ロック派生の時代/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/4/6

みの

 1960年代のロックシーンを牽引したビートルズは1970年の年末に解散。これ以降、船頭を失った1970年代のロック界は、進化の可能性を模索していくことになります。

ロックはより“ハード”に

 1960年代に多くのミュージシャンに影響を与えたビートルズは、1966年のコンサート活動の中止、1967年のマネージャー、ブライアン・エプスタインの死、アルバム『サージント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』という一つの音楽的到達点を経て、次第にバンド内の不和が深刻になっていきます。そして、1970年末の解散へと至りました。

 ちなみに1970年には、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンが、いずれも27歳で亡くなっています。その前年にはローリング・ストーンズの元メンバーのブライアン・ジョーンズが、1971年にはドアーズのジム・モリソンも27歳で命を落としています。

 才能ある若いミュージシャンが次々とステージを去り、ビートルズという大きな存在も失いますが、ロックは新しい変化を見せ始めます。

 まず、1960年代終わりから1970年代の初めにかけて、ハードロックの礎が築かれます。その重要人物として、三人のイギリス人ギタリストについて触れておきましょう。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジです。彼らは同年代のギタリストで、いずれもヤードバーズに在籍していました。

アラン・ローマックス
エリック・クラプトン
(写真:Abaca/アフロ)

アラン・ローマックス
ジェフ・ベック
(写真:Pictorial Press/アフロ)

アラン・ローマックス
ジミー・ペイジ
(写真:Photoshot/アフロ)

 エリック・クラプトンは、ブルースのレコードを聴きながら独学で15歳からギターを弾き始めました。1962年、17歳でR&Bのバンドに入り、翌年にヤードバーズに加入しています。

 ジェフ・ベックは、10代でロックンロールに興味をもちます。ガット・ギターを手に入れますがそれに飽き足らず、煙草の容器や模型飛行機用の鉄線を使ってギターを自作するなど、のめり込んでいきます。1965年に、10代から知り合いだったジミー・ペイジの推薦で、エリック・クラプトンの後任としてヤードバーズに加入しました。

 ジミー・ペイジも独学でギターを始め、毎日ギターを持って学校に通いました。10代の頃からスタジオ・ミュージシャンとして活躍し、ヤードバーズには1966年にベーシストとして加入。その後、病気になったベックの代役でギターに転向します。ベックの回復後、バンドはツインリード・ギターのスタイルを取り、それがバンドの売りとなりました。

 ヤードバーズ脱退後、クラプトンは、ブルースブレイカーズを経て、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーとともにクリームを結成します。このときすでに三人とも有名なミュージシャンだったため、クリームはポップス史上初の“スーパー・グループ”となりました。

 ベックは自身の名前を冠したグループで、革新的な奏法をフィーチャーした、大音量の音楽を展開します。そして、やや遅れてペイジがレッド・ツェッペリンを結成し、今日イメージされるハードロックのかたちを作ります。

 クラプトン、ベック、ペイジ、彼ら三人に共通する特徴は、ブリティッシュ・インヴェイジョンのバンドと違って、ヴォーカルだけでなく演奏にも重きが置かれたことです。サイケデリック・ロックからの流れを引き継ぎ、即興の要素がより多く用いられています。

 日本では、レッド・ツェッペリンに加え、ディープ・パープル、ブラック・サバスで、三大ハードロックとしています。ハードロックは、それまでのロックよりもヘヴィな音楽志向で、ハイトーンでシャウトするヴォーカルが特徴です。

 なかでも、特に日本で人気のあるディープ・パープルは、クラシカルな要素を取り入れたバンドとして位置づけられています。1972年8月の来日公演も好評で、日本のハードロック・シーンに大きな影響を与えました。

 ハードロックのなかでも、スピード感を追求したり、大音量を重視したりといったさまざまな傾向があるなかで、ブラック・サバスはサウンドの重厚感に重きを置きました。

 このコンセプトに大きく貢献したのが、結成メンバーの一人でギタリストの、トミー・アイオミです。彼は、プロデビュー前に板金工として働いていましたが、不慮の事故により右手の中指と薬指の先端を失っています。アイオミは左利きのため右手で弦を押さえるのですが、通常のチューニングだと、弦が硬くて押さえられないのです。

 そこで、指先にプラスチック製のキャップをつけて演奏をするようになります。加えて、チューニングを下げることにより、弦のテンションを緩めています。一般的なチューニングに対して、1音から、場合によっては4音半も下げることもありました。だるだるな弦から奏でる音は、結果的にバンド特有の「重たいサウンド」として認知されることにつながったのです。

 ブラック・サバスは、ヘヴィメタルの第一号とも評され、オルタナティヴ・ロックにも大きな影響を与えます。

アラン・ローマックス
ブラック・サバス
(写真:Photofest/アフロ)

 アメリカでのハードロック・バンドはイギリスほど多くありません。当時のバンドとしては、エアロスミス、キッス、グランド・ファンク・レイルロードがこのジャンルに該当します。

“プログレッシブ”に、さらに壮大に

 1960年代に一大ムーヴメントとなった、サイケデリック・ロックがもつ実験精神を継承し、コンセプト・アルバムを追求する流れも出てきます。

 サブカルチャーとされていたジャズも、この頃になるとハイカルチャーと認識され始めていました。そこで、ロックもハイカルチャーとカウンターカルチャーのあいだにある壁を越えられるのではないかと、クラシックやジャズの要素を取り入れ、より壮大な音楽を展開します。

 これが「プログレッシブ・ロック」、いわゆる「プログレ」です。

 プログレッシブ・ロックの草分け的存在と位置づけられるのが、イギリスのムーディー・ブルースとプロコル・ハルム。そしてプログレのサウンドを完成させたのが、キング・クリムゾンです。

 キング・クリムゾンは、ギタリストのロバート・フリップを中心に、1969年にロンドンで結成。デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿(In the Court of the Crimson King)』は、ビートルズが示したコンセプト・アルバムからさらに進化した一つの到達点といえます。

 たとえば「プログレッシブ・ヒップホップ」というように、プログレッシブという言葉は、外国ではどんなジャンルの頭にも気軽につけられます。「プログレッシブ」とは、「先進的な」「漸進的な」といった意味なので、とにかく進歩的、革新的な音楽であるのが本質です。今から振り返ってみると、プログレッシブ・ロックのサウンドの特徴をなんとなくまとめることもできますが、当時は「本当に新しいことをやろう」という感覚をもっていることが重要でした。

 日本では「五大プログレ」として、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク&パーマー、ジェネシスが挙げられます。

 ピンク・フロイドは、1960年代の後半に、サイケデリック・ロックのバンドとしてデビューします。シングル曲でヒットを出していましたが、ソングライター兼ヴォーカルのシド・バレットがLSDの副作用により精神を病み、メンバーチェンジを経て、現代音楽寄りの実験音楽に取り組むようになります。そうした試行錯誤を経て、プログレッシブ・ロックへと到達しました。

 1973年にアルバム『狂気(The Dark Side of the Moon)』を発表し、全世界で大ヒットとなります。アメリカのBillboard 200において15年間にわたってランクインし続けるというメガセールスを記録しました。

 『狂気』は、最初曲から最終曲まで一つにつながった作品のようになっていて、哲学的な歌詞や音響的な実験がちりばめられました。これもコンセプト・アルバムの傑作の一つとして挙げられます。

アラン・ローマックス
ピンク・フロイド
(写真:Topfoto/アフロ)

脱サイケで、「ルーツ・ロック」を求めて

 LSDをはじめとする薬物蔓延の状況に疲れたミュージシャンたちが、やや落ち着いたルーツ・ミュージック寄りの傾向を見せるのもこの頃です。

 ボブ・ディランは、フォーク本来のアコースティックのサウンドに原点回帰し、サイケデリック・ロックへと走っていたローリング・ストーンズも、我に返ってブルースに戻ります。エリック・クラプトンもハードロック路線を止め、新天地を求めてアメリカにわたり、南部のミュージシャンたちとバンドを組んで、ブルース志向のアルバムを制作します。

 こうしたアメリカ音楽のルーツがもつ、泥臭さを前面に押し出したロックを、「ルーツ・ロック」といいます。その先駆けは、1960年代後半に登場したクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)です。ジョージ・ハリスンもビートルズ解散後、ルーツ・ロックのアーティストと交流をもちました。ボブ・ディランのバックを務めていたバンドも、ザ・バンドとしてデビューし、ルーツ・ミュージックを色濃く反映した音楽で高い評価を得ています。

イーグルスとクイーン

 日本のポップスに大きな影響を与えたイーグルスも、カントリー・ロックのバンドです。ただし、イーグルスの立ち位置は少し気の毒です。

 ルーツ・ロックとしても、カントリー・ロックとしても登場が遅く、ほかのバンドがいろいろと打ち出してしまった後のバンドとして評価されました。このため、テーマ性の不在が彼らの特徴となってしまいます。歌詞には、「時代の主人公になれなかった僕たち」が裏テーマのニヒルな表現が随所に見られます。

 イーグルスの最高峰は、1976年に発表した『ホテル・カリフォルニア(Hotel California)』です。カントリー・ロックの音楽的拡張は先達がすでにやり尽くしてしまったため、自分たちには動機がない──。それを逆説的に表現したことで、このアルバムは高い評価を得ました。

 表題曲の歌詞では、バーでお酒(Wine)を頼もうとしたけれど、店員からは「1969年から“蒸留酒(Spirit)”は置いていない」と言われたという内容で、「1969年からロックには“魂”がなくなった」とダブルミーニングでたくみに表現しています。

 私も長年疑問をもっているのですが、日本では大変な人気があるけれど、欧米の評論筋によっては評価がされにくいバンドがあります。イギリスのクイーンもその一つといえるでしょう。

 ブライアン・メイのギターの音は新鮮で、初期のアルバムにはわざわざ「シンセサイザーは使っていません」と注意書きを入れているくらい、新しいサウンドを提示しています。しかし、デビュー当初、評論家からはレッド・ツェッペリンの“パクリ”と評されました。

 1975年には、目まぐるしく変わる曲調と、多重録音による重厚なコーラスを用いたオペラのような楽曲「ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)」を発表し、そうした評論の風潮を見返しています。

 イーグルスもクイーンも素晴らしいバンドですが、同時代のムーヴメントとの関連性が薄く、ポップス史での位置づけが難しいといえます。

ショーアップされたロック

 1970年代初めのイギリスでは、ロックのきらびやかな要素をより耽美的にショーアップした「グラムロック」も登場しました。日本のビジュアル系バンドも元をたどるとグラムロックに行きつきます。

 代表的なアーティストとしては、デヴィッド・ボウイ、T・レックス、モット・ザ・フープルが挙げられます。

 デヴィッド・ボウイは、パントマイムも取り入れた演劇性の高い、シアトリカルなショーを展開します。新進気鋭のデザイナーだった山本寛斎の服を気に入り、ステージで彼がデザインした大胆な和洋折衷の衣装を採用。歌舞伎の早着替えも取り入れました。また、バイセクシャルを公言するジェンダーレスな感覚は、メイクを施した中性的な外見やショーとともに新しいものでした。

電子音楽とニューミュージックの源流

 1970年代、当時の西ドイツでは、「クラウトロック」というムーヴメントが起こります。クラウトとは、ドイツ料理にかかせないザワークラウト(キャベツの酢漬け)のこと。このムーヴメントが電子音楽の走りとなります。

 代表的なバンドに、クラフトワーク、カン、タンジェリン・ドリーム、ノイ!が挙げられます。

 クラフトワークは、シンセサイザーを多用し、ドラムのビートも含めてすべてを電子楽器で作る実験的な音楽でした。カンには一時期、日本人のミュージシャン、ダモ鈴木がヴォーカリストとして所属しています。ベルリンに移住したデヴィッド・ボウイが発表した通称“ベルリン三部作”と称されるアルバム3枚も、このムーヴメントに強い影響を受けています。

 クラウトロックも、オルタナティヴ・ロック、ニュー・ウェイヴ、ヒップホップといった多様なジャンルに影響を与えることになります。

 (※注釈)歴史事実を紹介するうえで、公序良俗に反する記述を含みますが、当時のどの出来事も著者は支持していません。

(第9回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!