昔の日本はどうやって感染症と戦ったの? 新しい1000円札の顔・北里柴三郎と、文豪・森鷗外の知られざる交流

文芸・カルチャー

更新日:2022/3/1

奏鳴曲 北里と鷗外
『奏鳴曲 北里と鷗外』(海堂尊/文藝春秋)

 医療が発展した今の世の中でさえ、新型コロナウイルスとの戦いに苦戦を強いられているというのに、かつての日本は、ウイルスや細菌、原因不明の病にどう立ち向かっていたのだろう。日本の衛生行政を語る上で、欠かせない人物が2人いる。ひとりは、新しい1000札の顔として知られる細菌学者・北里柴三郎。もうひとりは、2022年が没後100周年(生誕160年)にあたる文豪で陸軍軍医の森鷗外(本名・森林太郎)。2人の名前は知っていても、彼らがどのように日本の衛生学・感染症学を発展させてきたのかを知らないという人は少なくないのではないだろうか。

『奏鳴曲 北里と鷗外』(海堂尊/文藝春秋)は、コロナ禍の今だからこそ読みたい衛生学ストーリー。『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した『チーム・バチスタの栄光』などの作品で知られる医師・海堂尊氏による最新作だ。実は、北里柴三郎と森鷗外は、同時期に東大医学部で学び、官費留学ではドイツのベルリンで1年間ともに過ごした。帰国後も、日本で衛生学の分野で切磋琢磨し、彼らは互いを強く意識していたらしい。

 だが、2人の交流や心情的な記録はほとんど残されていない。そこで、海堂氏は、衛生学や医療の史実に忠実に、北里と鷗外の関わりについてはフィクションも交えて、明治期の日本の衛生学の史伝を執筆。まるで、「明治期の白い巨塔」。それぞれの思いを胸に、国民の命を守ろうとする北里柴三郎と森鷗外の姿が現代に蘇るかのようだ。

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 この作品を読むと、北里と鷗外は、まるで対照的に目に映る。熊本県の庄屋の家に生まれた北里柴三郎は、度量が広い親分肌。軍人か政治家になりたいという夢を持ちつつも、医学の面白さに目覚め、4歳年齢を下にサバ読みして21歳で東大医学部に合格。決して裕福ではなく、苦学生だったが、まっすぐな性格は大学側と対立することも多く、問題児扱いされていたらしい。

 一方で、津和野藩侍医の裕福な家に生まれた森鷗外は、2歳年齢を上にかさ増しして12歳で東大医学部に合格。ドイツ語の能力は教授たちも舌を巻くほどで、将来を期待される存在だったが、文学を乱読し、物書きになることに憧れを抱いていた。

 その後、2人は、ドイツへ留学。細菌学の第一人者・コッホの研究所でいちはやく学んでいた北里から鷗外は細菌学の実験の手ほどきを受けることになる。瞬く間に才能を開化させ、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功する北里。一方の鷗外は、研究に積極的になれない。文学に目覚め、軍医としての業務との板挟みに悩み、『舞姫』にも描かれたように、ドイツ人女性・エリスと恋に溺れていく。そんな彼らの葛藤の日々を知れば知るほど、彼らの姿が身近に感じられていく。

 だが、2人の関係は決して円満なものではなかった。北里は終始、学者として生き続けたが、帰国後、鷗外は医学者の顔を捨てて、軍医総監としての立場に徹するようになる。北里はかつての恩師・緒方正規の「脚気菌発見」の誤りを科学的に指摘。鷗外は、そんな北里を痛烈に批判し、「脚気論争」を巻き起こすのだ。日本政府に冷遇されながらも、福沢諭吉の力を借りて、研究所を立ち上げる北里。自説にこだわり、日清・日露戦争で陸軍に大量の脚気患者を発生させる失態を冒してしまう鷗外。「感染症学」を通じて、国民の命を守ることに奔走した2人は、なぜ道を違えてしまったのだろうか。

 作者・海堂氏は巻末にこんなあとがきを添える。

明治時代、内務省は欧州から学んだ最先端の医学を基本とし、優れた対応をしていました。海軍も疫学的研究を土台に対応し、脚気を激減させています。
ひとり陸軍だけが、脚気に関する統計をごまかし、誤った対応に固執して多数の兵を損じ、その死者の数は戦死を凌駕しました。(中略)
それはコロナに関し、衛生学の基本をないがしろにして医学統計を発表せず、科学的根拠に基づかない対応をし続けている、政府や厚生労働省の姿と重なります。
これは、過去の物語ではないのです。

 ごまかしや間違った対応が、事態を最悪の方向へと招くことがある。明治期の2人の奮闘、そして、陸軍の過ちを知るにつれて、今の日本は正しい道を選んでいるのだろうかと不安がよぎる。この本は、コロナ禍の今だからこそ、読みたい物語。海堂氏のいうように「過去の物語」とは思えない、決して他人事で済まされない物語だ。

文=アサトーミナミ