若者たちが訴えた“ラヴ&ピース”/ みの『戦いの音楽史』
公開日:2022/3/27
ベトナム反戦運動に揺れる1960年代後半のアメリカでは、保守的な社会体制やブルジョア的な文化を否定し、音楽やアート、ファッションなどで自分たちの新たな価値観を表現する若者たちが登場します。「カウンターカルチャー」の発信源となった彼らは、「ヒッピー」と称されるようになります。
若者たちが訴える“ラヴ&ピース”
1960年代半ばになると、若者たちの文化が社会に強く影響を与え始めます。第二次世界大戦後のベビーブームで誕生した子どもたちが、ちょうど成人年齢に達したタイミングだからです。アメリカの総人口の約半数が25歳以下の若者で占められ、若者は社会に対して大きな影響力をもち始めていました。そして、ベトナム反戦運動や公民権運動に共鳴する若者たちを中心に、既存の政治や体制にアンチテーゼを唱える機運が高まっていきます。
“ラヴ&ピース”を提唱し、コミューンと呼ばれる共同体を作り、自然回帰を目指す若者たちは、ヒッピーやフラワー・チルドレンと呼ばれるようになります。
彼らは、当たり前とされてきた社会秩序や価値観を疑い、それに反抗します。すべてのかたちの愛を受け入れ、社会的・経済的な「結婚」のかたちを求めない“フリー・ラヴ”の思想も推し進め、これは現代のLGBTにも受け継がれています。
彼らは音楽やアート、ファッションなどでも自分たちの価値観や考え方を表現し始めます。ヒッピーは、保守的でブルジョア的な文化を否定し、旧来の文化をハイカルチャーとして対峙する「カウンターカルチャー」の発信源となりました。
ヒッピーとLSD
ヒッピーは、精神を解放するとして、マリファナやドラッグとも密接に結びつきます。特に、LSDによる神秘体験や幻覚を基にしたカルチャーは、音楽だけではありません。アートやファッションなど垣根を越えて、サイケデリック・ムーヴメントとして広がります。
LSDは、スイス人化学者アルバート・ホフマンが開発した幻覚剤で、きわめて微量でも幻覚や恍惚状態が起こります。開発当初は精神療法などに利用され、向精神薬の一つでした。
アメリカではティモシー・リアリーがLSDの可能性を訴え、サンフランシスコを中心にヒッピーらのあいだで広まります。当時、リアリーの書籍を売るような店を中心にした、ロック・ミュージシャンや現代美術のアーティストが集まるコミュニティがあって、そこにはオノ・ヨーコもいました。
やがて、LSD服用後に錯乱状態に陥るバッド・トリップによる副作用が知られるようになり、1960年代の末には世界各国で禁止されるようになります。当時の若者たちの多くは、LSDで廃人になったり、ドラッグで命を落としたりするとは思っていなかったでしょう。才能あるミュージシャンも多く命を落としたことは、残念なことです。
グレイトフル・デッドの拡散性
ヒッピーとバンドの関係でいうと、グレイトフル・デッドに触れないわけにはいきません。
彼らはサンフランシスコで結成された、1960年代のヒッピー・カルチャー、サイケデリック・カルチャーを代表するバンドです。彼らの取り巻きの一人が大量のLSDを生産できる工場をもっていて、それをライブに来るお客さんに配ったりもしています。サンフランシスコの一等地にある彼らの豪邸は、誰でも出入り自由でした。
ライブでも、通常であれば違法録音とされる行為を彼らは容認し、良い音質で録音できるよう、わざわざ専用スペースまで設けています。そうして録音した音源をファン同士で共有することも自由にさせていました。
また、ライブのチケット販売を中間業者に委託せず、直接ファンに販売しました。熱心なファンに確実にいきわたるように管理したのです。また、ファンとの直接のコミュニケーションの場としてファンクラブを運営し、会員のデータベース化にも取り組んでいます。
そうしたバンドの姿勢は「デッドヘッズ」と呼ばれる熱狂的なファンを生み、拡散性をもって音楽が伝播していきました。口コミやファン同士のコミュニケーションによって広がっていく様は、現代のSNSによる拡散性に通じた部分があります。
ウッドストック・フェスティバル
1967年の夏、ヒッピーやカウンターカルチャーに共感する人々が、アメリカでは最もリベラルな地域であるサンフランシスコに集結します。サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区はヒッピー発祥の地であり、彼らにとっていわば“聖地”とされていました。この社会現象は「サマー・オブ・ラヴ」と称され、やがて世界各地に広がり、ヒッピーはより大きな影響力をもったムーヴメントに発展します。
その集大成といえるのが、1969年8月にニューヨーク郊外で行われた大規模な野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル」です。ポップス史上最も重要かつ、ヒッピーを中心としたカウンターカルチャーを象徴するイベントとされています。
3日間にわたるイベントには、約40万人の若者たちが集結。予想をはるかに超える集客に、事前に販売されていたチケットは意味をなさなくなり、実質的にはフリー・コンサート化します。ステージには、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、グレイトフル・デッド、スライ&ザ・ファミリー・ストーンら32組のアーティストが上がり、女性初のロックスター、ジャニス・ジョプリンも登場しました。
会場へと続く道は若者たちの車で大渋滞。ミュージシャンも渋滞に巻き込まれ、隣町のモーテルに足止めされます。ステージの進行が遅れたり、雨に見舞われて中断が度重なったりしますが、大きな混乱はなくイベントは成功を収めます。
ウッドストック・フェスティバルの成功を受けて、ローリング・ストーンズもカリフォルニア州のオルタモントで、似たようなフリー・コンサートを企画します。そのコンサートの警備に、ヘルズ・エンジェルスという、今でいうと半グレ集団のようなチームを雇います。彼らに支払われたギャラがビールだったことからも、おそらく当時のコンサートの警備に対する意識は薄かったのでしょう。
このコンサートは準備不足もあって大混乱となり、結果、ヘルズ・エンジェルスの一人が、黒人の若い青年を殺害する事態となりました。この事件は“オルタモントの悲劇”ともいわれ、“ラヴ&ピース”の時代に終わりを告げる象徴的な出来事とされています。
ジミ・ヘンドリックスの実験性
1960年代に登場したミュージシャンについて、もう少し見ていきましょう。
1960年代半ばには、ジミ・ヘンドリックスという、天才ギタリストが現れます。15歳でギターを始め、ロバート・ジョンソンやマディ・ウォーターズ、プレスリーのレコードを聴いて練習しました
1963年に軍を除隊したのちに音楽活動を始め、数々のアーティストのバックミュージシャンとしてレコーディングやライブに参加し、1966年にイギリスに渡ります。ロンドンではジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成。彼のギターは当時のイギリスのミュージシャンやアーティストたちに衝撃を与え、評判を呼びます。ビートルズやローリング・ストーンズのメンバーなどが連日ライブを見にくるほどでした。
それまでのロックバンドでは、ギターはアンサンブルを奏でる一つのパートでしかありませんでした。ヘンドリックスは、ギタリストをバンドの花形としての地位に押し上げるのに大きく貢献します。この頃には、技術の進歩で楽器の音を大きく出せるようになります。アンプとエフェクターといった機材の発展で音を歪ませることができるようになったことも、バンドのサウンドのなかで役割が大きくなるきっかけとなりました。
また、ロックにジャム(即興)の要素が取り入れられていくようになります。こうした傾向はヘンドリックスだけでなく、エリック・クラプトンが結成したクリームにも見られます。ヘンドリックスは、ウッドストック・フェスティバルでアメリカ国歌を演奏し、ベトナム戦争の人々の叫び声や爆撃の音をギター一本で表現しました。この辺りから、ミュージシャンの奏者としての個性や技巧がより注目されていくのです。
(※注釈)歴史事実を紹介するうえで、公序良俗に反する記述を含みますが、当時のどの出来事も著者は支持していません。
(第8回につづく)