キミの仕事一生断らないから/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人④

文芸・カルチャー

公開日:2022/1/18

 周囲になじめない、気がつけば中心でなく端っこにいる……。そんな“陽のあたらない”場所にしか居られない人たちを又吉直樹が照らし出す。名著『東京百景』以来、8年ぶりとなるエッセイ連載がスタート!

 10年以上前に酷く落ち込んでいた夜があった。とはいえ慢性的に憂鬱を引きずり日常を過ごしていたので特に珍しいことではなかったのかもしれない。

 とても寒い夜。ライブ終わりにパンサーの向井慧と二人で居酒屋に行った。なにをしても上手くいかず鬱屈とした感情をどのように散らすかばかり考えていた。風呂もエアコンも無いアパートに一人で帰ってもどうしようもないので、なんとかそこから抜け出す手掛かりを探っていたのだと思う。

 向井は困りながらも、私を元気付けようといろいろな話を聞かせてくれた。そのなかでも矢沢永吉さんの逸話が特に印象に残った。

 矢沢さんはシャワーのある会場でしかライブをやらないそうなのだが、なにかの手違いでシャワーが設置されていない会場でライブが開催されることになってしまった。なんとかシャワーを用意しなければならない。

「シャワーを準備するように」という指令はどんどん上から下へと降りていき、最終的には本番まで時間が無いという状態で、一番若いスタッフに託された。若いスタッフは途方に暮れながらも子供用のプールにお湯をためるという方法を採った。客観的に聞いても愚策だ。そこに矢沢さんが入るとは思えない。先輩達は自分で解決策を用意することなく投げっ放しにしたくせに、若いスタッフのことを酷く責めたそうだ。若いスタッフ自身も怒られてクビになることを覚悟したらしい。

 そして本番を終えた矢沢さんが楽屋に戻ってきた。矢沢さんは、その湯がためられた子供用のプールを眺めながら、「これ用意したの誰?」と言ったそうだ。若いスタッフが緊張しながら、「自分です」と答えると、矢沢さんは「俺、キミの仕事一生断らないから」と言ったらしい。矢沢さんは、自分が必要とするシャワーとはかけ離れたものを見て、不満を述べるのではなく、難しい環境で出来る限りのことをやろうとしてくれたのだなと瞬時に理解したうえで、「キミの仕事一生断らないから」という最大級の賛辞をもって、若いスタッフを讃えたのである。

 この話が事実に基づくものかどうかは分からない。もしかしたら矢沢さんとは一切関係が無い話かもしれないし、尾ひれがついて話が大きくなっているかもしれない。そもそも全てが作り話だという可能性だってあるだろう。だが実に矢沢永吉らしく、矢沢さんという人物ならあり得る話として私に響いた。それが別に嘘でもよかった。それを信じさせるだけの活動を続けてきた表現者としての矢沢永吉さんを凄いと思ったのだ。

 とてもいい話だったけれど、その凄さに私は打ちのめされてしまい、それに比べて一向に成りあがれない自分がさらに惨めに思えた。「かっこいいな」と何度も繰り返す私を見て、さらに深く自分の世界に入ってしまったことを向井も敏感に感じとったようだった。それでも向井は明るすぎず、暗すぎない絶妙な語り口で言葉を続けていた。

 他のテーブルから笑い声が聞こえるだけで自分が笑われているような気持ちになった。私が店員さんを呼ぶ声は店内の騒めきによって掻き消されたが、向井が「すみません」と店員さんに呼び掛けるとすぐに反応があった。自分だけが疎外されているという感覚に襲われる。お店で働く笑顔が素敵な店員さんを見ているだけで切なくなった。

「あの店員さん一生懸命でかわいいな。それに比べて俺は……」

「いや、又吉さんだって……」

 その後の向井の言葉が続かなかった。こんなに喋りが上手い向井でさえもという思考に陥ってしまう。

「そろそろ帰ろうか?」

「……はい。あっ、又吉さん先にでて少し待っていてください」

「うん……」

 向井に促されるまま、会計を済ませて外にでた。お酒を飲んで体は温まっていたけれど、それでも外は寒かった。しばらくして向井が笑顔ででてきた。

「又吉さん、あの店員さんの連絡先聞いてきました!」

 私の知る限り、向井は警戒心が強く無闇に知らない人に話し掛けたりする人間ではない。後にも先にもそんな行動を向井が取ったのはその夜だけだ。それほど、私が追い込まれているように見えたのかもしれない。そんな向井の言葉を聞いて私は次のように言った。

「向井くん、俺、キミの仕事一生断らないから」

 すると向井は、「全然、かっこよくないですよ!」と笑顔で応じた。

「永ちゃんと全然違いますから!」

「いつか、この夜の話も永ちゃんの伝説みたいに語られるんかな?」

「いや、ダサい話としてひろまりますよ」

「なんで?」

「落ち込んでたくせに、女の子の連絡先聞いて元気出ちゃってるから!」

「それは人それぞれの感じ方ちゃうか?」

「かっこよく取りようがないから」

 などとアホな会話をしながら吉祥寺まで一緒に帰った。

 昨年末に向井がレギュラー出演しているラジオにゲストで呼んでもらった。そういえば自分はあの約束を守り続けているのかもしれないと思った。

(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)

<次回は2月の満月の日、17日の公開予定です>

又吉直樹(またよしなおき)/1980年生まれ。高校卒業後に上京し、吉本興業の養成所・NSCに入学。2003年に綾部祐二とピースを結成。15年に初小説作品『火花』で第153回芥川賞を受賞。17年に『劇場』、19年に『人間』を発表する。そのほか、エッセイ集『東京百景』、自由律俳句集『蕎麦湯が来ない』(せきしろとの共著)などがある。20年6月にYouTubeチャンネル『渦』を開設