縦横に蹴りを浴びせてきた。

 敵はたったひとりだというのに、ルパンは群衆に囲まれ、滅多打ちにされるも同然のありさまだった。矢継ぎ早の蹴撃、恐るべき早業と威力。男が身体を横方向にひねり、軽く跳躍した。回し蹴りをルパンの顎に食らわせてきた。ルパンは石畳の上に仰向けに転がった。うつろな金属音が響く。仮面が飛び、近くに落下したとわかる。

 不二子が愕然としていった。「ラウール様……」

 ルパンは思わず顔に手をやった。どんな表情を取り繕うべきかわからない。不二子は地面にへたりこんだまま、驚きのいろとともにルパンを見つめている。

 その視線が逸れた。不二子がなにかを目で追っている。ルパンもそちらを見た。衝撃が走った。ブルガリのブレスレットが石畳の上を転がっていく。

 茫然とした不二子が、ふたたびルパンに向き直る。しだいに憂いのいろが濃くなっていく。

 ルパンは皮肉を感じた。いちどに三つの失態が重なった。不二子に正体が割れた。宝も不二子も失った。これも寄る年波のせいか。実際、身体の痺れが消えない。蹴りを浴びた痛手は、思いのほか深刻だった。絶えずめまいが襲う。いまだ立ちあがれない。

 黒ずくめのスーツがルパンを見下ろした。歯ごたえのない年寄りめ、そういいたげな目をしている。男は向きを変え、またも不二子に詰め寄った。

 静寂に誰かの怒鳴り声が響いた。「賊だ! ブレスレットがなくなってる。アルセーヌ・ルパンだ!」

 二階の窓に明かりが灯った。叫び声や悲鳴も交ざりあう。石畳に複数の靴音がこだまする。犬の吠える声を伴っていた。捜索はじきに、この裏庭にまでおよぶ。

 眼前の敵は動きをとめていた。男が苛立ちをあらわにしながら、周囲に警戒の目を向ける。不二子を拉致したうえで、逃げおおせられるかどうか、思考をめぐらせているらしい。

 そのときクルマのエンジン音が轟いた。敷地に隣接する森の奥から、馴染みのクルマが飛びだしてきた。シトロエンのふたり乗り、長いボンネット、幌のない直線的な車体。四輪が石畳の上を突っ走ってくる。運転席のジルベールが怒鳴った。「親分!」

 二階の窓に複数の顔がのぞいた。誰かがわめき散らした。「裏庭だ! 賊はまだ裏庭にいるぞ!」

 黒ずくめのスーツが忌々しげにルパンを睨みつけた。不二子を連れ去る暇はない、そう判断したのだろう。男は甲高く口笛を鳴らした。地面に横たわる三人が、ふらつきながら立ちあがった。四人はひとかたまりになり、森のほうへ逃走していった。

 ルパンもなんとか身体を起こした。歩きだそうとしたとたん転倒しかけた。まだ足もとがおぼつかない。

 不二子は座りこんだままだった。目を合わせるのが辛かった。手を差し伸べたいが、ふたりのあいだには距離があった。なんとも情けないことに、不二子に歩み寄ろうにも、足首に痛みが走る。

 因果応報かもしれない。無法者は新参の無法者に打ちのめされる。老いていけば、いずれ取って代わられる。それが運命だった。きょうがその日でなかったとどうしていえるだろう。

 シトロエンが眼前に滑りこんできた。ブレーキ音が耳をつんざく。急停車するや、運転席のジルベールが呼びかけてきた。「親分、急いで!」

 ルパンは不二子を見つめた。不二子の哀愁に満ちたまなざしがルパンを見かえした。なにをいうべきかもわからない。犬の吠える声が接近してきた。集団の靴音も大きくなった。

 助手席のドアも開けず、ルパンは頭からシートに飛びこんだ。同時にシトロエンが発進した。速度が急激に上昇する。振動が全身を揺さぶりだす。耳をつんざくエンジン音のピッチが、際限なく高まっていく。

 行く手を鉄格子状の塀が遮る。しかし事前にノコギリの刃をいれておいた。シトロエンの前部が衝突するや、車幅がぎりぎり通れるだけの塀が倒れた。木立のなかの道なき道を、シトロエンは猛進していった。

 ルパンはやっとのことで体勢を変え、シートにおさまった。金いろのマントを脱ぎ、車外に投げ捨てた。夜空を見あげる。月はもう高いところまで昇っていた。

 ジルベールがステアリングを切りながらきいた。「なにがあったんです?」

 答える気になれない。ルパンはただ文学の一節を小声で口にした。「黄金仮面の王よ。誰が知りましょう。あなたご自身、仮面の装飾に反し、身の毛もよだつような恐ろしい顔であられることを」

「親分……。だいじょうぶですか」

 ルパンはポケットをまさぐった。唯一残った獲物をとりだす。宝石をあしらったパフュームボトルがトップのネックレス。無価値に等しい。ただめずらしいというだけでしかない。空虚な思いがひろがる。ルパンはネックレスを道端に放りだした。

「帰ろう」ルパンはささやいた。たまには己れを奮い立たせない、そんな生き方もいい。

<第3回に続く>