テクノロジーに溺れかけている現代社会へ投げられた、“救命浮き輪”のような一冊
更新日:2022/1/19
彼らは、それより他の選択はないと決めかかっている。しかし注意深く賢明な人は、朝日がまっさらな1日を照らしたことを忘れない。思い込みを捨て去るのに遅すぎるということはないのだ。(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『ウォールデン 森の生活』)
ソーシャルメディアへの疲労感を表わす事象として、日本でも2000年代初頭に “ミクシィ疲れ”という言葉が表出したものの、ミクシィは当時はまだ限られたユーザーによってパソコン上でやり取りされるものであった。しかし現在、スマートフォンの爆発的な普及によって、個人が時間と場所を問わずインターネットを介して他者と常時繋がり続けている状態だ。
『デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方』(カル・ニューポート:著、池田真紀子:訳/早川書房)は、そんな現代のテクノロジー、とくにスマートフォンによるソーシャルメディアやインターネットコンテンツの実害と、巧妙に仕組まれた“テクノロジーの罠”を明らかにし、デジタルへの依存から抜け出した人々の事例をあげ、テクノロジーから自身を解放する指南書となっている。
“テクノロジーの罠”とは、SNSを操り、消費者の注意(アテンション)を集め、それを使いやすい形にパッケージングして広告業者に販売することで金銭的利益を得ているテック企業たちの作り上げた“行動依存”と呼ばれるもの。
承認欲求を餌に、「いいね」ボタンなど巧妙にデザインされた機能によって他者からの不確実なフィードバック(ランダムな報酬)を発生させることでギャンブル性を引き起こし、テクノロジーへの依存に拍車をかけているという。
テック企業はユーザーをスマホのスクリーンの先にあるSNSに1秒でも長く滞在させ、何度も見たくなるよう仕掛けている。自分の投稿に「いいね」がついたかが気になり何度もスマホの画面を眺めてしまう経験に心当たりがある人は多いだろう。
このようにスマホでの行動の決定権を握っているのは実は自分自身ではなく、シリコンバレーのテック企業とそのビジネスモデルなのだ。
そこで、自分の真の望みや価値観にしたがって日々の行動を選択しようという哲学が「デジタル・ミニマリズム」だ。
本書は決して、テクノロジーのすべてを否定し捨て去ることを説いた極端で単純な本ではない。
孤独であることの必要性を説き、本当に必要なものだけを慎重に選択し直してデジタルライフを作り直すことをすすめている。
ひとつの例としてアーミッシュの生活様式を参考としているのが興味深い。アーミッシュとは18世紀にアメリカに移住したときのままの生活様式を頑なに守り続ける共同体で、電気や自動車といった現代社会の道具から厳格に距離を置く人々だ。彼らをテクノロジーから距離を置くことの参考にするには極端ではないかと思う人もいるだろう。しかし彼らはソーラーパネルやディーゼル発電機で発電した電気を使用し、自動車の所有は禁じられているが、アーミッシュ以外の人が運転する自動車に同乗することは許されている。さらにアーミッシュの企業家は自社のウェブサイトだってもっているのだ。彼らは自分たちの利になるテクノロジーは可能な限り取り入れ、たとえ利になっても害の方が大きいものであれば厳格に禁じる。この合理的でありながら慎重なテクノロジーの取捨選択はデジタル・ミニマリズムの哲学と同じなのだ。
また、なにか大きな出来事が発生した直後にインターネットに溢れ返る“不完全なくせに過剰”な情報を摂取したところで無駄になるだけだと本書は説き、ニュースメディアの選択にも注意を払っている。信頼できるメディア、ジャーナリストを慎重に見極め、Twitterに流れてくる速報だけでなく、スローメディアと呼ぶ調査報道をする媒体など、少数に絞った信頼できる書き手に情報の取得を集中するようにもアドバイスしている。
そして本書の後半は、それまでデジタルに囚われていた“時間“というコストを、自身の手に取り戻した後の“余暇の過ごし方”にページを割いている。インターネットによって人類史上かつてないほどの数の選択肢が人々に提示されるようになり、余暇の過ごし方には一種のルネッサンスが起きているという。とくに趣味の領域ではコミュニティを見つけやすくなり、必要な情報にも容易にアクセスできるようになったという。
150年前、湖畔の森の中でひとり佇み、「シンプルに、シンプルに、シンプルに!」と叫んだソローの言葉を引用した『デジタル・ミニマリスト』は、身の回りに溢れたテクノロジーに知らず知らずに溺れかけて疲労した現代社会へ投げられた、救命浮き輪のような一冊だ。
文=すずきたけし