芥川賞作家としての長嶋有、コラムニストとしてのブルボン小林、20年間の活動を振り返る!
更新日:2022/2/9
汲めども尽きぬ創作意欲の持ち主。2021年にデビュー20周年を迎えた小説家・長嶋有氏について形容するなら、そんな風に言えるだろう。1972年生まれ。小説家としては、02年に『猛スピードで母は』(文藝春秋)で芥川賞、07年『夕子ちゃんの近道』(単行本は新潮社/文庫は講談社)で第1回大江健三郎賞、16年『三の隣は五号室』(中央公論新社)で第52回谷崎潤一郎賞を受賞。一方で、漫画やゲームにも詳しく、「ブルボン小林」名義で『マンガホニャララ』(文藝春秋)『ゲームホニャララ』(エンターブレイン)などのコラム集を上梓。また、アイロンやマグライトなど、家電の出てくる文学作品について論じた『電化文学列伝』(講談社文庫)という類稀なる本も刊行している。
さらには、俳句を作ったり、互いの作品を論じたりする句会にも参加。米光一成氏、千野帽子氏、堀本裕樹氏との共著『東京マッハ』(晶文社)では句会の模様を収録し、俳句の面白さと奥深さを提示してみせている。
そんな長嶋氏の最新作は初の家族小説『ルーティーンズ』(講談社)だ。「願いのコリブリ、ロレックス」と後半の表題作から成る作品で、登場人物は作家の長嶋氏と漫画家の妻、2歳の娘がモデルだと想像させる。『ルーティーンズ』を端緒に、作家としての長嶋有、コラムニストとしてのブルボン小林の内奥に迫った。
(取材・文=土佐有明)
――『ルーティーンズ』は、表題作もですが、もう一篇の「願いのコリブリ、ロレックス」というタイトルが長嶋さんらしいと思いました。これまでも固有名詞を効果的に使っていましたが、腕時計じゃなくて「ロレックス」、自転車じゃなくて「コリブリ」なんですね。
長嶋有さん(以下、長嶋):僕の小説は固有名詞が目立つと言われるけど、どうなんだろう。ただ、「なんじゃそりゃ?」みたいに思ったワードは、小説に使うか、エッセイにするか、ひとまず考えずにストックしておくようにはしていて。さっき見たテレビのニュースで「トラがなぜ檻から出てきたのかは不明」というテロップが流れていたんですよ。別に普通の日本語なんだけど、テロップになってるとすごくおかしくてね。
――気になるワードには敏感に反応するほうなんでしょうね。ブルボン小林名義では『ぐっとくる題名』(中央公論新社)という著作もありますし。小説だと『タンノイのエジンバラ』(文春文庫)は個人的にぐっときました。「タンノイ」と「エジンバラ」ってなんだろう? と思って調べました。
長嶋:それは調べる人、すごく多いでしょうね。そういう呪文のようで謎めいた言葉が好きなんですよ。意味が分かった時の、なんだそういうことかっていうがっかり感も含めて。単行本になっていないけれど、10年以上前に『オールマイティのよろめき』という小説を書いていて。「オールマイティ」というのは、何に対しても強い札を比喩的に指す言葉で、具体的にはスペードのエースやジョーカーなんですけど。で、それを切り返すカードが「オールマイティのよろめき」っていう名前なのよ。そんな面白い言葉がトランプの世界にだけあるのがもったいない気がするわけです。
――あと、ヒット曲のタイトルが小説に出てきますけど、どういう基準で選んでいますか?
長嶋:うん。曲で言うと、『ルーティーンズ』では「僕」がドラムを習っている話が出てきますよね。ドラムの練習曲としてコブクロの曲が出てくるんだけど、実際はコブクロ以外にも色々な曲を叩いている。理屈で説明はできないけど、コブクロがいちばんテキスト化するのにしっくりきた。リアリティーにかなっているなと思ったんです。
――『ルーティーンズ』はロンド形式が採用されています。つまり、一遍の小説の中で、複数の登場人物が異なる視点で現実を切りとっていく。『ルーティーンズ』では夫と妻の視点が交代で書かれていますね。ロンド形式って大体、どちらかが浮気していたり、嘘をついていたりするものですが、それがないのもポイントかと思います。
長嶋:妻から見えている景色が夫から見ると全然違うとか、夫に愛人がいたとか、そういう構造がロンド形式の醍醐味なんですよね。でも『ルーティーンズ』では嘘や秘密がなくて、むしろ、同じ。お向かいさんに会った時の愛想の振りかたまで、夫と妻で同じだったりする。同じであることに二人とも気付いてないというのを書けばロンド形式の新しい見せ方になると思った時、「いいものができる!」って思いました。
――長嶋さんの小説を読むと、『ルーティーンズ』に限らず、なんでこんなに女性の気持ちが分かるんだろうって思うんです。
長嶋:それはよく言われるんですけど。最初に小説を応募した賞で、選考委員の筒井康隆さんと後にお会いしたら「え、男だったの?」って言われて。逆に、なんでみんなそんなに女性の気持ちが分からないんだと思いますけど。例えば、ナイフで刺されたら痛い、というのは男女で変わらない。消しゴムが落ちたから拾おうみたいな時も、男の「拾おう」と女の「拾おう」って、そんなに差がないはずだから。
女性の漫画家が、バディ的な2人の男性がトイレで用を足すというシーンを描く際に、5つ小便器が空いていても2人並んで描いちゃったというのが話題になったことがあって。実際には男性同士、間をあけますよね。どれだけ色々なことをリサーチしても、2人並べて描いちゃうことがある。そういうことは男性の僕にもあります。
――つんく♂さんが女性アイドルに詞や曲を提供していますけど、なんでこんなに女性の気持ちが分かるの? ってファンに思わせる。作詞においてはアイドルのブログを読んで参考にする人は多いし、ミュージシャンのtofubeatsさんは女性誌を読むと言ってました。
長嶋:女性をうまく書くために必要なんでしょうね。特に、誇張された、フィクションの中の女性像のためには取材も重要なんですよ。逆に、消しゴムを落とした時の「あ、落とした」みたいなことでは、J-POPにならないでしょう。だからなのか、女性の気持ちが分かるって評される割には大して売れないんだ、僕の本は(笑)。つんく♂的な部分がないんだ。ちょっとした書き方で、女性はこういうことしないって指摘されることもあります。だからなるべく、女性が主人公の時は、女性の編集者に読んでもらうようにしてます。
――長嶋さんはブルボン小林名義で漫画評やゲーム評を書かれていますね。僕の個人的なリサーチでは、長嶋さんとブルボン小林さんが同一人物だと知っている人は、3割ぐらいでした。
長嶋:お、3割! それはちょうどいいですね。文章を書いたりラジオに出たりするにあたって、この仕事は長嶋の名前は出さないでくれって言って引き受けたり、これは「実は長嶋」と言ったほうが面白いからバラしてしまえとか、どちらにするかはその都度、直感的に判断してやっています。とにかく、そうやって、ある時別名義に気付いた人は一生名前を覚えてくれると思うんですよ。ある時、知るわけですよね。例えば、阿佐田哲也と色川武大が同一文物だったとか、赤瀬川源平が尾辻克彦のペンネームだったりすることを。そうすると、尾辻克彦のことを一生覚えていると思うんですよ。そういうふうに出会って、気付いたという体験が貴重だから。
――なるほど。それと長嶋さんは俳人でもありますね。『春のお辞儀』(書肆侃侃房)という句集を出されているし、『俳句は入門できる』(朝日新聞出版)、『東京マッハ』(共著、晶文社)などでも俳句の醍醐味をダイレクトに伝えています。短歌でも川柳でもなく、俳句だったのはなぜでしょう?
長嶋:最初、歌会で自分の作品を匿名で出して読んでもらったら、「これ575だけで言えているから、77が要らないよね?」ということを皆に言われて。それが二度続いたので、自分はどうしたって俳句になるんだな、と思った。俳句は字数が少なくて思ったことを全部入れられないから、色々なことを諦める感じがあるんですよ。面白いことがあったから575にしようと思っても、全部は言えない。その足りない感じが自分に合っていると思います。
――短歌と俳句の二刀流は難しい?
長嶋:そうですね。これは歌人の穂村弘さんも言っているけど、ハンマー投げと砲丸投げの喩えが分かりやすくて。ある選手が陸上競技をやるにあたって、なぜハンマー投げを選んだのか、あるいはなぜ砲丸投げを選んだのかっていうのが、陸上に詳しくない外野の人間からは分からない。でも、ハンマー投げと砲丸投げの二足のわらじで活躍している人って、多分だけどひとりもいないでしょう。最初に陸上競技全体に興味があって、色々な競技をしていても、やがていちばん自分にしっくりくる競技にその人の肉体が収斂されていくはずですよね。ひとつのジャンルを極めていくというか。ハンマー投げの選手が余技とか遊びで砲丸投げもやっているみたいな人はいるのかもしれないけど。まあ、野球やる人もサッカーをやるし、朝青龍もモンゴルでサッカーやっていたから(笑)、やれるかやれないかで言うとやれるわけだけども。
――小説の書き方について、冷蔵庫の中の具を惜しまずに作品にぶっこんできたから、気付いたら冷蔵庫に文学味のする具がなくなっている、ということを書かれていますね。ここでいう「文学味」の定義とは?
長嶋:飲み会で雑談をしている時、誰かの発したフレーズが突然すごく深い言葉になったみたいな瞬間があるじゃないですか。「おお!」とそこに居合わせた一同が感心するみたいな。そういうことと大差ないような気もするんですよ、文学味ってものは。でも、その言葉だけを抜いても小説にならない。居酒屋のやり取りをそのまま再現してもやっぱりならない。
――ちなみに『猛スピードで母は』で芥川賞を取った時、どんな心境でしたか?
長嶋:芥川賞って有名ですよね。芥川龍之介は読んでいたけど、スピーチをしてくださる村上龍さんの本を読んでなかったんですよ。無邪気にそう言ったら編集者から「授賞式までに最低限これだけは読んできてください」って怒り気味で、書店まで引っ張っていかれて(笑)。読んでみたらすごく面白かったです。
――2007年には『夕子ちゃんの近道』で第1回大江健三郎賞を受賞されましたが、その時は?
長嶋:大江賞は受賞の知らせが発表より3、4カ月早かったんですよ。それで、大江賞をぜひもらってほしいって言われたんですけど、まず言ったのは「大江さんを読んだことないけどいいですか?」と。でも大江さんは、長嶋さんが辞退するようなら、私が一升瓶持って説得に行くからって言ってくれたそうで。それはすごく嬉しい言葉だった。だから3カ月くらいの間、大江さん漬けになりましたよ。
――それは楽しんで読めたんですか。
長嶋:7キロ痩せた(笑)。大江さんと対談しなきゃいけないし、大江さんの本を読まなきゃいけないから焦って。大江さんの小説は、教養がないと理解しきれないところもあるけど、すごく面白かったです。自分がどこまで理解できたかということに自信が持てないので、気弱な言い方になるけども。過激で直截なところがあって。『さようなら、私の本よ』って比喩じゃなくて本当に燃やしてるんですよ(笑)。アンチクライマクスというのも、僕と似てると勝手に思うところです。
――『ルーティーンズ』と同じタイミングで、『もう生まれたくない』(講談社)が文庫化されました。これは有名人が作中でどんどん亡くなっていく小説ですね。ジョン・レノンやスティーヴ・ジョブズ、X(現・X JAPAN)のTAIJIまで。やっぱり人名というか固有名詞の提示の仕方が面白い。
長嶋:人が死ぬ時って、ツイッターやっていると、トレンド欄に名前が出てきて、クリックすると訃報だったりすることがありますよね。だから、高齢の人がトレンドワードになっているとどきっとする。20年前は、たとえば自分がよく遊んで影響を受けたテレビゲームの作者が亡くなった時も、それを知ることはなかった。作者の名前も広まってなかったしね。それを今はすぐ知る。昔は訃報って地方のおくやみ欄みたいなところでしか死が広まらなかったのが、今、全国に即座に周知されるっていう仕組みになっていますよね。そのことの不思議さについてよく考えていて。残念な情報が便利に広まるんだっていう。
――2021年11月号の『文學界』の「長嶋有を作った10冊」に、保坂和志さんが入っていますね。保坂さんご自身や、その影響下にあるとされる作家の作品って、「変わらない日常を淡々としたタッチで」とか、「何も起こらない」とか、評されるじゃないですか。長嶋さんも……。
長嶋:言われる言われる。
――いや、それがすごく不思議で。登場人物の感情のざわめきは劇的ですらあるし、心中穏やかなじゃないことばかり。実は情報量も多いと思うし、箴言が2、3ページに1個ぐらいあるように思うんです。
長嶋:それが全部響いてくれるのは、読者と作品の最もいい出合いだよね。何も起こらないからつまらないという人も当然いるだろうけど。サプリメントは薬効が瓶に書いてあるけど、個々の小説って全員に効くわけじゃない上に、薬効も分からない。効かない人が怒る気持ちも分からないではない。でも、誰かには絶対に効くよ、箴言色々あるよとは思ってます。『ルーティーンズ』でも「何も起こらない日常が」みたいな言葉も、やっぱり耳に入ってくるし、知ると反射的にはむっとするんですよ。
――最後に、昨年デビュー20周年でしたが、これまで小説を書き続けてきたモチベーションってなんでしょう?
長嶋:依頼があるから書いている、という自負があって。自分のテキストにはギャラが発生する価値があると思っているということです。傲慢な言い方だけど、それはタダならやらないっていう意味でもある。だから、もし依頼が来なくなったら……ああ、言霊になっちゃうから、あんまり言うのはやめよう(笑)。でも自分の作品が売れなくても納得感があるし、間違って売れても納得感がありますよ。芸術家ってそうなんじゃないかと思うな。絵画を描く人を見ていると、「自分なんてそんな値段を付けてもらえる作家でもない」みたいには絶対言わないし、逆に売れて当然という顔もしない。売れても売れなくても、まったく驚かないで同じ表情なんですよね。