アメリカ大陸に集結した移民と音楽。/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/1/12

みの

 いまや当たり前のように聴かれているロックやR&B、あるいはヒップホップといった音楽ジャンル。そのルーツのすべてに、「アフリカン・アメリカン」たちがかかわっています。20世紀ポップスの礎はアメリカ大陸ではぐくまれたといっても過言ではありませんが、そこには悲しい歴史的事実が横たわっていました。

 音楽についての話を進める前に、まずは17~18世紀に行われていた「三角貿易」ついて振り返ってみたいと思います。

悲しい歴史がポップス発祥のカギに

 「三角貿易」は、ヨーロッパ、アフリカ大陸、そしてアメリカ大陸を結んで行われた、大西洋上での経済体制のことです。

 イギリスのリヴァプールなどの港から出航した貿易船が、綿布や鉄、武器などをアフリカ大陸へ運び、アフリカ大陸では奴隷を乗せてアメリカ大陸へ渡ります。そしてアメリカ大陸からは、煙草や綿花、砂糖を積んでイギリスに戻る、という大陸間を循環する経済体制でした。

三角貿易

 17世紀のアメリカ大陸ではプランテーション(大規模農園経営)が盛んで、煙草や綿花、コーヒー、サトウキビなどの生産のために大量の労働者が必要とされていました。そこで、安価な労働力として奴隷が使われていたのです。奴隷となったのは、もともと奴隷だった人々、種族間の抗争による捕虜たち、そして奴隷商人から購入された人々、村から誘拐された人々などで、おおよそ1000万人を超えるといわれています。

 この、奴隷としてアメリカ大陸へ強制移住させられた人々が、アメリカで黒人と称されてきたアフリカン・アメリカンの祖先です。そして、彼らがロックのルーツの一つである、「ブルース」誕生のカギを握る存在となります。

黒人たちの労働歌が「ブルース」へ

 ミシシッピやテネシー、ルイジアナ、ジョージアといった地域に連れてこられた奴隷たちは、過酷な労働環境に置かれていました。常に農園主の監視下に置かれ、規律を守っていないと鞭で打たれることが当たり前のように行われていたのです。

 そのような日々で彼らが歌っていた「労働歌」は、過酷な生活を送る上で重要な役割を果たします。歌うことで、自分自身や一緒に働く仲間たちの士気をあげるだけでなく、弾圧されることへの怒りや欲求不満を和らげることができたのです。これら労働歌のジャンルの一つ「フィールド・ハラー」が、ブルースの起源となります。

黒人に自由な時間を与えた、奴隷解放宣言

 1776年に独立を宣言したアメリカでは、1862年にリンカーン大統領によって奴隷解放宣言が出され、1865年には奴隷制が全廃されます。プランテーションでの奴隷生活から解放されたとはいっても、黒人たちは農地の所有者にはなれず、土地を借り、設備や農具を揃えるために借金をし、生活は苦しいままでした。

 同じ頃、白人たちのあいだでは「ミンストレル・ショー」という大衆芸能が人気を博します。白人が黒焦げのコルクで顔を塗りたくって黒人に扮し、歌や踊り、話芸や寸劇などを見せるもので、黒人に対するあからさまな揶揄を売りものにしていました。このミンストレル・ショーは1840年代に成立し、1860年代に最盛期を迎えます。

 その白人俳優の一人が、「ジャンプ・ジム・クロウ」という歌にふざけた踊りをつけて、「ジム・クロウ」というキャラクターを作り出しました。日常的に黒人と間近に接したことがなかった白人たちは、愚かで無知なジム・クロウが典型的な黒人の姿だと思い込み、黒人のステレオタイプ化につながります。

 このキャラクターが、南部を中心に1870年代から行われた白人と非白人の人種隔離をする法律や条例、社会基準などを指す「ジム・クロウ法」の言葉の由来になります。学校、交通機関、劇場、レストランなどの公共施設において人種の分離が行われ、黒人たちの政治参加の権利がはく奪されました。

ジム・クロウ
ジム・クロウ(出典:Library of Congress)

 このように、奴隷解放が宣言されたとはいえ、社会的差別がすぐに無くなったわけではありません。しかしそれでも、奴隷制の廃止は黒人たちの生活に浸透していき、次第に自由な時間、余暇を生み出しました。堂々と恋愛をしたり、酒場で飲んだりといった精神的・金銭的な余裕が、生活を豊かにしていくのです。

 南部の田舎にある「ジューク・ジョイント」と呼ばれていた酒場では、黒人たちが酒を飲み、ギャンブルに興じるなかで、生演奏が行われていました。これまで、“労働のため”に歌われていたフィールド・ハラーは、ここでより個人的なこと––やり場のない怒り、孤独感や日々の憂鬱さ、「女と遊びたい」「酒が飲みたい」というような欲求––を表現するものへと変化します。これが「ブルース」と呼ばれるようになるのです。

20世紀、ブルース・スター誕生

 ブルースは、黒人奴隷の悲しい歴史から生まれた音楽といえますが、20世紀に入って彼らの“内なる想い”はより洗練されたものとして進化していきます。

 初期のブルースは、アコースティック・ギターによる弾き語りスタイルが基本でした。歌の上手さや演奏の巧みさで人気を得る者が現れ、ロバート・ジョンソンのようなスターが生まれます。ミシシッピ州に生まれ、ミシシッピ川の沿岸都市からシカゴまで演奏してまわったジョンソンは、優れたギター・テクニックの持ち主として知られたミュージシャンです。そのあまりの凄さに、「ギターのテクニックと引き換えに、十字路(クロスロード)で悪魔に魂を売り渡した」という伝説(クロスロード伝説)が残されています。

ロバート・ジョンソン
ロバート・ジョンソン(写真:Heritage Image/アフロ)

 また、1914年から1950年にかけて、多くのアフリカン・アメリカンたちが、より高い生活水準を求めて大移動する「グレート・マイグレーション」が起こります。たとえばミシシッピ州からシカゴというように、南部の田舎から北部の工業都市へと大移動するとともに、音楽も都市部へ持ち込まれました。そしてブルースは、新たなスタイルへと変化し始めます。

 その立役者となったのが、マディ・ウォーターズです。ミシシッピ州の出身のウォーターズは、1943年にシカゴに移り住み、ブルースにエレキギターを持ち込んでバンド・スタイルに発展させました。これがロックの源流の一つとなります。

マディ・ウォーターズ
マディ・ウォーターズ(写真:Everett Collection/アフロ)

黒人教会から「ゴスペル」が誕生

 三角貿易でアメリカに連れてこられた奴隷たちは、雇い主たちに強制的にキリスト教に改宗させられます。平日はプランテーションで働き、日曜はプランテーションの一角で白人説教師の説教に耳を傾ける––その繰り返しで、彼らは敬虔なクリスチャンになりました。お金も自由もない過酷な生活のなかで、天国へ導かれるという教えは、救いとなったのです。

 そして、賛美歌を受け入れるなかで、「黒人霊歌」が生み出されました。文字の読めない彼らは賛美歌集をもっていなかったので、白人たちから教わった祈りや歌を即興的に行うようになり、独自のものへと変えていきます。

 奴隷制が廃止されると、黒人たちは自分たちの教会をもちたいと考え始めます。教会は白人のクリスチャンたちが集まる場所だったからです。そうしてできた黒人たちの教会で「ゴスペル」は誕生しました。

 現在のようなゴスペルのかたちは1920年代後半、グレート・マイグレーションで多くの黒人たちが移住したシカゴで完成したとされています。酒場では、毎日の生活に漂う、やり場のない「ブルー(憂鬱な気分)」を歌うブルースが演奏されている一方で、教会では、イエス・キリストを称え、「希望」を歌うゴスペルが演奏されました。天使の音楽であるゴスペルに対して、ブルースは悪魔の音楽といわれるくらい、ゴスペルとブルースの扱いには差があったのです。

「天使の音楽」を下ネタにしたヤツ

 このゴスペルを俗っぽくしたのが、少し時代は先になりますが、1950年代から1960年代初めにかけて登場する「ソウル」です。ゴスペルの歌い方、ハモリ方は生かされつつ、歌詞の内容が世俗的なものに替えられました。

 レイ・チャールズが1959年に発表した「ホワッド・アイ・セイ(What’d ISay)」は、ソウル初期の代表作の一つです。神様を賛美する聖なる歌をなんと、セックスの歌に替えてしまったことで、白人たちから猛批判されるだけでなく、敬虔な黒人のクリスチャンたちからも総スカンを食らう始末。

 後年、チャールズは、エルヴィス・プレスリーやビートルズといった白人のミュージシャンたちにも大きな影響を与えました。

レイ・チャールズ
レイ・チャールズ(写真:GRANGER.COM/アフロ)

黒人音楽ヒットチャートと「R&B」へ

 1920年代以降、ブルースのミュージシャンたちの噂を聞きつけた白人たちは、彼らの演奏を録音してレコードとして発売し始めます。少し時代は先ですが、ポーランド移民であるレナード・チェス、フィル・チェスの兄弟が1950年に設立したチェス・レコードも、ブルースをはじめとする黒人音楽を手がけるレーベルです。マディ・ウォーターズやチャック・ベリーの主要なレコードを出しています。

 ですが、黒人たちの音楽はレイス・ミュージックと称され、白人たちの音楽と差別的に分けられていました。ですから、レコードとして売られるといっても、黒人たちの音楽は主に黒人社会のあいだで楽しまれるものでしかなかったのです。

 テレビが一般的に普及するまで、ヒット曲はラジオで放送されることで作られるものでした。1941年にアメリカで白黒テレビ放送が開始され、経済的余裕のある白人たちがテレビを買うようになり、わずかですがラジオの需要が下がってきます。そこで、ラジオの空いたチャンネル枠が初めて黒人に与えられ、黒人音楽の番組が作られるようになり、白人も黒人音楽を身近に聴ける機会が生まれます。そうすると当然、白人のなかにも黒人音楽を好む人たちが出てきて、レコードも売れるようになってきました。

 1949年に、レイス・ミュージックは、「R&B(リズム&ブルース)」と改名されて、黒人音楽のヒットチャートができます。すると、黒人たちのあいだでも、ヒット曲という概念が浸透し始めるのです。

 R&Bは現代でも人気ジャンルの一つですが、具体的にはどのような音楽を指すのかイメージしにくいかもしれません。ただ、こうした黒人音楽の流れを踏まえると、「黒人のポップス=R&B」ととらえてよいと思います。

(第3回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!