帰国した不二子。窮屈な生活のなか、ルパンを想う日々を過ごす/松岡圭祐『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』③

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/17

 松岡圭祐の書き下ろし文庫『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』を全5回連載でお届け! アルセーヌ・ルパンと明智小五郎が、ルブランと江戸川乱歩の原典のままに、現実の近代史に飛び出した。昭和4年の日本を舞台に、大怪盗と名探偵が「黄金仮面」の謎と矛盾を追った先にある真実とは!? ルパン、55歳の最後の冒険。大鳥不二子との秘められた恋の真相や、明智小五郎との関係を綴った『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』。は、全米での出版『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』を凌ぐ、極上の娯楽巨篇です。

アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実
『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 不二子は客船に架けられたタラップを渡った。降り立ったのは新港埠頭だった。初夏の陽射しの下、日傘をさしながら歩く。荷物はトランクが数個、いずれも係員が運んでくれる。

 空は広い。海と同じぐらい、はるか彼方までかぎりなくつづく。新港埠頭の周りにはなにもなかった。客船が横付けされたコンクリート造の人工島は、ほとんどひとけもなく、やけに閑散としている。軍艦の浮かぶ港方面には目を向けたくない。不二子は視線を陸に移した。正面に赤煉瓦倉庫が見えている。黒い煙を噴きあげながら、機関車が貨物車両を牽引し、ゆっくりと横切っていく。

 埠頭に漂う寂しさは、クルマの乗りいれが制限されている、そのせいでもあるのだろう。下船した乗客らがあちこちに散っていく。迎えに来た身内と、それぞれに再会を果たす姿がある。羨ましいと不二子は思った。旅の思い出を語りながら、駅までの長い道のりを歩く。そんなささやかな楽しみすら、不二子は経験したことがない。特等船室の乗客は、迎えのクルマの進入が許されるからだ。

 いまも目の前に自家用車が停まっていた。ピアス・アロー、アメリカの高級車だった。形状は乗合馬車のようでもある。前方に低く張りだしたボンネットに、四つのドアと六つのサイドウィンドウを持つキャビン。むろん屋根もある。

 制服の運転手が制帽を脱ぎ、かしこまって立っている。その横には丸眼鏡に胡麻塩髭、折り目正しい羽織袴姿の執事、尾形が並ぶ。さらにやはり和服姿の老婦がいる。母親に代わり、不二子が乳児のころから面倒を見てくれた、傅のお豊だった。ふたりとも前時代的な装いそのものだ。

 不二子は失意にとらわれた。やはり両親の姿はなかった。

 尾形が深々とおじぎをした。「おかえりなさいませ、お嬢様」

 お豊も笑顔で歩み寄ってきた。「ゆうべからお父様は、お嬢様のことが心配で心配で、いっこうに眠れないとおっしゃってましたのよ」

「なぜ?」不二子はきいた。

「なぜって、南フランスで盗賊と鉢合わせなさったんでしょう? それをきいてからというもの、わたくしも生きた心地がしませんでしたわ」

 寒々とした気分が胸のうちにひろがる。あれは一年も前のできごとだ。

 父がそんなに娘のことを気にかけているのなら、きょうここに現れないのはおかしい。欧州から日本まで、インド洋まわりでひと月半もかかる。不二子が帰路についたときには、到着日もわかっていたはずだ。

 尾形が察したようにいった。「お父様は軍部のかたと連日会議で、どうしても席を外せなかったのですよ。お母様もお屋敷におられないと、清子お嬢様の女学校から、なにか連絡があるやもしれませんし」

 清子は不二子の妹だった。全寮制の女学校に通っている。寂しがり屋の清子は、ときどき家に帰りたがる。母は清子に振りまわされていた。それでも母はもともと世話焼きな性格だった。頼られるのを好むふしがある。なんでも自分でしようとする不二子を、母はかわいげのない娘と感じているようだ。

 運転手がドアを開けた。不二子は後部座席に乗りこんだ。お豊が並んで座った。尾形は前方の助手席。すべて定位置だった。日本に帰ってきてしまった、その思いをいっそう強くする。

 クルマが埠頭を走りだした。お豊がたずねた。「欧州はいかがでしたの?」

 不二子は黙っていた。両親への便りなら、毎月のようにだしてきた。経験したほとんどを綴った。いまさら傅のお豊に話すことはない。

 ただし伏せていることもあった。アルセーヌ・ルパンとの出会いだ。それ以前に、四人の暴漢に襲われた事実も、まだ両親に打ち明けていない。

 コート・ダジュールの古城の裏庭で、不二子は暴漢たちに連れ去られそうになった。理由はまったくわからない。しかしあのような場所を、女ひとりで歩くべきではなかったのだろう。

 地元の警察が駆けつけ、不二子は保護された。刑事は不二子を気遣い、日本領事館を通じ、両親に連絡しようとした。不二子は頑なに拒んだ。外交官を務める伯父にも電報を打ち、なにも知らせないでほしい、そのように頼んだ。

 それでもブルガリのパーティーにおける窃盗未遂事件は、すでに世界じゅうの紙面を賑わせていた。結局、不二子が裏庭で泥棒と鉢合わせした事実だけは、証言させられる羽目になった。言葉ひとつ交わさずすれちがった、泥棒の顔も見ていない。不二子はそういった。

 なぜ秘密にしようと思ったのか。答えはあきらかだった。あの人は窃盗を果たさなかった。ブルガリのブレスレットを落としたのは、たしかに偶然かもしれない。だがそうなった理由は、彼が身を挺して不二子を救おうとしたことにある。

 あの人はなにも恐れなかった。会ったばかりの不二子のため、命がけで暴漢たちに立ち向かっていった。

 クルマの縦揺れが突きあげてくる。速度があがっていた。不二子は窓の外に目を向けた。いつしか京浜国道に乗りいれている。

 道幅十六間の路面は、アスファルトコンクリートで舗装済みだった。横浜周辺だけに、明治や大正期からの西洋館が多く建ち並ぶ。アジアで発達したコロニアル様式に近い。ただし五年前の震災のせいで、石造や煉瓦造の建物は、軒並み崩壊してしまった。代わりに文化住宅が増えている。和風住宅の玄関わきに、小さな洋間が設けてあった。屋根は全体的に和瓦ながら、洋間の部分だけ切妻屋根、スペイン瓦が覆う。そこの外壁にかぎり、窓も上げ下げ式だった。

 丘の上に差しかかると、点在する集落の向こうに、復興帝都の中心部が見えてきた。百貨店の近代的なビルが集うのは銀座だ。宣伝用の航空気球は、京浜国道沿いにも無数に浮かんでいる。第三次山東出兵記念セール。垂れ幕にはそう記してあった。

 不二子は憂鬱な気分にとらわれた。なにもかも軍部か。日本国内の世論は、大陸への進出を楽観的にとらえている。欧州に暮らせば、ちがったものが見えてくる。この国は着実に戦争への道を歩みだしている。それは誇らしいことなのだろうか。

 クルマはわき道に入った。ここには前にも来たことがあった。父の関連企業の裏にある駐車場だった。別の自家用車が停まっている。キャデラック・タウンセダン。不二子の乗るピアス・アローは、その隣りに停車した。

 運転手が車外に降り立ち、ピアス・アローの後部ドアを開けた。

 お豊がいった。「お降りください」

 不二子はため息をついた。「まだうちの住所を秘密にしてるの?」

「当たり前ですよ。お父様は軍部の機密に関わる重要なお仕事を……」

「お父様はうちで仕事はなさっていないでしょ」

「それでもどんな危険があるか、わかったものではありませんのよ。お父様は奥様や不二子お嬢様、清子お嬢様のことを、常日頃から心配なさってるんです」

「心配してるのは土蔵の中身でしょ。放火されて紫式部日記絵巻が燃えちゃ困るってだけ」

「まあ、不二子お嬢様。なんて乱暴な仰り方を……」

 小言にはうんざりだった。不二子はさっさとクルマを降りた。逃げるも同然に、隣りのキャデラックに乗り移る。

 知人を気楽に屋敷へ招く、それすら許されない。立派な洋館ではあっても、窓という窓の鎧戸を閉めきってしまえば、明かりひとつ漏れださない。世俗から隔離された、暗く閉塞感のある住まい。そこが不二子の帰る場所だった。まるで牢獄だ。

 自由に大空を飛びまわりたい。操縦士免許も取得できていないのに、まだ日本に戻りたくはなかった。雲の上まで戦場にしたがる父を尊敬できない。いま身を寄せたいのはあの人だけだ。

<第4回に続く>