「やばかったですよね」ギャラ飲み面接で一緒だった女性とカフェで/短編「あなたの鼻がもう少し高ければ」全文公開④
公開日:2022/3/21
大学生のトヨは、この一年ほどSNSの美容アカウント、整形アカウントに入り浸っている。自分の本当の力を発揮できれば、称賛してくれる人々はもっといるはずなのに…。そう焦りながら、気づけばギャラ飲みやパパ活の斡旋をする「モエシャン」にあこがれるように。ある日、渋谷の高級ホテルにモエシャンの斡旋するギャラ飲みの面接を受けに行くが…。感染症の流行直前を描く、川上未映子氏の新刊『春のこわいもの』(新潮社)に収録された1編「あなたの鼻がもう少し高ければ」を、全5回で全文公開!
トヨは生ビールを頼み、マリリンもおなじものを選んだ。きっちり三分後に、さっきの店員がこんもりとした泡を載せたグラスをふたつ持って戻ってきた。
トヨはグラスをにぎってかぶりつくようにビールを口に含んでから、喉に流し込んだ。苦味と冷気が胸の内側に一気に広がり、大きなため息をついた。
「やばかったですよね」
一息ついてから、トヨは自分でも独り言と見分けがつかない感じで言った。
「やばかったです」マリリンも言った。
「年って、訊いてもいいですか」トヨは言った。
「二十一です」
「おない年です……っていうか」
長い沈黙が流れ、トヨはもう一度、深いため息をついて言った。
「やばくなかったですか」
「やばかったです」
「マリリン……さんでいいんですかね。マリリンさん、こういう面接よく受けるんですか?」
「モエシャン界隈は、初めてです」
「なるほどです」
何がなるほどなのかトヨにもわからなかったけれど、そんなふうに相槌を打ちながら、もうひとくちビールをあおった。トヨには酒を飲む習慣はなかったし、弱いほうで、ソファに腰を下ろしてメニューにビールという文字を見るまで酒を飲もうとも思っていなかったけれど、冷えたビールは涙が出るほど美味しく感じられた。朝からまともに水も飲んでいなかったせいでトヨの血中アルコール濃度は急上昇し、額のうらにべったり張りついていたもやのようなものが、しゃきっと取り払われたような快感があった。
それからふたりは、それぞれスマートフォンを触った。
トヨは、チャンリイかモエシャンがさっきの面接のことを何かつぶやいたり、ストーリーズに上げていないかと思ってチェックしたけれど、何もなかった。ネットショップのダイレクトメールが何件か来ているだけで、ラインもなかった。ソファの毛羽立ちが太股の裏をちくちく刺激して、グラスのなかでは黄金色のビールが細かな気泡に揺れていて、その濃淡を見ていると自分が水の干上がった岩場にでも座っているような気持ちになった。
トヨはスマートフォンを触りながら、ちらちらと目をあげてマリリンの顔を見た。マリリンは普通にしててもびっくりしているような目を、何度もしばたたかせて画面に見入っていた。こうしてあらためて見ると、顔じゅうに何種類ものラメがぶつかるように飛び散っており、メイクのほうもすごかった。
でも、べつに長時間一緒にいるわけでもないのに、はじめてパウダールームでマリリンの顔を見たとき、そしてホテルの部屋の前で間近に見たときに受けた衝撃は不思議なことに薄らいでおり、さっきほどのどきどきは感じなくなっていた。
「……たいへんな女の子が、ふえてるから、ちょっと、たいへんになったのかも」
マリリンは困った顔で笑い、ビールをごくごく飲んだ。
「みんな、いま仕事がなくなってて……」
マリリンの話しかたは、ちょっとなんでなのかと思うくらい遅く、うーん、と相槌を打つときや、母音に、やわらかく間延びした独特の抑揚があった。顔は基本的に困ったような表情で、眉尻がぐんと下がって、ぶあつい唇が左右にきゅっと引っ張られ、濡れたような艶が表面をちらっと移動した。わたしはなんで今、このぜんぜん知らない子とビールを飲んでるんだろうとトヨはいっしゅん思ったけれど、しかしそのことじたいに嫌な感じはしなかった。とはいえ、ずっと緊張がつづいているせいでトヨの喉は飲んでも飲んでも潤わず、筒のような太いグラスになみなみと入っていたビールはすぐになくなった。マリリンのグラスもおなじタイミングで、空になった。ふたりはまたおなじものを注文して、それもまたすぐに空になった。
「酒飲めないと、そもそもギャラ飲みってきついですよね」
トヨは頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「っていうか、わたし今すごく喉渇いてて一気にビールとか飲んでるけど、べつに強くないんですよね。っていうか、あんま飲めないし。さっきあそこで言われたのとべつの意味で、なんでおまえDMとか送ってんの、っていう。なにしに、っていう。なんか自分でも意味不明的な」
「いろんな子が、いるみたいだけど」
マリリンの声はどこか聞き覚えがあるというか、知ってる誰かの声に似ている気がしたけれど、それが誰なのかは思いだせなかった。
「でも、ブスはいないよね」
「うーん」
「っていうか、マリリンさんはメンタル削られないの。鬼スルーでしたけど」
トヨは訊いた。さっきホテルで、マリリンは名前を訊かれる以外はいっさい絡まれなかった。というか、名前だって、訊かれたというよりマリリンが勝手に名乗りをあげただけだ。あれこれ言われたのはわたしだけで、マリリンは彼女の目にまるで存在すらしないみたいな感じの扱いだった。あれはあれできついと思うんだけれど、そうでもないのか、どうなんだろう。
「削られは、あんまり……ないかなあ」
マリリンの整形にはかなりの金がかかってるはずだった。わたしとおない年なのに、いったいどうやって金を準備したんだろう。水商売なのか風俗か――トヨはネットで整形、美容アカウントを細かく追っているという自負から、彼女たちの生活や愚痴や交友や、人間関係に濃く触れているつもりで、色々なことに通じているような気になっていた。けれど、こうしてマリリンを目の前にすると、自分が現実的なことを何も知らないどころか、こういうときに適切な質問のひとつも思いつくことができなかった。水商売はともかく、風俗店で働いているかもしれないような友達も、マリリン級に整形をしている友人や知人だってひとりもおらず、これまでじっさいに会ったこともなければ話したことすらなかったのだ。
「……SNSとか見てると、頂き女子とかさ、キャバとかやりながらユーチューバーとかと絡んで、年商何億とかの社長もやってるとかって女の子、いるよね」トヨは言った。「あれ、ほんとだったら、なんか、すごいよね」
「すごい」
「でも、マリリンさんも、ちょっとすごい感じするけど」
「わたしは、べつに、すごくないよ」
マリリンのスマートフォンがブッと鳴って、それからまた、それぞれの画面に見入った。トヨは、インスタグラムで更新されているポストや、ストーリーズや、リールなんかを適当にスクロールしていった。
トヨのふだんの閲覧傾向から選ばれる関連動画や画像が次々に流れてくる。ぱんぱんに腫れたダウンタイム中の女の子の顔、TikTokの一問一答、ヴィトンのロゴいっぱいのセーターを着た女の子の笑顔、「顔短い女みると死にたくなる」、高級肉、三日したらすべての色が落ちてしまいそうな虹色にカラーリングされた髪、「しあわせに生きるために必要な20のこと」、「ブスな日本人
「マリリンさん、どういうの見てます?」
「わたしは、最近、骨のやつ、みてる」
「骨のやつ?」
「うーん。首の骨とかね、腰の骨とか、ぼきぼきやるの。ほねおと」
「あ、これっすかね」
トヨはインスタで検索して見つけたリールを見せた。
「あー、それー」
「うっわ、すごい音」
「はやってるの。いつか、やってもらえたら、いいなあって」
「でもこれ、今の時期、濃厚接触み、がんがんあるよね。でもマスクしてるからいけんのか」
「わたしも、いちおう持ってるよー、あんまりつけないけど」
マリリンは、ピンクのバッグからスヌーピーの柄のついたマスク入れを取りだして、トヨに見せた。
「スヌーピーじゃん、かわいい」
「かわいいー」
「でも、今どっこも売ってなくない? 買えた?」
「昔から、マスクは持ってるから」
「あー、ちゃんとしてる」
「うーん」
「あ、ここ、有名人も来てるね。うわ、すっごい鳴らされてる、えぐいね音。気持ちよさそう」
「これねえ、いっしゅんで顔がしゅって、小さくなるの」
「まじ」
「うーん」
ふたりは、いろんな美容整体師が、いろんな人の首や腰や背中の関節を、派手にぼきぼきと鳴らしまくる動画を見つづけた。体験したひとたちはみんな動画の中で興奮していて、すごーい、やばーい、うわまじ顔変わったあ、というような感嘆の声をあげていた。くりかえされる、ぼきぼき音。小さな画面のなかの誰かの体の関節が鳴らされているだけで、自分の体には何も起きてはいないのに、なぜここが、気持ちのいい感じになるんだろう。それがどこかも、誰の体かもわからないのに、あれとこれは、どこで、何で、繋がっているんだろう。トヨはそんなことをぼんやり思った。
「みてみて、銀座のさ、ここみたいに有名人はいないけど、千葉のここの人もやばい。店の手作り感もやばいけど、でもここがいちばん鳴らしてる」
「うわー、すごいかもー」
「これほんとの音かなあ。集音マイクとか使ってるのかなあ。あとから被せたりしてないのかな」
「うーん」
「っていうか、いくらすんだろ、高いのかな。でも有名人とかモデルとかは、どうせただでやってもらってるんだよね」
「うーん」
「見て、この人、これでビル建てたって書いてる。すごくない」
「うーん」
「骨でビルかあ、鳴らすだけなら一日二百人くらいさばけそう。ぼっろいなあ」
「うーん、骨切りとは、ちがうもんねえ」