「僕の住んでいる世界は、たいへんなんだよ」認知症になった東大教授が語る当事者から見た世界とは?
公開日:2022/3/12
病は人を選ばない。特に、超高齢社会の日本において、認知症は誰がかかってもおかしくはない病。いずれ「認知症800万人時代」が到来するとさえ予想されている「国民病」だ。自分が認知症になったらどう生きるべきなのか。家族が認知症になったらどう向き合えばいいのか。それは、誰にとっても決して他人事ではない問題だろう。
そのひとつの模範を見せてくれるのが、『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子/講談社)。著者・若井克子さんの夫・若井晋さんは、東京大学の元教授で、無教会派のクリスチャンであり、脳神経外科医でもあったが、59歳の時、若年性アルツハイマー病と診断された。この本では、最期まであゆみを共にした克子さんが晋さんとの20年に及ぶ日々を描き出す。生きるとは何か、命とは何かについて、考えさせられる1冊なのだ。
晋さんの書斎を片付けている時、克子さんは、あるノートを見つけた。それは2001年6月、晋さんが54歳の時から1カ月程度使っていたもの。この頃、晋さんは、漢字を思い出せなくなることが増え、このノートに日記をつけ始めたらしい。日々の記録とともに、余白に残されていたのは、無数の漢字練習の痕跡だった。
当時、東京大学教授として「国際地域保健学」を専門としていた晋さんは、大学での講義のほか、学生への論文指導、研究資金の調達、関係機関との折衝、原稿の執筆、海外出張など、とにかく多忙だった。「認知症」の文字が脳裏をかすめながらも、日々の仕事に追われている身ではできることは限られていたのではないか。だから、晋さんは、人知れず書字の練習をしていたり、わざわざ勤務先の病院でMRIを撮影していたりしていたのだろうと克子さんは振り返る。
方向感覚は人一倍よかったはずなのに、昔なじみの場所にたどり着けなくなったり、克子さんとの待ち合わせの約束を忘れたり、ATM操作ができなくなってしまったり。晋さんらしからぬ躓きは日に日に増えていき、家族に説得される形で、晋さんは受診した。その結果、2006年2月、若年性アルツハイマー病との確定診断を受けた。そして、それから怒涛の日々が始まったのだ。東京大学の早期退職。沖縄への移住。不慮の交通事故で腕を骨折。アルツハイマー病の公表と、講演行脚…。晋さんと克子さんの日々は毎日が試行錯誤の連続だった。特に2人を悩ませたのが、コミュニケーションの問題だ。認知症の「失語」という症状が原因で、晋さんは次第に言葉が出にくくなっていった。だが、サポートが上手くいった時、晋さんは「認知症の人から見た世界」を理路整然と語ることもあった。
「毎日毎日が、やるせなく、どうしようもない思いでした」
「(階段などの距離感というのは)ちょっと違いますね。私が見ている感じと、みなさんが見ている感じが違うんです」
「僕の住んでいる世界は、たいへんなんだよ」
「『大変だったなあ』と一言、言ってくれればよかった」
よく「アルツハイマー病になると人格が変わる」と言われるが、克子さんからすると、それは〈ちょっと違う〉という実感があるという。確かに空間認知や記憶の面では支障が出てくるから、できないことは増えていく。だが、人間性が壊れるわけではないのだ。むしろ、かえって深まるものさえあるのではないかと克子さんはいう。
晋は若年性アルツハイマー病になって、知識を、地位を、職を失った。
それは、世間からは「地獄」に見えるのかもしれない。
だが私には、むしろ、すべて失ったことで「あるがまま」を得て、
信仰の、人生の本質に触れたように感じられるのだ。
認知症患者とともに歩むのは簡単なことではない。だが、晋さんと克子さんの奮闘の日々を知るにつれて、認知症になったとしても、心は生き続けるということを実感する。認知症になっても、大切な人は大切な人のまま、変わってしまったように見えても、その本質は何も変わらないはずなのだ。
最期まで人々に生きる希望を与えた晋さん、そして、晋さんをずっと支え続けた克子さんの姿に、圧倒される思いがするのは私だけではないだろう。自分が認知症になった時にどうすべきか。家族が認知症になった時にどうすべきか。そして、命の価値とは何かを問うかのような1冊。
文=アサトーミナミ