自転車の仕組みを説明できる? 自分の知識を過大評価してしまう人類が、高度な文明社会を営める不思議に迫る!!
公開日:2021/12/30
幼い頃に親や大人に、疑問に思ったアレコレを質問して困らせたことのある人は幸いなのかもしれない。知らないことを知ろうと努力した経験を持っているからだ。反対に幼い子供から質問されて、一つに答えると新たな疑問を投げかけられているうちに、ついには答えに窮してしまった人も幸いである。自分が簡潔に説明するに足る知識を持ち合わせていないことを、自覚できたのだから。ところが今や、子供でもネットを使えば簡単に調べることができて、大人も他人に説明する際にネットで検索したページを提示すれば事足りるようになった。つまり誰もがネットを使いこなせば、知らないことなど無い……はずだ。しかし、現実にはそうなっていないのは何故なのか。そんな私の疑問に丁寧に答えてくれたのが、2人の認知科学者が執筆した『知ってるつもり: 無知の科学』(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック:著、土方奈美:訳/早川書房)である。
個人は誰もが無知である
まずは本書の表紙に提示された、自転車のハンドルとサドル、そしてフレームと車輪が描かれた略図に、実物を見ないでチェーンとペダルを描き込むテストについてを紹介しよう。このテストは、リバプール大学の心理学者であるレベッカ・ローソンが学生に行なったもので、正しく書き込めた率は50%だったという。絵を描くのが難しいのかと、今度は正確な図と不正確な図とを並べて答えを選ぶようにしても、不思議なことに正答率はさほど上がらなかったそうだ。
それでも自転車の仕組みを学ばないまま直感で、あるいは人から扱い方を教わって、ペダルを漕いで走ることは可能だろう。それは本稿を読むのに、パソコンやスマホなどの道具の仕組みも、あるいはネットがどのような技術の組み合わせであるのかを理解しなくともできるのと同じ。人間の不思議な直感や感覚は不思議だ。本書に「自然界の複雑さに比べれば、人工物の複雑さなどかすんでしまう」と記されているように、科学者ですらいまだにこういった自然現象を完全には解明できていない。
人は他者を使って考える
そもそも1人の頭脳で、森羅万象を記憶することはとうてい不可能だ。「コンピュータのメモリサイズを測るのと同じ尺度で人間の記憶容量を評価してみる」ことを思い立った、認知科学のパイオニアであるトーマス・ランドアーは実験により、平均的な大人の知識ベースは「0.5ギガバイト」だという結論を得たという。もちろん他にも幾つかの方法を考案して実験してみたそうだが、人生70年と仮定して一定の速度で学習を続けた場合でも「1ギガバイト」と弾き出したそうで、いまわれわれが使っているスマートフォンの記憶容量にも遠く及ばない。
そう聞くと「なんと容量が少ないんだ…」と思うかもしれないが、それでも人類が発展することができたのは、他人の知識を活用し、自身の知識を他人に提供してきたからだ。分かりやすい例として示されていたのが医療。現代の医療は飛躍的に進歩しており、一般の家庭医があらゆる疾患の情報をすべて頭に入れておくのが無理な反面、データベースにアクセスすることによって必要な情報を必要なときに入手できるようになっている。
人の判断はコミュニティに依存する?
知らなくてもいろいろできて、容量が少なくて(?)も集合知で発展できるなんてすばらしい! ……だが良い面があれば、悪い面もあるのが世の常。本書によれば、人間は「自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できない」ということが起きるという。どういうことか。イェール大学で博士課程の研究生だったマット・フィシャーが他の研究者と行なった実験では、被験者を2つのグループに分け、同じ課題について片方にはネットでの検索をさせ、一方には外部の情報源を一切使わせないようにして、課題とは「関係のない質問」に答えさせたところ、前者のグループのほうが「検索していない質問も含めたあらゆる質問への答えを知っている」という感覚が高かったそうだ。つまり、「自分の知識」と「ネットに存在する知識」を混同しているということである。
本書の共著者の1人であるブラウン大学教授のスティーブンが行なったオンライン調査では、新型コロナウイルスへの対応について、「リベラル」を自認する人はマスクの着用やソーシャルディスタンスを厳格に守る傾向があり、「保守派」を自認する回答者は対策をしないハイリスクな傾向がみられたという。その意味するところは、どちらも個人レベルでは正確なウイルスの知識を持っていないのにもかかわらず、「所属するコミュニティにモノを考える作業をアウトソースしてしまう」ということなのだとか。
なるほどなぁ……と言いながら、本書を読んで、人間の認知機能の特性を知った気になった私もまた、本書の知識を自分の知識のように感じてしまう錯覚に陥っているのかもしれない。そんな考えを持たせてくれる出会いだった。
文=清水銀嶺