幼い娘を亡くし、ドライブインを営む女のもとに現れた“義父を殺した少年”。その「罪」は浄化されるのか? 大藪春彦賞候補作、待望の文庫化!
更新日:2022/2/4
「何も悪いことをしていないのにどうして」と叫びたくなるような出来事が起きた時、“正しい場所”にとどまり続けるのはそう簡単なことではない。自分が被害者にならないために、加害者側にまわることで、どうにか生きていくことができる人もいるだろう。もちろんどんなことがあっても、道を間違えない人はいる。そんなことはわかっているが、じゃあ、自分が“彼ら”の立場に置かれた時、いったい何ができただろう。どうすれば生きていけただろうかという問いを、遠田潤子氏の小説『ドライブインまほろば』(双葉文庫)は切実に突きつけてくる。
5歳の娘を亡くし、奈良県の山奥にあるドライブインを一人切り盛りする比奈子は、ある日、娘と変わらぬ年頃の妹・来海の手をひく小学6年生の少年・憂と出会う。子ども2人で徒歩の旅。只事ではないのを察知し保護した比奈子は、その晩、憂から、義理の父を殺してしまい逃避行中であることを告げられる。そうして半信半疑のまま、いずれ自分も逮捕されてしまうかもしれないのを承知で、夏休みの間だけ、2人を匿うことを決めるのだが、その裏では、義父の双子の兄・銀河が血眼になって憂の行方を捜していた――。
比奈子と憂、そして銀河の視点が絡み合うようにして進んでいく物語。3人の抱えているものはそれぞれに重く、理不尽な痛みに満ちている。
比奈子の娘が亡くなったのは、実母の過失で起きた事故が原因だ。詫びることで心を軽くしようとする実母の暴走は、義理の両親の激しい怒りを買い、比奈子はみずから夫と離婚する道を選んだ。悲しみと後悔をただただぶつけてくるばかりの身勝手な実母が、誰よりも自分を責めているのはわかっているから、断罪することも許すこともできないまま、比奈子はただ悲しみの底に沈んでいる。そんな彼女が、娘の面影が重なる来海も、暗い影を背負った憂も、見捨てられるはずがない。それぞれ心の穴を埋めるように、寄り添いあいながらかりそめの“家族”として3人がともに暮らす日々は、それだけをずっと読んでいたいと願ってしまうほど愛おしい。
だが、どんな事情があろうと憂が殺人を犯したことには変わりない。読んでいればうすうす、家庭内でどんな地獄が展開していたのかは察せられる。読み手としての憤りは義父だけでなく、憂を守ろうとしなかった母親にも向くのだけれど、銀河の視点で語られていく義父の生い立ち、そしてラストで明かされるもう一つの真実に、言葉を失ってしまう。憂をひどいめにあわせた彼を正当化するつもりは一切ないが、でも、どこかでこの負の連鎖を止めることはできなかったのか、なぜ全員がこれほど理不尽な痛みを背負わなければならなかったのかと、誰のことも断罪することができなくなってしまうのだ。
3人の物語はやがて、憂が追い求めていた幻の十年池で交錯する。そのそばで一晩過ごせば生まれ変わることができるというその池を、見たからといって何もかもが帳消しになるわけじゃない。罪も、痛みも、消えやしない。読み終えてなお、読者である私たちの心にも苦悶は残る。けれどそれでも、痛みの果てに彼らが手に入れた希望の光もまた、心に宿る。その光に一瞬でも触れることができたなら、彼らも私たちも、明日も生きていけるような気がするのである。
文=立花もも