ロックンロールは不良の音楽か?/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/2/16

みの

 1950年代半ば、エルヴィス・プレスリーの登場で、若者たちはロックンロールに夢中になります。過激に、ワイルドに、セクシーに繰り広げられたプレスリーのパフォーマンスは、保守的な大人たちの度肝を抜き、反感を呼びます。そんな大人たちの反応をものともせず、若者たちは“新しい音楽”に熱狂するのです。

白人、黒人文化を融合したエルヴィス・プレスリー

 19世紀、白人たちのあいだではミンストレル・ショーという、黒人の真似をして嘲笑する大衆芸能が人気を博しました。

 そこから100年以上の時を経た1950年代、レイス・ミュージックと区別されていた黒人音楽が、ラジオで流れるようになったことで人気が高まり、R&Bと称されるようになります。すると白人のあいだでは、「R&Bはかっこいい」という風潮が起こります。

 ただ、一般的にはまだ差別志向が強い家庭も多く、白人のティーンエイジャーが黒人の音楽を聴くと親に怒られることのほうが多かったようです。

 そこで、白人が真似したR&Bを聴く、という少し遠回りをした楽しみ方をするようになります。とはいえ、白人たちが演奏する曲は、R&Bを漂白したような、黒人から見ると非常にあいまいなものでした。

 そんななかで、白人でありながら黒人のワイルドな部分をストレートに表現したのが、エルヴィス・プレスリーです。いかに黒人のR&Bに近づけるかと、本気の姿勢で挑んだ初めての白人ミュージシャンといえます。

 プレスリーはアメリカ南部のメンフィスで育ったため、黒人たちのコミュニティが身近にあり、音楽もファッションも黒人文化にどっぷりと浸かって過ごしました。

 現代においても、若者たちを中心にヒップホップをはじめとするアフリカン・アメリカンのスタイルに影響を受けている人はたくさんいますが、プレスリーは、その“大先輩”といっていいでしょう。「黒人のやっていることは、かっこいいんだ」と大々的に表現した、初めての白人といえます。

 プレスリーの模倣っぷりは、徹底的でした。彼のトレードマークともいえるリーゼントも、ハードな黒人用ポマードをグワッと大胆につけて整えています。プレスリーが示したそのスタイルや思想の新しさが、白人のティーンエイジャーたちのハートを鷲掴みにしたのです。

 アメリカでは1941年の商業テレビ放送開始以降、テレビの普及率は急速に進みます。プレスリーがRCAビクターからメジャーデビューした前年、1955年の国内での一般家庭のテレビ保有率は約65%と高いものでした。プレスリーの新しいスタイルが、この浸透し始めていたテレビで流れたことも大きなインパクトを残しています。

 プレスリーのメジャー2枚目のシングルで、代表曲の一つに「ハウンド・ドッグ(Hound Dog)」があります。テレビ番組『ミルトン・バール・ショー』で二度目に出演したとき、彼はこの曲の最後を本来の半分の速度で歌いました。

 半分にするとブルースのリズムになるのですが、当時それを地上波で放送するというのはあり得ないこと。若者は熱狂的な拍手を送り、大人たちからはどよめきが起き、大騒ぎになります。

 一方で、彼のパフォーマンスは、音楽的な部分だけでなく、R&Bのセクシャルな部分もメインストリームの場所で表現します。曲に合わせて腕を振り、腰を回したり、前に突き出したりする行為は、あまりに淫らで下品だと、大人たちの反感を買いました。

エルヴィス・プレスリー
『ミルトン・バール・ショー』に出演するエルヴィス・プレスリー
(写真:Everett Collection/アフロ)

 テレビ黎明期に登場し、1950年代から1960年代にかけてアメリカを代表するバラエティ番組として一世を風靡したのが、『エド・サリヴァン・ショー』です。当初、番組のホスト役だったエド・サリヴァンは、日曜夜の家庭で観られるテレビ番組にふさわしくないと、プレスリーに出演を依頼することはありませんでした。

 一方で、サリヴァンのライバル番組『スティーヴ・アレン・ショー』は出演を依頼。プレスリーが登場すると、アレンの番組がサリヴァンの番組を初めて視聴率で上回ることになります。

 すると、エルヴィス人気の高まりを見過ごすことはできず、サリヴァンは前言を撤回して、前例のないギャラでプレスリーに出演を依頼します。短い期間に3回も登場し、1回目の1956年9月の放送では、82.6%の視聴率という、現代では考えられない数字を叩き出しました。ただし、バールとアレンの番組でのプレスリーのパフォーマンスを事前に観ていたサリヴァンは、自身の番組プロデューサーに、上半身しか映さないように命じたといわれています。

 エルヴィス・プレスリーは「ロックンロール」のスターとして若者たちに熱狂的に迎えられます。

 「ロック」も「ロール」も、元はセックスやダンスを意味する黒人英語のスラングで、1930年代以降のレイス・ミュージック、R&Bの曲名や歌詞では頻繁に使われていました。

 1950年代初め、白人のリスナーに向けて、白人たちが好みそうな黒人たちのR&BをヘヴィーローテーションでかけまくるめずらしいDJがいました。このDJ、アラン・フリードが自分のラジオ番組のタイトルに「ロックンロール」という言葉を用いて、番組内でも黒人たちのR&Bを指してロックンロールという言葉を盛んに使います。そして、プレスリーの登場によって、白人たちが演奏するR&Bも「ロックンロール」と称されるようになり、ジャンル名として定着します。

 プレスリー登場以降、ポップスの歴史は、白人文化と黒人文化のぶつかり合いと融合を繰り返していくことになります。

 1950年代半ばから後半にかけては、ロック史における最初の黄金期といえます。エルヴィス・プレスリーという超弩級のスターが登場したことで、ロックンロールは熱狂的なブームとなり、後に続けとさまざまなスターが登場します。

 かつて、白人たちは揶揄する目的で黒人の真似をし、嘲笑していましたが、ついに、リスペクトとして黒人の真似をする時代が来たのです。

いつの時代も「ステマ」は炎上する

 当時、レコード会社はラジオで自社のレコードを紹介してもらうために、DJに賄賂を贈るのが慣例でした。これを「ペイオラ」といい、これを違法とする法律もなかったため、DJたちはお金を渡されたり、食事に接待されたり、コールガールを派遣してもらったりしていました。

 しかし、1958年にアメリカ作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)が、ペイオラを激しく非難するようになります。そして議会へと働きかけ、ペイオラは商業上違法であるとする法律が制定されることになりました。ロックンロール人気を担ったDJのアラン・フリードも、レコード会社から賄賂を受け取っていたことが発覚し、スキャンダルに発展してラジオ局から解雇されてしまいます。現代でいう、インフルエンサーがステルスマーケティングで炎上する状況にも似ています。

 フリードは、自身のラジオ番組でロックンロールをかけるだけでなく、全米の各地で積極的にロックンロールのコンサートを開催していたため、保守的な人たちからの攻撃対象となっていました。ぺイオラ・スキャンダルは、ロックンロールが大人に強い反感をもたれていたために起こった事件といえます。

流行の中心は、大学生から高校生へ

 ロックンロールの熱狂的な渦の背景には、世代間の軋轢があります。

 1920年代のアメリカの若者文化は大学生が中心でしたが、第二次世界大戦後は高校生がその担い手となります。戦後の好景気で国が繁栄し、社会が安定していくなかで、ティーンエイジャーたちは親から小遣いをもらい、さらに放課後にはアルバイトをして、経済的な余裕をもつようになります。彼らが消費者として市場に参加し始めたことで、ファッションや映画、そして音楽もティーンエイジャー向けに作られるようになりました。

 また、戦後の経済成長でさらに人々が農村から都市へと移り住むようになり、都心が“人種のるつぼ”となると、白人の中産階級家庭の多くが郊外の新興住宅地に移り住むようになります。この現象を「ホワイトフライト」といいます。彼らはさらに、家電製品や自動車、ブランド商品、別荘を買い求めました。

 経済的、物質的には恵まれるようになりますが、郊外の生活は退屈で、最初に反抗の声を上げたのはティーンエイジャーたちでした。彼らは社会の矛盾に気づき、“子ども”として限定的に扱われることにいら立ちを表すようになります。

 大人とは違う価値観や行動をする世代に注目が集まり、社会は、ティーンエイジャーをはじめとする若者たちが脅威になると気づき始めます。ここで「思春期の反抗=社会に反抗する若者」というイメージが生まれることになるのです。

 さらに、1955年公開のジェームズ・ディーン主演の映画『理由なき反抗』や「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around the Clock)」を主題歌に用いた映画『暴力教室』が、反抗する「思春期の若者の音楽=ロックンロール」という図式を定着させます。

 『理由なき反抗』は、行き場のない怒りを抱える若者たちが取り返しのつかない事件を引き起こしていく姿を描き、思春期、反抗期の若者たちのステレオタイプを強調しました。

 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの曲です。1954年に発売された当初は注目されませんでしたが、戦後世代の非行少年たちを描いた映画『暴力教室』の主題歌として使われたことで、大ヒットとなりました。ロックを「若者の音楽」とする基本的な価値観が、ここで作られたのです。

 戦後のアメリカでは、ティーンエイジャーたちの「非行」とともに、奔放な「性」も社会問題になっており、大人たちはどのように若者たちの「性」を管理するかに頭を悩ませていました。そこでセクシャルなイメージを伴っていたR&Bとそこから発展したロックンロールがやり玉に挙がったのです。

 また、エルヴィス・プレスリーが登場した当時のアメリカは公民権運動の最中で、差別的な一部の白人たちはブラックパワーに抵抗を感じていました。そのようななかで登場したプレスリーの歌やパフォーマンスは“黒人”を強く意識させるだけでなく、セクシャルな表現も相まって、大人たちの度肝を抜きます。さらに、これに若者たちが大きな賛同を示したことで、社会全体が動揺したのです。

 ロックンロールは大人たちや社会を混乱させますが、大人たちがロックンロールに嫌悪を示せば示すほど、若者たちはロックンロールを支持することになりました。

ロックンロールは下火に

 熱狂的な盛り上がりを見せたロックンロールでしたが、担い手のスターたちが相次いでいなくなって下火となります。

 1957年にリトル・リチャードは突如引退して牧師となり、1958年にエルヴィス・プレスリーがアメリカ陸軍に徴兵されます。ジェリー・リー・ルイスは1958年に結婚問題がスキャンダルとなり、チャック・ベリーは1959年に未成年女性への売春容疑で逮捕される事態となりました。そしてバディ・ホリーは、1959年に22歳の若さで飛行機事故により亡くなってしまいます。

 ジェリー・リー・ルイスの結婚スキャンダルは、今であれば完全にアウトなのですが、22歳だったルイスが三度目に結婚した相手はなんと13歳。当時のアメリカ南部ではぎりぎりセーフでも、その奥さんを連れてツアーに行った先のイギリスではドン引きされ、人気が急落してツアーもキャンセルされてしまいます。

 しかも、アメリカへ戻ったところ、じつは前妻との離婚が成立していなかったことが判明します。重婚していた上に、新しい奥さんは13歳ということで、スキャンダルはますます熱を帯び、国内の音楽界からも追放されてしまいました。

 じつのところ、チャック・ベリーの逮捕はやや作為的であり、ロックンロールのミュージシャンは、表舞台から引きずり降ろすチャンスを狙われていたかのようです。「若者を惑わすな」という大人たちからの反撃に、ロックンロールは耐えきれなかったといえるかもしれません。

 こうして1950年代終わりに、アメリカ国内ではスターが不在となってしまいます。1960年初めにビートルズがイギリスから登場しますが、彼らが現れるまでの数年間、アメリカではニール・セダカやポール・アンカといった、甘めのポップスが流行ります。ロックのジャンルとしては空白の期間になるわけで、若者たちのエネルギーは発散されず、悶々とたまっていくばかりでした。

(第5回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!