しつこいほどお喋りな脳/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人⑥
公開日:2022/3/18
周囲になじめない、気がつけば中心でなく端っこにいる……。そんな“陽のあたらない”場所にしか居られない人たちを又吉直樹が照らし出す。名著『東京百景』以来、8年ぶりとなるエッセイ連載がスタート!
2月の終わりに、ほりぶん第9回公演『かたとき』(脚本・演出 鎌田順也)という演劇の舞台に出演した。役者として舞台に立った経験がほとんどない自分にとっては、本番に至るまでの稽古を含めて刺激の強い毎日だった。
以下の文章は、その稽古に励んでいた時期に書いた。
稽古場までは電車で行くことが多い。昨日は自宅から駅まで歩く途中でPCR検査キットをポストに投函しなければならなかった。初日を控える舞台の劇場に入るために必要なものだ。最近は誰かに手紙を送る習慣がないので近所のポストがどこにあるのか分からない。
おそらくあそこにあったはずだと目星をつけて、わざわざ信号待ちをして反対側の歩道に渡り駅に向かって歩いていくと、あろうことか先程まで自分が歩いていた反対側の歩道に赤いポストが見えた。ポストはちょうど信号と信号の中間地点にあったので、先程の信号まで戻るとなるとかなりの時間が無駄になる。次の信号で反対側に渡ったとしても、やはりポストまで戻ることになるので時間が無駄になるのは同じことだ。
だが、車道を横断することはできない。基本的に信号無視はしないように心掛けているし、その道路に横断歩道があれば遠回りになったとしてもそこを渡るようにしている。
車が少なくて、多くの人が信号無視をしているような状況でも、他の人の邪魔にならないように歩道の隅に避けて静かに立っている。信号を無視する人の邪魔にならない行動を取るというのはマナーが良いのか悪いのかどちらなのだろう?
交通ルールを遵守しなければならないという大前提はあるが、個人的に信号無視をしたくない理由も幾つかある。
まず、柵を乗り越えることが恥ずかしい。私はスマートに柵を跨げるほど足が長くはない。太ももの裏が柵の上にのっていて片足で立っている状態を一秒たりとも作りたくない。そんな不安定な態勢を知らない人に見られたくない。そうなるのが嫌だからといって、カッコよく柵を乗り越えようと試みて足が柵に引っ掛かって転倒し、頭を打って血が流れることを想像したらとても恐ろしい。近くにいる人達に助けられるのも申し訳なさと情けなさがあって嫌だ。
小学生の頃、姉から聞いた話がある。休み時間に少年が彫刻刀で遊んでいたところ手を切ってしまい血がでた。教室にいたクラスメイト達は驚き、「先生―!」と叫んだが当事者の少年は、「やめて、呼ばないで!」と頼んだそうだ。
その話を聞いた時、私は少年の気持ちが理解できるような気がした。彼は先生に怒られるのが嫌だったから、そう叫んだわけではなく、自分の失敗が大きくなり目立ち過ぎることが嫌だったのだ。だからといって血を流しているクラスメイトがいたら教師を呼んで助けを求めるのは適切な行為だから難しい。
自分も同じように感じるだろうけれど、彼のように「やめて、呼ばないで!」と大声で自分の感情を表明することさえもできなかっただろう。
あと、人が見ている状況で信号無視をすることは危険ということもある。
江戸川乱歩の、『赤い部屋』という短編で、交差点でぼんやりと信号待ちをしている人がいて、まだ信号は赤なのにまるで青信号に変わったような動作を取り、そのぼんやりと信号待ちしていた人を事故に合わせるというくだりがあった。
それを読んで以来、自分が信号無視をするということは自分だけの問題とは限らず、他者の命を危険にさらしてしまう可能性もあるのだと認識するようになった。特に子供が同じ信号機で待っているときなどは、怖くて信号無視なんてできない。
そんな私が信号無視をすることがあるとしたらどのような状況なのだろう。幾つか例をあげてみたい。車が一台も走っておらず危険がないという少々無理な設定ではあるが。
久しぶりに再会した恩師と歩いていて、「あの時、おまえにどうしても伝えておかなければならないことがあった。それはな……」というタイミングで恩師が自然に信号を無視した場合。とてもじゃないけれど恩師の話を制止することはできないし、話の続きが知りたくて信号があることすら気付かないかもしれない。
自分の背後に豹がいても信号無視をするだろう。交通ルールは守りたいけれど人生の中で自分が豹に噛まれることがあってはならない。
足元に毒蛇がいた場合はどうか。一匹なら距離を取りつつ青信号に変わるのを待つかもしれない。毒蛇が大量にいたなら、やはり信号を無視して逃げるだろう。
季節外れの蛍が一匹、信号待ちをしている私のまえを浮遊していて、信号という概念がない蛍がそのまま道路を渡ってしまった場合。蛍に見とれている私も赤信号を渡ることになるだろう。信号機の赤などは目に入らず、蛍の優しい光だけを見つめているはずだ。
どう見ても五人組のアイドルだなという集団と私だけが信号を待っている状況で、向かいの道から歓声があがっていたとしても信号を無視する。私が平然とした表情を作ったくらいでは到底六人組には見えないだろうし邪魔になってしまうだろう。
一人で電車に乗っている時はそんなことばかり考えている。
稽古終わりには役者さんたちと一緒に電車で帰ることがある。みんな疲れているので車内ではあまり話さない。数人の役者と一緒に帰っているときに同じ車両に乗っていた乗客の男性が財布から大量の小銭を落としてしまった。ちょうど電車が駅についたときだった。その瞬間、一人の役者さんが男性に駆け寄り一緒に小銭を拾いはじめた。とても優しい。私はすぐに動くことができなかった。ほかの役者さんたちも男性に近づき一緒になって小銭を拾った。それぞれが拾った小銭がまとめられて男性の財布に戻った。
電車のドアが閉まりそうな気配があった。役者さんが、「まだ間に合います!」と男性を励ましながら、彼の背中を支えるようにドアの方へと促した。
すると男性がまさかの一言を放った。
「この駅では降りません!」
役者さんたちは静かに元居た場所へと戻った。演劇を観ているようだった。
姉から聞いた手から血を流した彫刻刀の少年の姿が頭にちらついた。見たことなんてないはずなのに。私が彼になって手から血を流しているような光景。
困っている人がいたら助けるのはとても良いことだ。小銭を落とした人がいれば一緒に拾えばいいし、彫刻刀で怪我をしたクラスメイトがいれば先生を呼ぶべきだろう。
優しい風景があることはとても良いことだ。素直で悪いことなんてなにもない。純真であることは褒められるべきであって責められることではない。と思いたい。
自分のような人間が少し考え過ぎてしまうだけだ。私は無口だが脳がしつこいほどお喋りで、なかなか黙ってくれない。なにも考えたくなくて黙っているのに、脳が勝手にずっと喋っている。無口で喋脳。
「月、落としましたよ」
私が声を掛ける。
「俺のじゃないです」
その人は振り返らずにこたえる。
そっか、月はみんなのもんやもんね。
まだ喋っている。
(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)