48歳でのトライアウト挑戦。その先にはプロ野球選手復帰、そして監督になるという夢があった/スリルライフ

スポーツ・科学

公開日:2022/3/26

 「変人・宇宙人と呼ばれても気にしない」「「神頼み」なんて絶対しない」他人の目を気にせず、キラキラした瞳でまっすぐ前を見る新庄剛志のカッコよさは、並々ならぬ努力と独自の人生哲学に支えられたものでした。

 『スリルライフ』は、2021年11月に北海道日本ハムファイターズの監督に就任した新庄剛志さんが、監督就任後に刊行した初の書籍です。

 阪神タイガースからMLBに渡ってワールドシリーズ出場やメジャー4番、満塁本塁打など数々の「日本人初」を達成し、帰国後に入団した北海道日本ハムファイターズでのプレーやパフォーマンスも今や伝説となっている新庄さん。監督になるまでのこと、なってからのこと、自分自身についてをすべて本音で語った新庄語録をお楽しみください!

※本作品は新庄剛志著の『スリルライフ』から一部抜粋・編集しました

スリルライフ
『スリルライフ』(新庄剛志/マガジンハウス)

自分だけが信じ続けた「最高の夢」

 50年間生きてきて、うれしさと興奮で記憶が吹き飛んだというのは、はじめての経験だった。プロで初ヒットを打ったときも、メジャーリーグ行きが決まったときも、北海道日本ハムファイターズで日本一になったときも、もちろんものすごくうれしかったけれど、頭のどこかは冷静で、「ヒーローインタビューで何を話そう」とか「どうやって盛り上げよう」とか「この後どこで遊ぼう」とか、違うことを考えている自分がいた。

 でもあの日は違った。

 「一度、お会いできませんか?」

 2021年10月、ファイターズの球団関係者から連絡があった。僕の頭に浮かんだのは、ふたつの可能性だった。ひとつは、来季からの監督の要請。もうひとつは、ファンサービスや選手のモチベーションアップに対するアドバイザーのような役割の要請。すでに10年間チームを率いた栗山英樹監督の退任は発表されていた。

 スポーツメディアでは、次の監督として東京オリンピックで侍ジャパンの監督を務めた球団OB、稲葉篤紀さん(現・球団GM)が有力候補に挙げられ、僕のなかでも「あっちゃん(稲葉GM)になるんだろうな」という思いがあった。

 それでも0.1%くらいは、自分が監督になる可能性がある……いや、やっぱりないかなあ……そんな気持ちで揺れ動いていた時期だった。

監督になるまでのストーリーが見えていた

 バリ島で過ごした13年間、僕はまったく野球から離れていた。ボールを握ることも、プロ野球の試合を観ることもなかった。僕のなかでは、2006年にファイターズで日本一になったことで、野球人生は完結していた。完全燃焼して、思い残すことはなかった……はずだった。

 バリ島での自由気ままな生活は幸せだったし、ずっとこのままでもいいと思っていた。でも2019年、インスタグラムを通してファンとの交流が始まり、野球のアドバイスなどをするようになると、少しずつ自分のなかに変化が現れてきた。「やっぱり野球が好きだな」とか、「自分の持っている野球の知識や経験をなるべくたくさんの人に伝えたいな」とか。そのなかには「もう一度スポットライトを浴びたいな」というものもあった。

 そうだ、もう一度プロ野球選手になるためのトライアウトに挑戦しよう。そう思った瞬間、僕の頭のなかに、選手に復帰して、さらに監督になるまでのストーリーが見えた。

 48歳での無謀とも言われたトライアウト挑戦は、自分が必死になって野球に打ち込む様子を選手たちに見せるという、監督になるための欠かせないプロセスだと思えたのだ。

 ハッキリとした目標があったから、1年間がんばることができた。13年間、ボールすら握ることがなかった体にムチを打ち、がむしゃらに自分を追い込んだ。もともと自分の身体能力には、絶対的な自信があった。他の人には無理でも、自分ならやれるはず。そう信じて、現役時代以上に練習した。

 体は少しずつ目覚め、万全とは言えないまでも、なんとかトライアウトに出て恥ずかしくない状態には持っていけた。現役のときと比べて状態はせいぜい50%程度だったが、トライアウトから開幕までは半年の時間がある。合格して、プロの設備で本格的な練習をすれば、さらに20%から30%は状態を上げる自信があった。若手の倍くらい練習すれば、開幕までにきっと追いつけるはず。そう思っていた。

 そして2020年秋、トライアウトを控えた1週間ほど前にファイターズの関係者から一通のメールが届いた。

 「トライアウトがんばってください。また会える日を楽しみにしています」

 よっしゃー! 内定通知だ! 僕のトライアウト挑戦は、いくつものメディアで報じられていた。それを見たファイターズの人が僕の本気を受け取ってくれたのだ。あとはトライアウトでしっかりと動ける姿を見せれば、プロ野球選手に復帰できる。そう確信した僕は、自信満々でトライアウトに臨み、会心の当たりとは言えないまでもヒットを打つことができた。

 これで合格だろう。そう思った僕は、一塁ベース上で子どもがはしゃぐようなガッツポーズをしてしまっていた。

 しかし2日待っても、3日待っても、ファイターズからの連絡はなかった。連絡を待つ期間は6日間と決めていたが、その日も電話が鳴ることはなかった。期待していただけに、僕はかなり落ち込んだ。あのメールはいったいなんだったんだ? 「また会える日を楽しみにしています」とはどういう意味だったんだ?

 そこで僕は思った。もしかするとあれは、僕には選手ではなく監督として期待しているという意味ではないかと。監督として「また会える」ということを意味していたのではないかと。

 妄想だ、思い込みだと、みんな思うかもしれない。そんなのよくあるただの挨拶だと言う人も多いだろう。

 でも僕は、そのときにそう思った、思ってしまったのだ。

 僕が描いたストーリーとは違ってしまったが、選手復帰を飛ばして、いきなり監督になるのかもしれない。

 僕は、すぐにそのための準備を始めた。有料チャンネルを契約して、それまでまったく見ていなかったプロ野球の試合を見まくった。ファイターズの二軍の本拠地である鎌ケ谷スタジアムにも足を運んだ。二軍の試合を観に行ったのは、もちろん勉強のためではあったが、「僕は、監督になる準備をしています」という球団へのアピールをしていたのだ。

プロ野球を変える、盛り上げる

 可能性は、0.1%くらいだということはわかっていた。侍ジャパンが金メダルを取ったときは、さすがに「やっぱり監督はあっちゃんかな」とも思った。でも完全にゼロではない。きっと世界中で僕だけが、自分が監督になることを信じ、あきらめていなかった。だからこそ、“あの日”がやってきたのだ。

 「来シーズンのファイターズの監督をお願いしたいと思っています」

 その言葉を聞いたとき、頭が真っ白になった。

 「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 そう即答した後のことは、ほとんど覚えていない。うれしさと興奮で脳みそを整理できなくなっていた。

 その後しばらく話をするなかで、球団の方が「ちゃんと聞いていますか?」という表情を浮かべていたのは覚えている。聞いていた。聞いていたけれど、覚えていない。それくらい僕は舞い上がっていた。

 話し合いが終わり、建物を出て、ようやく少し冷静になった。そして脳みそが少しずつ整理され、正常に回り始めた。そして僕は思った。

 「これからプロ野球をどう変えていこう。どうやって盛り上げよう」

 1年間、プランは練ってきた。アイデアは数え切れないほどある。プロ野球が盛り上がれば、日本が盛り上がる。

 コロナ禍でみんなが落ち込んでいるときに、僕が監督になったのはひとつの運命のような気がする。次は、僕がみんなを喜ばせ、興奮させる。そんな新しいストーリーが頭のなかにどんどん浮かんできたのだ。

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