“ルパンの息子”を名乗る日本人青年が現れる!? その真相は…/松岡圭祐『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面に真実』④
公開日:2021/12/18
松岡圭祐の書き下ろし文庫『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』を全5回連載でお届け! アルセーヌ・ルパンと明智小五郎が、ルブランと江戸川乱歩の原典のままに、現実の近代史に飛び出した。昭和4年の日本を舞台に、大怪盗と名探偵が「黄金仮面」の謎と矛盾を追った先にある真実とは!? ルパン、55歳の最後の冒険。大鳥不二子との秘められた恋の真相や、明智小五郎との関係を綴った『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』。は、全米での出版『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』を凌ぐ、極上の娯楽巨篇です。
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アルセーヌ・ルパンはパリ5区と6区の中間、リュクサンブール公園に近い酒場にいた。午後三時すぎ、店内に客はいない。経営者にいくらか金を渡せば、貸し切り状態を保証してくれる。おかげでカウンターにのんびりと座っていられる。
もっとも口をつけるのは、いつものようにただの水でしかない。グラスの半分も減っていなかった。水面に映りこむ初老の男の顔が、波紋のなかに揺れている。
一九二九年の二月。ルパンもじきに五十五になる。ふと自分の年齢を意識するたび、なんともいえない鬱屈とした気分が押し寄せる。
隣りに座るジルベールは、まだ四十六歳だからか、ジョッキを呷るさまにも余裕がある。ため息とともにジルベールが話しかけてきた。「親分」
「なんだ」
「資産ですけどね。前みたいに宝石や金の延べ棒のまま、あちこちの洞窟や川岸に隠しといたほうがよくないですか」
いまさらそんなことを。ルパンは鼻を鳴らした。「エトルタの針岩にあった財宝みたいに、フランス政府に寄贈しちまうのは惜しい」
「だからって、ぜんぶアメリカドルにするなんて。フランス中央銀行やらアンゲルマン銀行やらに預金しとくもんだから、マフィアなんかに狙われたんですよ」
「アメリカは好景気だ。ドルは高騰してうなぎ登り。株取引も悪くない」
「投資じゃよく失敗してらっしゃったのに……」
「近いうちに移住するんだよ、アメリカに。新天地で悠々自適な生活を送ろうかと思う」
ジルベールが顔をしかめた。「ひところは一国の皇帝にまでなったお人が、なんて質素な」
「皇帝?」ルパンは自嘲ぎみに笑った。「ひょっとしてモーリタニア帝国のことか」
「そうっすよ。蛮族どもの捕虜になりながら、反対にやっつけちまって、国を乗っとったんだから。本当にすげえ親分ですよ。どんな泥棒でも国ごと盗むなんて……」
靴音が近づいてきた。もうひとり旧知の男がジルベールに声をかけた。「おまえをモーリタニアに連れてかなかったのは正解だった。単純すぎて、ほかの盗賊に身ぐるみ剝がされちまう」
額の禿げあがった五十過ぎ、グロニャールもルパンの隣り、ジルベールとは反対側の席に腰かけた。
ジルベールはグロニャールに不満をしめした。「現地で親分の建国を手伝ったからって偉そうに」
グロニャールは酒瓶を一本手にとった。「なにを盗ろうが、泥棒の仕事なんて同じなんだよ。こそこそと暗いところを動きまわって、なるべく最小限の手間で人をだまし、儲けなり財産なりをかっぱらう。大冒険なんかありゃしねえ」
「そりゃどういうことだよ」
ルパンは話題を変えたかった。「グロニャール。調べはついたのか」
「ええ」グロニャールは内ポケットに手をいれた。「コート・ダジュールの古城に現れた四人組ですが、マチアス・ラヴォワ一味っすよ」
「ラヴォワ? 俺より年上のあいつか」
グロニャールが一枚の写真を置いた。いろを失った白黒の画像でも、絵画よりはずっと現実を伝えてくれる。五人の男たちが寄り集まっていた。真んなかに座るのは白髪頭に白髭、皺だらけの顔ながら、やたら目つきの鋭い男。ルパンは直接会ったことがなかったが、この男の噂はきいている。
ラヴォワ窃盗団は大量の株券を奪うことに執着する。そのためには殺し、放火、誘拐も厭わない。株券を手当たりしだいに盗んだとしても、紙幣ほどの値もつかない場合が大半のはずだ。けれどもラヴォワが目をつける株券は、その後きっちり高値をつける。市場を見る目もたしかなのだろう。
ほかの四人はラヴォワよりずっと若い。たしかにあの夜、古城の裏庭で見た顔ばかりだ。いちばん端に最も腹立たしい輩がいる。あいかわらずの澄まし顔だった。ルパンを蹴り飛ばした男だ。
忌々しい気分がよみがえる。ルパンはその男を指さした。「こいつの名は?」
「リュカ・バラケ。ラヴォワ一味でも最高のやり手だそうです。長いこと中国に行ってたらしいですよ」
あの妙な足技は中国の格闘法か。ルパンはグロニャールに問いただした。「こいつらが大鳥不二子を誘拐しようとした理由は?」
「それがどうも、大鳥航空機って企業はこっちじゃ上場もしてねえし、ラヴォワが狙う理由はないんです。このところラヴォワは銀行を襲っても、株券じゃなく現金を奪ってます。察するに一攫千金にも限界を感じだして、方針を変えたんじゃないですかね」
「なら営利誘拐だってのか。日本の令嬢じゃ身代金をとるにもひと苦労だろう」
「裏庭は暗かったんでしょう? ほかの誰かとまちがえたのかも」
ジルベールがうなずいた。「あの晩のパーティーには、白いドレスの女がほかにも何人かいました。調べてみますか?」
「そうだな」ルパンはつぶやいた。「いちおう頼んどくか」
納得はできない。ラヴォワの手下四人は、不二子の口を手でふさぎ、羽交い締めにした。いかに暗かったとはいえ、フランス人やイタリア人の女性と見誤ったとは考えにくい。現に不二子は、黄金仮面の外れたルパンの素顔を、ひと目で見てとった。
ルパンは写真に手を伸ばした。「これはもらっていいな?」
「どうぞ」グロニャールがためらいがちにいった。「あのう、親分。ほかにも調べとけと命じられた件で、気になることがあるんですが」
「どんなことだ」
「まずフェリシアン・シャルルのその後です」
思わずため息が漏れる。ルパンは吐き捨てた。「もういい。気にしていない」
「生い立ちを追いかけてみたんですが、どうも親分との接点は……」
「だからもういいといってる」
五年前にルパンが雇った青年建築技師、フェリシアン・シャルル。ひょっとしたら幼くして攫われた息子かもしれない。そんな疑念にとりつかれたことがあった。
ルパンは二十歳のころ、最初の結婚をした。美しきクラリス・デティーグとのあいだに、男の子が誕生した。ルパンはわが子をジャンと名づけた。
クラリスは産後の経過が思わしくなく、ほどなく息をひきとってしまった。ルパンは唯一の息子ジャンに愛を注ごうと誓った。
だがそれは果たせなかった。カリオストロ伯爵夫人ことジョゼフィーヌ・バルサモが、生まれて間もないジャンを誘拐したからだ。
ジルベールが首を横に振った。「フェリシアンが親分のご子息ジャンなのか、そうじゃないのか、どうやって証明できるってんだよ。誘拐犯のジョゼフィーヌ・バルサモは、コルシカで死んじまったんだろ?」
「ああ」グロニャールが淡々と応じた。「だからその線じゃたどれない」
「親分も親分ですよ。フェリシアンに会って、親の勘ってのは働かなかったんですかい? ふつう目が親分に似てるとか、クラリス様の面影があるとか……」
そんな発想はなかった。ルパンは率直にそう感じた。「顔の特徴なんて、いくらでも変えられる。それが俺の常識だ。だから息子もそんな色眼鏡で見ちゃいない」
「色眼鏡じゃなくて、世間じゃまずそうやって、親子かどうか推し量るもんですよ」
問題は息子ジャンを攫ったのが、凶悪きわまりない女という事実だった。カリオストロ伯爵夫人ことジョゼフィーヌ・バルサモ。彼女はジャンを誘拐したのち、部下たちに命令書を遺した。〝子どもを盗賊に、可能であれば極悪人に育てあげること。将来は父親の敵となるように〞。
カリオストロ伯爵夫人と第三者がきけば、どこかの貴族かと誤解するだろう。実際やたらと仰々しい名だ。だがカリオストロ伯爵とは、十八世紀のペテン師の自称でしかなかった。交霊術や錬金術、占星術の達人として、あちこちで大規模な詐欺を働いた男だ。
のちに盗賊団の首領でもある女泥棒、ジョゼフィーヌ・バルサモは、これも勝手にカリオストロ伯爵夫人を名乗った。二十歳のころのルパンが出会ったとき、彼女は三十歳そこそこの美女だった。本当にカリオストロ伯爵の妻だったのなら、あの時点で百歳を超えていることになる。だが彼女は悪びれず、自分は不老不死だと、堂々と偽ったりもした。
妖艶でありながら、慈悲深い聖母という印象も併せ持つ、なんともふしぎな魅力を放つ存在。それがカリオストロ伯爵夫人ことジョゼフィーヌ・バルサモだった。
ルパンはジョゼフィーヌと関係を持った。泥棒としての手ほどきも受けた。彼女はルパンにとって、年上の恋人であり、人生の師でもあった。
そんなジョゼフィーヌをルパンは裏切った。あの女の悪行に嫌気がさしたからだ。ジョゼフィーヌが激怒するのは当然の成りゆきだった。
じき五十五になるいま、自分の人生を振りかえり、揺れ動くものを感じる。ジャンが奪い去られたのは、あの女のせいなのか。アルセーヌ・ルパンという父親の下に生まれた、それこそが悲劇の引き金ではなかったか。
ジルベールがからかうような口調でこぼした。「なあグロニャール。フェリシアンがジャンじゃないらしいって、それぐらい俺にもわかってたぜ? なにしろ親分にまったく顔が似てねえからな。亡きクラリス様の顔写真も見たけど、そっちにも似てねえ」
「クラリス様だ?」グロニャールが侮るようにいった。「おめえのお袋とまちがえてんじゃねえのか」
「ふざけんな。お袋とまちがえるかよ」
「問題はフェリシアンじゃねえんだ」グロニャールがルパンに向き直った。「親分。ラヴォワ一味を調べててわかったことです。去年ラヴォワはパリである男と会ってます。これがなんと、親分の息子と騒がれてる人物だったんです」
「なに?」ルパンは思わず頓狂な声を発した。「騒がれてるって、いったい誰が騒いでるんだ。蚤市に集まるご婦人たち二、三人か?」
「いえ。六千万人です」
「馬鹿いうな」
「本当っすよ。俺も直接きいたわけじゃないんですがね。なにしろ日本語はわからないもんで」
「なんだと。日本語?」
「噂してる六千万人ってのは、日本の全国民ってことですよ。いいですか。まず問題の男は一八九四年生まれです。親分がクラリス様と結婚なさった年です」
いきなり的外れな根拠を挙げてくる。ルパンはうんざりした。「グロニャール。俺がクラリス・デティーグと結婚したのは、たしかにそのころだ。だがジャンが生まれたのは五年もあとだぞ」
「いま三十五ってのは、その男がいってるだけのことです。出生が不明なら、五年ぐらいのちがいはありうるでしょう」
「出生不明なのか?」
「さあ。そこもあまり、日本のことなんで……」
ジルベールが笑った。「なんだよ、いい加減なことばかり抜かしやがって。次はブローニュの森でマリー・アントワネットの幽霊と茶をしばいたとかか?」
「黙れ。茶化すな。俺は親分と話してるんだ」グロニャールはやけに熱心な態度をしめしてきた。「親分。その男は三十ぐらいに見えたらしいんです。パリには素顔で現れましたが、じつは変装の名人なんですよ。柔道の達人でもあります。異常なほどの行動力と観察眼、推理力も有するとか」
ふいに注意が喚起された。変装の名人。それだけでも聞き捨てならない。ルパンはグロニャールを見つめた。「そいつはフランス人なのか?」
「高身長で瘦身、脚がすらりと長く、細面です。白人の血じゃないかと、ふだんから囁かれてるそうで、フランス語もペラペラです」
「ということは、いちおう日本人として通ってるわけか」
「ええ。日本に住んでますからね。俺が集めた情報によると、去年まで三年間、中国やインド、ヨーロッパをめぐってたそうです。前は垢抜けない東洋人の身なりだったんですが、パリで洋服を選ぶころには、すっかり周りに溶けこんでたらしくて。ジャン・コクトー主宰の社交クラブにも出入りしていました」
ということは身綺麗にしたとたん、よほど洗練された外見に変貌したわけか。ルパンはきいた。「六千万の日本人が、そいつを俺の息子と噂してるってのか?」
「アルセーヌ・ルパンの名は伝説ですからね。本気にしている者もいれば、半信半疑の者もいるでしょう。でもそういう形容がぴったりだと、誰もが思ってるようです。現地の新聞にもよく、その男の名が取り沙汰されてますから」
「泥棒なのか?」
「いえ。いちおう探偵を生業にしているそうで」
「日本の探偵がなぜラヴォワなんかと会う?」
「さあ。そこまでは……。残念なことに写真も手に入らないんです。シャンゼリゼ通りのエリゼ・パラスでラヴォワと会ったのはたしかなんですが」
超一流ホテルで盗賊団の首領と密会とは、大胆不敵な男だった。探偵という職業も隠れ蓑の可能性が高い。かつてジム・バーネットを名乗り、探偵業を営んでいたルパンにしてみれば、むしろほかの可能性は考えられなかった。
ジャンが成長し、日本にいる。ル・ブークのトーマが、フェリシアンはジャンかもしれないといいだした、あのとき以上に眉唾な話に思える。しかし今度は気になる要素が多々あった。変装の名人。柔道の達人。西洋人然とした見てくれ。フランス語に堪能。なにより日本人がみな噂しているという。アルセーヌ・ルパンの息子かもしれないと。
不二子がラヴォワ一味に襲われた、あの事件と切り離しては考えられない。ルパンの心は波立ち騒いだ。またしても見ず知らずの何者かを、息子か否か気にかけ、神経をすり減らさねばならないのか。
ルパンはため息とともにきいた。「その男の名は?」
「アケチです」グロニャールが応じた。「下の名はコゴロウ。明智小五郎です」