好きなことで生きればいい、と誰も彼もが言う。でも好きなものがない人間は、どうすればいい。/真夜中乙女戦争③
公開日:2022/1/23
1月21日より公開中の映画『真夜中乙女戦争』。原作は、10代・20代から絶大な支持を集める新鋭作家Fによる初の小説『真夜中乙女戦争』(KADOKAWA)だ。名言だらけ、とSNSで拡散され続ける本作より、本連載では、「第一章 星にも屑にもなれないと知った夜に」と「第二章 携帯を握り締めても思い出はできない」を全5回で紹介。映画とあわせて「最悪のハッピーエンド」を確認しては?
「いいえ、ご相談ではないです。断じて。僕は誰かに何かを相談したことは一度もないです」
「あら、そう」
「気色悪いですかね僕」
「気色悪くてもいいから、続けなさい」
「お言葉に甘えます。最後、ものすごく失礼な質問をしてしまうのをお許しください。これが僕が本当に教授にお訊きしたかったことで、お答えいただきたいことです。正直に申し上げるとこの講義、何の役に立つか分かりません。シェイクスピアが何の役に立つか分かりません。古英語が何の役に立つかも分かりません。他の講義もそうです。フランス語もそうです。ボンソワはきっと僕の人生には死ぬまで役に立ちません。でもフランス語が消えればいいとは思わないしフランス語の教授がフランス語の研究者であることは最高だと思います。だからこそ知りたいんです。今なにをやるべきで、なにができるのか、それが分からない以上、なにを学ぶべきかも分からない中で、これは、僕に何の役に立つんでしょうか。どんな価値があるんでしょうか」
私はこの教授が顔を朱色に染めて、私を凡庸に怒鳴り散らすのを期待していた。この時に私が持ち合わせていた最後の期待が、当然の怒りとして返ってくることに一種賭けてさえいた。
「ところで君って数学は得意?」
「全然です」
「だって私大の文系だもんね。不得意なのは、どうしてだと思う」
「それは僕が生来論理的に世界を認識できないか、それか単に、頭が悪いからです」
「もちろん君は、誇大な自意識で爆発しそうになっている私大の文系の一人に過ぎないから、それもあるかもしれないけど、もっと言えば、数学ができない人間が大量に溢れても、世界がちゃんと成立するように、数字数式数学が世の中をとっくの昔に支配したからだよ。つまり、数学が不得意なあなたは、数学が不得意であることを許されているだけに過ぎない。あなたに親がいるのも友達がいるのも、あなたが彼らに許されているに過ぎないのと同じよ」
教授の健闘は、賛辞に値する。が、私は何も言わなかった。
「この講義に何の意味がありますか、という質問は、あなたは生きててこの世に何の役に立つのか、と私があなたに質問するのと同じなの。つまり暴力。無知の暴力。その自覚はあるのかって訊いているの」
もちろん私には自覚しかない。
殺す、と、死ね、なら、まだ、殺す、の方が、愛があるのは知ってる。
「承知してます。でも、少し違います。本当に知りたいんです。これが何の役に立つのか」
「君はまだ時間があるのかな」
「僕には時間しかありません」
「これは私の一回目の講義よ」
教授は先ほどから腕時計ばかり見ている。
「元旦にナイフ持って追っかけ回してくる通り魔みたいなことはするなってことでしょうか」
教授は、やっと笑った。しかしそれは私を許した笑いではないことは明白だった。
「あなたと議論していたら私の貴重な昼休みがなくなってしまうから、これで最後にしよう。あのね、全部終わってからじゃないと何も分からない。この講義も、君の人生も。どちらかが死んでから夫婦だったって気づく男女もいる。青春って、青春の中にいる間は、それが青春だと気づけない。学生の時なんて、大抵毎日冴えないし、明るくないし、無意味だよね。でも振り返れば、高校の時は楽しかったはずでしょ。振り返れば、点と点が線になって面になって何面体にもなる。無人島に漂流して初めて役に立つような知識だってある。人生の意味とか目的も、死ぬ時にならないと分からないと思うの。それを分かった上で、あなたの貴重な貴重な人生の一コマの中の一コマの中の一コマである、私の講義が面白くない、役に立たないと思うなら、君はもう、来週からここに来なくていいよ。単位はあげられないけど。ただそれだけのことなんじゃないの」
仰る通りだ。こんな軽い単位で得られた軽々しい学位が履歴書にへばりつくなんて私から願い下げだった。愈々教授が言うことすべてに、私は言い掛かりを加えずにはいられなかった。
「でもね、それだと困るんです。待てない、許せないんです。僕は、奨学金という意味不明な借金をして先生の講義を受けに来ました。必修科目だからです。親は貧乏で仕送りできないし僕もそれは申し訳ないから、これから睡眠時間を削って自分で稼ぐつもりです。でも、それは教授には関係ない。だからこそ先生の講義も、必修であろうがなかろうが本気で受けようと思いました。そのついでにこの講義に一回幾ら払ってるかも計算しました。三千円でした。それは今の母のパート三時間分で、旧作映画のレンタルなら三十本分、古本なら三十冊、新品の専門書一冊が買える値段です。この九十分がそれより価値があるかないかずっと考えてました。僕はね、それ以上の話をあなたにしてもらわないと母にも父にも東京に来る前の僕にも申し訳が立たないんです。今後それ以上の話をなさる予定ですか。なさると約束してもらえますか。もしくはなさらない予定ですか。どっちですか」
「君はさ」
「ゆとり世代です、ゆとり世代ですが、小学低学年の頃から何千何万時間と勉強して、友達とも遊ばず、一日六時間睡眠でここまで来て、先ほどの弛みきった惰性の講義の退屈さ加減は、講義を聴講する学生、つまり僕の側の問題でしょうか。僕の知識のレベルが低いからでしょうか。総じて面白がれない僕のせいなのでしょうか。大学の講義も学位も高く付いて当たり前だなんて問題ではないはずです。先生ご自身が人生を懸けて追い掛けたいと思ったものを、どうしてその熱量でお話ししてくださらないんですか。それは諦めたからなんですか。僕は先生の熱を見に来たんです。これは、お金を払う側と払われる側の信義誠実の話でもあるんです」
「面白くなくてごめんね、必修なのに」
「いや、謝らないでください」
「必修なのに退屈でごめんなさい」
「じゃあ最初から、謝らんといてください」
「ううん、いや、謝っちゃってごめんなさい、こちらこそ」
「こちらこそなんか、もう、ごめんなさい。もういいです、先生はお昼に行ってください」
「君に、君に言いたいことは山ほどある。でも、今は言わないでおく。ここまで言われたことは覚えておいてあげる。悔しくないって言えば、嘘になるから。ただ、私が最初に話したことはあなたも覚えておいて。そして、しつこいようだけど、私の講義に来たくないなら、もう二度と来なくていいから」
「先生が僕を攻撃することも、僕が先生を攻撃することも、とても楽なことは知ってます」
「私も知ってる」
「でもね、僕らが分かり合えないことが分かり合えても、もう何の解決にもならないんです」
「あなたは、あなたが正しいと思うことをしたらいい。好きなことをしなさい」
好きなことで生きればいい、と誰も彼もが言う。
でも好きなものがない人間は、どうすればいい。
教授はそうしてさっさと荷物をまとめ、何も言わずに講義室を去って行ってしまった。
映画『真夜中乙女戦争』
1月21日(金)全国ロードショー
原作:F『真夜中乙女戦争』(角川文庫) 脚本・監督・編集:二宮健 出演:永瀬廉、池田エライザ、柄本佑ほか 配給:KADOKAWA
東京で一人暮らしを始めた大学生の“私”(永瀬廉)は、やりたいことも将来の目標も見つからない中で、いつも東京タワーを眺めていた。そんなある日、「かくれんぼ同好会」で出会った不思議な魅力を放つ凛々しく聡明な“先輩”(池田エライザ)と、謎の男“黒服”(柄本佑)の存在によって、“私”の日常は一変。そして“私”は、壮大な“東京破壊計画=真夜中乙女戦争”に巻き込まれていく。
(C)2022『真夜中乙女戦争』製作委員会