幽霊のいる窓(前編)/小林私「私事ですが、」

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更新日:2022/1/24

美大在学中から音楽活動をスタートし、2020年にはEPリリース&ワンマンライブを開催するなど、活動の場を一気に広げたシンガーソングライター・小林私さん。音源やYouTubeで配信している弾き語りもぜひ聴いてほしいけど、「小林私の言葉」にぜひ触れてほしい……! というわけで、本のこと、アートのこと、そして彼自身の日常まで、小林私が「私事」をつづります。今回の『幽霊のいる窓』は前後編でお届けします。

小林私
イラスト:小林私

  一

 

 その日の朝はいつにも増してどんよりとした曇り空で、夜中に溜め込んだ空気を入れ替えようという気も失せるくらいに窓が風を叩いていて、体温の乗り移った毛布から出ようものなら何かバチが当たるのではと思ってしまうほど、ベッドからはみ出た指先は悴んでいた。

 もう5分、いやもう10分とまぶたを閉じようとすると、見計ったかのようにアラームがけたたましく鳴った。昨晩設定した自分を恨みながらのろのろとベッドから体を起こすと、ぶるり。いくら貧乏性の私でも暖房を効かせて眠れば良かったと悔いるような冷気が、お待ちかねとばかりに体を包んだ。

 アラームを解除して、もう一度暖かく柔らかい場所へ戻ろうと叫ぶ体をなんとか宥めすかして、ゆっくり立ち上がる。本来なら今日の講義は二限からで、あと1時間ほどは眠れるのだが、それで幾度となく寝過ごし落としてしまった単位を思い出す。気合いを入れようと窓を開けるとまた、ぶるり。しかし澱んでいた部屋の空気は新鮮な風と共に入れ替わり、心なしかシャッキリと目も覚めてくる。

 入学当初は充実したキャンパスライフを送ろうと早朝から講義に臨んでいたというのに、たった1年でみるみる怠惰な大学生に成り果ててしまった。冷え切った水道水で顔を洗いながら、いや今日からまた変わるのだぞと勇むが、これもまた近い内に消えてしまう熱意なのだと気付いていた。それでもその勢い殺さぬように少し早めに家を出た。部屋で時間を待てどすることはないし、久しぶりに構内の食堂で朝食を取ろうと思い付いた。何より、また毛布に包まらない自信がなかったのだ。

 自宅からドア・トゥ・ドアで40分ほどかけて、そういえば朝の電車とはこんなに混むものだったかと思い出しながら大学に着いた。早朝の大学はがらんとしていて、朝靄に滲んだキャンパスは早起きが出来た私を祝福してくれているように感じるほどで、思いの外気分も上がっていた。
 思えばこの高揚した朝から、すべては始まったのだ。

 

  二

 

 寂しくも感じた構内とは裏腹に、食堂の職員らは朝から忙しなく動いていた。記憶にある教授や生徒の顔もちらほら見える。我々はこんな時間からも活動し勉学に励んでいるのだという、私がここ半年ほど忘れていた小さな自負心を感じるのは流石に気のせいだろう。それでも此処に帰って来られたという感覚は疑いようもなく、券売機の列に並びながら、少しばかりの笑みを止められなかった。

 「朝っぱらからご機嫌だな。」

 急に肩の後ろの方から声をかけられ、思わずヒッーというかイッというか、とにかく声にならない声だった――と声を上げてしまった。女学生が突然声を出すものだから、食堂の視線は一気にこちらへ向いた。声をかけた相手が友人だと分かると共に安堵し、周囲に何事もないと取り繕うように小さく頭を下げた。

 「…急に、話しかけないでくれる?」

 驚きと恥ずかしさで早くなった鼓動を収めながら、その原因はお前だぞと言うように睨んだ。

 「悪かったよ…いやなに、朝に見るには久しい顔だなと思ってな。」

 バツが悪そうに頭を掻きながら彼――同級生の長野(ながの)――は言った。入学当初、今日みたく食堂で朝食を取ろうと勇んで来た時に、同じ考えを持っていたグループがあった。彼もよく卓を囲んでいた内の一人だ。しかし、彼が一人で居るところを見るに他の数人も、私と同じように堕落を極めてしまったようだ。いやむしろ長野が真面目なのか、いずれにしろ私達が出来なかったことをやってのけた優良生徒であることは間違いなく、その心意気に敬礼。

 「…何か馬鹿にされてる気分だ。」

 変に勘がいい。券売機の前に立ち、少し悩んで私は260円のうどんを。長野は……カレーか、朝から元気のいいことで。

 「気のせいだよ。ところで、長野も二限から?」
 「俺は一限から。ウズラは文化人類学だったか?にしては早すぎると思うが」

 ウズラ、というのは私のあだ名だ。初めて一緒に朝食をとった時に私が食べていた中華丼にうずらの卵が入っていたから……だけでなく、私の苗字が蕪木(かぶらぎ)で、カブラがウズラを食べてるぞとからかわれるように名付けられてしまった。全く気に入っていないが山芋や鰻と呼ばれるよりはマシだろう。余談だが、その時長野が食べていたのは山菜そばで、都々逸に絡めて意趣返しでもしてやろうと思ったのだが、初対面の異性に『あなたのそばがいい』だなんてのも小っ恥ずかしくてやめた。私は案外乙女なのだ。

 「ちょいと門田を売ろうかな、と」
 「構内は飲酒禁止だが…まあ、何にせよ早起きはいい事だ。」

 くだらない会話をしながらご飯を受け取り、適当な席に向かいあわせで座る。長野が羽織っていたジャケットを、表側を内側に丁寧に二つ折りにして椅子の背にかけるのを見て、私も上着くらい脱げばよかったかなと思った。
 目の前のプラスチックの碗にはコシのないうどんと薄味の出汁、そして辛うじて具とも呼べなくもないささやかな菜っ葉が立ち昇る湯気にあてられている。困窮しているわけではないが、これを食べると大学の食堂、という感じがして嫌いじゃない。
 一啜りすると、うん。期待を超えず、かと言って決して不味いわけでもない。食べ進めるとじんわりとお腹の方から温まっていくのを感じて、寒かったから私はコートを脱がなかったんだなと気が付いた。何となく、ふと長野の方を見やるともうカレーをほとんど食べ終わっている。はて、彼はこんなに食べるのが早かったっけと思った束の間、長野が沈黙を破った。

 「…時にウズラ、あの話は聞いたか?」
 「…あの話?」
 「知らないか。…北棟6階の窓に幽霊を見た、っていう話なんだが」
 「ううん、初耳。有名なの?」
 「いやあ有名ってほどじゃないが…俺の周りで、ちょっとな」

 珍しい。長野は常日頃から潔癖と言えるくらい真面目で勤勉な男で、それと比例するようにリアリストでもある。以前食堂で都市伝説の話題になった時もさして興味を示していなかったし、職員用トイレにお化けが、なんて噂が出た時もくだらないと一笑に付していた。しかし今の話をした長野はいつに無く苦い顔をしている。

 「長野、この手の話は信じないんじゃなかったっけ」
 「いや、まあ、そうなんだが…今回はちょっと特別というか、なんというか」

 言い澱みながら、意を決したように長野は言った。

 「俺も見たんだ、その幽霊。」

 認めたくはなかったと顔に書いてある。なるほど、見たんなら仕方ない。ただ気になることがある。

 「幽霊って、どうして断定出来るの? 単に人が通ったのかもしれないじゃない」
 「そんなこと分かってる、俺が見たのは」

 続けようとした長野の勢いを殺すようにチャイムが鳴る。一限開始5分前を報せるものだ。

 「…ウズラ、お前今日二限の後は暇か?」
 「まあ、昼休みもあるしそのあとも特に予定はないけど……」
 「よし、二限が終わったらまたここで。」

 ちょっと話し足りないなら少しくらい遅刻していけばいいのに、と思ってしまうから私は彼のようにはなれないのだろう。長野は決して遅れないという意思と未練がましさが混じった様子で、それでも残ったカレーライスをさっさとかき込んでコートを広げ、羽織った。

 「忘れずにちゃんと来いよ!」

 遅刻と欠席が増えている私に釘を刺すように言い、食器を返却しに行った。そのまま講義に向かうだろう。気付けば湯気も立たなくなったうどんを啜りながら、長野が話そうとした続きを考えていた。