「退職まであと1年」タイムリミットを迎えた29歳契約社員が、売れないお笑い芸人と出会ったら…奇妙な共同生活を描く『パラソルでパラシュート』

文芸・カルチャー

更新日:2022/2/10

パラソルでパラシュート
『パラソルでパラシュート』(一穂ミチ/講談社)

 昨年末、錦鯉がM-1グランプリで最年長記録を更新して優勝し、お茶の間が感動に沸き立ったのは記憶に新しい。涙を流しながら、諦めなくてよかったと語る長谷川雅紀氏の姿に勇気をもらった人も多いのではないだろうか。夢を追い続けた彼らは、とにかく眩しかった。一方、その後のドキュメンタリー番組では、売れていく同期などを次第に羨ましいと感じなくなったり、新しい仕事に就くより芸人という一筋の光を見ていた方がマシだと思ったなど、ただ眩しいだけではない、生々しい発言も印象的だった。

 芸人の生き様を、いわゆる“一般人”の目線から描いた『パラソルでパラシュート』(一穂ミチ/講談社)という作品がある。著者は、『雪よ林檎の香のごとく』でBL作家デビューをし、『イエスかノーか半分か』や「新聞社」シリーズなど数々のBL作品を生み出し、最近では『スモールワールズ』で第165回直木賞候補になり、2022年本屋大賞にもノミネートされるなど、一般文芸にも進出した話題の作家、一穂ミチ氏である。

 賞レースで結果を勝ち取り、テレビで売れっ子になりたいと夢見る芸人もいれば、劇場で自分たちが好きなコントや漫才をしていられれば良いと感じる芸人もいるだろう。本書に出てくる、芸人コンビ「安全ピン」は、どちらかというと後者に当てはまるふたりだった。そして、そんなふたりに無性に惹かれてしまうのが、主人公の柳生美雨だ。

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 彼女は、29歳で大阪の一流企業の受付で契約社員として働いている。契約は30歳で切れる予定で、その後の予定は特にない。できることもやりたいことも特にない。一方で、仲良しの後輩のように婚活にいそしむこともしない、マイペースな女性だ。そんな彼女は、あるときアーティストのライブ中、彼らの歌を口ずさむひとりの青年から目を離せなくなってしまう。そんな彼の誘いに乗ったことから、ふたりの不思議な関係が始まる。

 青年は、芸人の矢沢亨。相方の椿弓彦と「安全ピン」というコンビを組んでいて、劇場ではそこそこ名前も知られファンもついているが、賞レースで結果を出したりテレビに出演していたりなど、世間一般的な「売れている芸人」ではない。他の芸人たちと一軒家でシェアハウスをして暮らしている。

 美雨は、それまでお笑いに大して興味がなかったが、亨に誘われてお笑いライブで安全ピンのコントを初めて見たとき、思わず涙を流してしまう。彼らのコントの世界観や亨の演じる女役に一気に魅了された彼女は、それからライブや彼らの家に頻繁に足を運ぶようになる。そのうち、ひょんな理由から、彼女自身もその一軒家で暮らすことになるのだった。

 芸人たちに触発されて、自分も何か夢をもとうと一念発起するような物語ではない。美雨は、彼らに強烈に惹かれるものの、彼女は彼女で自分の人生を歩み続ける。毎日規則正しい社会人生活を送る美雨と芸人たちの生活は、どこかズレているが心地がいい。

 バイトをしながら芸人を続ける者もいれば、賞レースで結果を出せず潔く芸人をやめて実家の家業を継ぐ者もいる。合コンでいい人を見つけて結婚まで一直線の同僚もいれば、契約交渉をして「図太いおばはん」と陰口を叩かれても会社で働き続ける先輩もいる。さまざまな生き様に触れながら、美雨は「退職まであと1年」のタイムリミットを目前に控え、選択を迫られていく。

 芸人たちとの奇妙な同居生活によって生まれた、美雨の中の気づきや変貌は、読んでいて希望を感じるものだ。テンポのいい会話にクスッと笑ったり、亨との絶妙な距離感にドキドキしたり、複雑な恋情にほろりとしたり、心を揺り動かされながら一気に最後まで読んでしまった。夢や希望を追いかける人生も美しいが、そこまで熱くなれるものがない人もいる。そんな自分に負い目を感じている人がいれば、ぜひ読んでほしい1冊だ。

文=田中葵