感動の名作『星守る犬』の完全版! 読む時間よりも優しさを抱きしめる時間のほうが長い不思議な作品
公開日:2022/3/18
「星守る犬」という慣用句がある。決して手に入らない星を、物欲しげにずっと眺めている犬。すなわち「高望みをしている人」を指すそうだ。
この慣用句がタイトルになった漫画作品、『完全版 星守る犬』(村上たかし/双葉社)がある。表紙には、サングラスをかけたおじさんと、その横を歩く真っ白な大型犬。互いに見つめ合い、愛嬌ある犬の顔が可愛らしい。この1人と1匹が、本作の主人公だ。
300ページ程度のショートストーリーなので、読者によっては、1時間足らずで読み終えるだろう。何が言いたいかというと、たぶん、普段から色々なことを考えている人ほど、そのあとの時間のほうが長いと思う。
この作品を読むと、生き方や、人とのつながり、幸せという儚いものを、改めて考える。短い作品ではあるが、日常生活でふたをした感情を掘り起こすきっかけになるのだ。
サングラスのおじさんには家族がいた。妻と、元気で可愛らしい小学生の娘。つまりサングラスのおじさんは、お父さん。絵に描いたような幸せな家庭を築いていた。あるとき、その娘が1匹の子犬を拾ってきた。つけた名前は、ハッピー。
ハッピーは家族の一員になって、一緒に時を歩んでいく。しかし幸せな名前と裏腹に、家族の形は少しずつ崩れ、娘はグレて、妻は離婚を切り出す。
離婚による財産分与で、マンションを売り払って、住む場所をなくしたお父さんは決断した。ハッピーを連れて車に乗り込み、なけなしのお金を持って、アテのない旅に出る。
1人と1匹の気ままなドライブ。お父さんの故郷である南の方角を目標に、進んでいるのか、迷っているのか、海を眺めながら走り続ける。
道中ではトラブルも巻き起こる。スーパーで万引きする少年を保護したら、寝ている間に財布を盗まれる。さらにハッピーのおしっこが出なくなって緊急手術。財布を盗まれたお父さんは、やむなく手持ちの金目のものを売り払った。
こうして全財産をなくして、ガソリンも尽きて、たどりついたのがキャンプ場。1人と1匹の終点である。ここから先の話は、ちょっとだけ辛い。
あらすじだけを読めば、とても悲しいストーリーだろう。しかし不思議なことに、1人と1匹に悲壮感はない。もちろん、お父さんの寂しそうな描写は何度もある。けれども、家族や仕事から解き放たれ、自由を手にして最後まで気ままに、愛犬を抱きしめるようにして生きる姿は、とても考えさせられる。絶妙なバランス感覚で描かれる人生に、なんだか色々と考えたくなるから不思議だ。
さらに、この1人と1匹の話には続きがある。いや、残した縁というべきか。たとえば、お父さんの財布を盗んで逃げだした少年。恩を仇で返すとはこのことだが、少年にだって事情があった。誰も助けてくれないネグレクト。飢えて死にそうだった。だから彼は盗んだお金で、ある場所に向かう。財布を盗んでまで会いたいと願った人物がいる場所だ。
本作を読むと、人は、誰かとつながって生きていると思う。周囲の人だけじゃない。たとえ出会ったこともない人でも、共鳴するかのように、縁がめぐりめぐって、影響を与え合う。見えないだけで、隣にいる人と、さらにその隣にいる人、輪を描くように、みんながつながって生きているはずだ。
「星守る犬」は、小説版も刊行されている。書き手は原田マハ氏。漫画では表現できない登場人物たちの繊細な心情を、解像度の高い言葉でつむいでいく。
原田マハさんが原作を読み終えたとき、本を閉じてそっと胸で抱いたように、小説版もきっと、読み終えた後に胸で抱きしめるだろう。それはたぶん、本ではなく、本作で描かれる優しさを抱きしめているのではないか。
本稿の冒頭で、星守る犬には「高望みをしている人」という意味があると書いた。なぜこの慣用句を選んだのか気になるところだが、「守る」という言葉には「じっと見続ける」という意味もあるそうだ。
ならば本作のタイトルの意味合いが、ちょっとだけ変わってくる。人は幸せになりたくて、高望みする生き物かもしれない。しかし、じっと見続けなければ、本当の幸せは気づけないものだ。「星守る犬」、実にいいタイトルだ。
文=いのうえゆきひろ