ビートルズがやってきた/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/2/23

みの

 1950年代終盤、アメリカでのロックンロールが下火になると、イギリス勢による“ロック侵略”が始まります。その急先鋒がビートルズでした。ビートルズは実験的なアルバム制作で、ロック界を牽引していきます。そして、彼らが発表した“コンセプト・アルバム”の登場で、カウンターカルチャーだったロックは、より芸術性への志向を高めていくことになります。

ビートルズ誕生

 1950年代の終わり、アメリカではスターの不在によりロックンロールは低調となります。一方のイギリスでは、英語という共通性もあって、ロックンロールが受け入れられていました。

 もちろん当時のイギリス国内にもスターはいて、たとえばクリフ・リチャードが挙げられます。1960年代に活躍したイギリスのギタリストのなかには、リチャードのバックを務めていたシャドウズから影響を受けた人もたくさんいます。ですが、アメリカからロックンロールがやってくると、瞬間にイギリスの音楽好きの若者たちを虜にしました。

 ビートルズの出身地であるリヴァプールは港町ということもあり、輸入レコードがいち早く手に入りました。イギリスにおけるアメリカ音楽の最先端の地で、ビートルズもこうした音楽に触れていたのです。

 ビートルズはご存じのように、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターによるバンドです。

ビートルズ
ビートルズ
(写真:Newscom/アフロ)

 1950年代に入るとイギリスで、アメリカ人のアラン・ローマックスが、自身がフィールドワークで採集したブルースを流すラジオ番組が始まります。そして、20世紀前半にアメリカ南部の黒人たちのバンドが演奏していた、ブルースやジャズ、カントリー、フォークといったルーツ・ミュージックをベースにした音楽「スキッフル」が大流行します

 ロニー・ドネガンがカバーしたフォークソング「ロック・アイランド・ライン(Rock Island Line)」が大ヒットとなり、若者たちによるスキッフルのバンドがたくさん生まれました。

 1957年、16歳だったジョン・レノンも高校の友人たちとスキッフルのバンドを結成します。このバンドに、共通の友人を介して知り合ったポール・マッカートニーが参加します。ジョンとポールは、リトル・リチャード、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、そしてエルヴィス・プレスリーのレコードを熱心に聴き漁っていたといいます。

 ポールは、かねてから友人だったジョージ・ハリスンを誘い、オーディションを経て加入。彼らはアマチュア時代からライブで腕を磨き、1960年夏からは西ドイツの港町ハンブルクのクラブでもライブを行うようになります。メンバーチェンジや2回のハンブルク遠征を経てイギリスに戻った彼らは、レコード屋のオーナーで、音楽コラムニストだったブライアン・エプスタインと出会います

 エプスタインがマネージャーとなり、1962年にEMIのパーロフォン・レーベルと契約。リンゴ・スターが加わり、オリジナル曲の「ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do)」でデビューします。

 デビュー曲でいきなり全英シングルチャート最高位17位を獲得。1963年の年明けにセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)」を発表すると、音楽週刊誌のチャートで2位となり、ビートルズは一気にトップスターとして躍り出ます。

 イギリス中の若者、特に10代の若い女性たちが熱狂する姿は、社会現象としてとらえられました。コンサート会場の内外ではファンがヒステリックに金切り声をあげ、こうした熱狂的なファンは「ビートルマニア」と称されるようになります。

ビートルマニア
熱狂的なビートルズファンたちは、「ビートルマニア」と呼ばれた
(写真:アフロ)

自作自演バンドが主流になる

 ファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』は30週ものあいだ全英アルバムチャート1位に。次いで『ウィズ・ザ・ビートルズ(With the Beatles)』も1位を独走するなど、イギリスでの人気は決定的なものとなります。

 1964年2月、ビートルズはアメリカ、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に降り立ちました。アメリカでも熱狂的に迎えられ、本国イギリスをしのぐビートルマニア現象が巻き起こります。

 ビートルズはアメリカ上陸後、3週連続で『エド・サリヴァン・ショー』に出演。最初の出演時には全米で7300万人が視聴、72%の視聴率を獲得し、彼らの出演時間のあいだ、町から青少年の犯罪が無くなったという話まであります。

 アメリカ進出は大成功を収め、4月1週目のBillboard Hot 100は、上位5位をビートルズの曲が独占。ビートルズが巻き起こした熱風は、すぐに世界中に波及します。同年夏に主演映画の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』が各国で公開されると、人気に拍車がかかります。

 ビートルズがそれまでのスターと違った点は、バンドのメンバーで曲を書き、みんなで歌ったことです。

 15歳ぐらいから曲を書き始めた彼らにとって、自作自演は自然なことだったかもしれません。ですが当時のポップス界では、作曲家、作詞家が作った曲を歌ったり、演奏したりしてヒットが生まれるのが主流でした。自作自演のスターは新鮮で、民主的に映ったのです。

 ビートルズ以降、ポップスは自作自演が主流になり、より作家性をアピールしたミュージシャンが増えていきます。

 また、ビートルズによってアメリカ進出の門が開き、ローリング・ストーンズ、キンクス、ザ・フー、アニマルズといった多くのバンドが海を渡ります。これが「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と称される現象です。

ビートルズが優等生で、ストーンズが不良か?

 “ビートルズのライバル”とされるローリング・ストーンズですが、彼らはブルースをはじめとする、アメリカの黒人音楽へのルーツ志向がより強いバンドでした。イギリスの白人たちに向け、どれだけ本気で黒人音楽を届けられるかという志から出発しています。バンド名もブルース・ミュージシャンのマディ・ウォーターズの曲から取っています。

 幼馴染みだったミック・ジャガーとキース・リチャーズは、ブルースやR&B、ロックンロールを好むなど、音楽の趣味が同じであることを知って、バンドを組みます。1962年にメンバーが固まり、1963年にデッカ・レコードと契約。チャック・ベリーのカバー曲「カム・オン(Come on)」でデビュー、全英チャートで21位を記録しました。

 ローリング・ストーンズは当初、カバー曲が中心でした。ファースト・アルバムにオリジナルはほぼ収録されませんでしたが、ビートルズに触発されるかたちで曲を書き始めます。

 ところで、「ビートルズは優等生で、ストーンズは不良」というイメージをもっている方も多いと思いますが、じつは逆です。特にデビュー前は真逆の状況で、ストーンズはメンバー揃ってお坊ちゃま。ミック・ジャガーも育ちが良く、イギリスでもいちばん頭のいい経済の学校に通い、父親からの仕送りで高いレストランで食事をしながら、夜はクラブでブルースを演奏する生活を送っていました。

 一方のビートルズは、ハンブルクにある船乗りが飲みに来るバーで、みんなでドラッグをしながら演奏していました。バーではよくケンカもして、最後は売春婦と雑魚寝することもありました。そういう10代を送っていた彼らはある意味、デビューした時点で百戦錬磨だったといえます。

 なぜビートルズが優等生のイメージをもたれるようになったかというと、それはマネージャーのプロデュース力のおかげです。ブライアン・エプスタインという優れたマネージャーと出会って、衣装はスーツを着て、ステージ上で煙草を吸うのはやめて、演奏が終わったらお辞儀をするようになります。特に揃いのスーツ姿は、強力なアイコン・イメージになりました。それまでのビートルズは、革のトレンチコートや革ジャンに、髪型はリーゼントでしたから。

「サイケデリック・ロック」

 ビートルズは、1966年6月に初来日し、日本での最初で最後となるコンサートを行います。このとき、日本人特有の静かな客席を前に演奏したことで、自分たちのパフォーマンスが落ちてきたことに気づきます。当時の彼らは、どんどんと広くなる会場と、まだそれに対応できない未発達な音響設備のなかで演奏していました。自分たちですらよく聴き取れない劣悪な状況だったのです。

 また、デビュー後から続くハードなスケジュールに疲れ、日本公演後に向かったフィリピンでは暴動に巻き込まれたこともあり、1966年8月末のサンフランシスコでのコンサートをもって、一切のライブ活動を止めることを発表。そうして、レコーディングに時間をかけたアルバムを制作するようになります。

 ちなみに前年の1965年春、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンはLSD(幻覚剤/サイケデリック)と出合っています。

 LSDによる神秘体験は、1966年8月に発売されたアルバム『リボルバー(Revolver)』に強く影響することになりました。このアルバムでは、音色(おんしょく)で遊ぶようになり、ヴォーカルにエフェクトをつけたり、テープを逆再生させたりといった、録音技術での新しい試みを始めます。こうした試みは、コンサート活動を止め、ライブでの再現性を気にしなくてもよくなったからこそ、できることだったともいえます。

 アルバムの最後に収録された「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ(Tomorrow Never Knows)」の歌詞は、ジョンがハーバード大の心理学者ティモシー・リアリーの共著『チベットの死者の書 サイケデリック・バージョン』に触発されて書いたものです。

 戦後のアメリカでは、ティーンエイジャーたちの「非行」とともに、奔放な「性」も社会問題になっており、大人たちはどのように若者たちの「性」を管理するかに頭を悩ませていました。そこでセクシャルなイメージを伴っていたR&Bとそこから発展したロックンロールがやり玉に挙がったのです。

 こうしたLSDなどのドラッグによる、幻覚や神秘体験にインスピレーションを受けた音楽を「サイケデリック・ロック」と呼ぶようになります。

“コンセプト”でアルバムは芸術の領域へ

 サイケデリック・ロックのジャンルに突入した、1966年11月から1967年4月初めにかけて、ビートルズは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)』を制作します。

 これまで彼らが重ねてきた実験が花開く、ポップス史における最重要アルバムの一つです。アルバムは、架空のバンドがショーをしている設定で、オープニングはバンドのテーマで始まり、最初の数曲がメドレー仕立て、最後にまたテーマに戻ります。

 それまでの多くのアルバム制作は、シングル曲を収録することが主な目的で、数合わせとしてカバー曲が収録されることも多くありました。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、アルバム全体で聴かせるという発想にシフトした、初めての「コンセプト・アルバム」となったのです。ビートルズのコンセプト・アルバムの発表は、ヒット曲から名盤へと、ポップスを評価する新しい視点が生まれた、エポックメイキングな出来事ともいえます。

 ビートルズのアルバムはそれまで、イギリス盤とアメリカ盤で収録曲の数や順番、ジャケットのアートワークを替えて発売されることもありました。ほとんどのアーティストがそうでしたが、発売する国に合わせて収録曲やジャケットのアートワークを替えることは普通のことだったのです。そのため、住んでいる地域によっては聴けない曲があることも当たり前でした。

 それが1967年に発売された『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』以降は、収録曲もアートワークもすべての国で同じものが発売されるようになります。歌詞を記載したり、デザイン的な工夫を凝らしたりし始めたのもこの頃で、アートワークの重要性も増していきます。

 この傾向はほかのアーティストの作品にも及び、アートワークも含めてアルバムの世界観を伝えるということが重要視されていくようになります。たとえば、クラシック音楽の同じアルバムで、国によって交響曲の第2楽章が聴けたり、聴けなかったり、第1楽章と第2楽章の順番が入れ替わったりすることはあり得ないでしょう。

 コンセプト・アルバムの登場は、カウンターカルチャーだったロックが、より芸術性への志向を高め、ハイカルチャーに挑む表れでした。

 そして、ビートルズのサイケデリック・ロックへのシフトで、多くのバンドがサイケ・ファッションを取り入れて、サイケデリック・ロックに接近し、アルバムを制作する現象が起こります。

 (※注釈)歴史事実を紹介するうえで、公序良俗に反する記述を含みますが、当時のどの出来事も著者は支持していません。

(第6回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!