パンクは “ペテン”だったのか?/ みの『戦いの音楽史』
公開日:2022/5/4
第7回で紹介したように、“ラヴ&ピース”のメッセージで1960年代後半を席巻したヒッピー・カルチャーでしたが、一方でまったく別の表現を用いた若者たちも存在しました。サウンドは荒っぽく、技巧よりも精神性を重視した彼らの音楽は、セールスには結びつきませんでしたが、「原始(プロト)パンク」として、のちの「パンク・ロック」の源流となります。
ロックに反抗した「パンク・ロック」
当時、ニューヨークには『CBGB』というライブハウスがあり、出演するには「カバー曲は禁止。全曲オリジナルを演奏すること」というルールがあって、オリジナルであればどんなバンドでも出られました。1973年に開業したこのライブハウスに、才能をもったバンドやミュージシャンが集まり始めます。ラモーンズ、テレヴィジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズ、ブロンディらが毎晩のように演奏していました。
彼らの音楽は「NY(ニューヨーク)パンク」と呼ばれています。後づけでNYパンクと区別されていますが、パンクはロンドンよりも先にニューヨークで盛り上がりを見せ始めていたのです。
女装ファッションやメイクで登場したニューヨーク・ドールズも、のちにパンク・ロックに大きな影響を与える存在として評価されています。
このニューヨーク・ドールズのマネージャーが、イギリスのファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドの恋人マルコム・マクラーレンです。マクラーレンはニューヨーク・ドールズのアイデアをイギリスに持ち帰り、セックス・ピストルズをマネジメントします。
ハードロックもプログレも、曲が長くてよくわからない。高価な機材を使っていて俺たちには手が出ない。楽器もそんなに上手くないし、もっと身近なことをやりたい。1960年代はガレージ・ロックのような素人でもかっこいい音楽があったけれど、どうして今はないんだ?と考えた若者たちが、技巧偏重や商業主義に反発して、等身大の音楽を追求していきます。
ここで「ロックは初めて、ロックに反抗した」というのが現代の一般的な評論です。しかし、これは“策士”マルコム・マクラーレンがセックス・ピストルズを立ち上げた、もっともらしい大義名分といえます。
パンクはニューヨークからロンドンへ
アメリカでは、泥沼化したベトナム戦争や社会政策費の増大により財政が悪化。日本や西欧といった先進工業国の躍進もあって、1971年には一世紀近く続いていた貿易収支の黒字が赤字に転換してしまいます。そこでニクソン大統領がアメリカドルと金との兌換停止、10%の輸入課徴金の導入を発表して、世界に衝撃を与えます。
1973年には、エジプト・シリアと、イスラエルのあいだで第四次中東戦争が起こり、アラブの国々はイスラエル支援を行う国に対して、原油輸出停止や制限の処置を行いました。安価で安定した石油供給を前提に成長を続けてきた先進工業国は、深刻な打撃を受けることになります。ドル=ショックとオイル=ショック、この二つのショックにより、アメリカの経済成長は減速していきます。
一方のイギリスも1970年代半ばに不景気が加速。経済成長率は低下し、失業率は増加していきます。雇用者と労働者の関係の対立も続き、ストライキも断続的に起きて社会が疲弊していました。
パンク・ロックはそのイギリスへと飛び火します。ダムド、クラッシュ、ザ・ジャム、バズコックスといったバンドが現れ、やや遅れてセックス・ピストルズが登場します。
セックス・ピストルズは、先にも述べた通りマルコム・マクラーレンのマネジメントによるバンドです。ヴィヴィアン・ウエストウッドと一緒にロンドンで『SEX』という名のブティックを経営していたマクラーレンは、そこにたむろしていた若者四人を集めてバンドを結成し、1977年にレコード・デビューさせました。
彼らは、アンチ・キリストや無政府主義をうたった、かなり過激な歌詞で保守層から反発を受けますが、イギリス王室を揶揄した曲でチャートの1位を獲得します。しかし、バンド名も曲名も空欄で掲載されました。
実際には、その空欄がセックス・ピストルズと彼らの曲名だと誰もがわかっている──そうしたメディア扇動を含めたスキャンダルが、マクラーレンの策略だったのです。ややペテン師的な打ち手ですが、プロデュース力に長けていたともいえます。今でいう、「炎上商法」といった売り出し方にも通じます。
1978年1月、セックス・ピストルズはアメリカ・ツアーを行いますが、ここでもマクラーレンの企みでトラブルが発生するように、わざと保守的な南部を中心にコンサートを行います。実際に、暴徒に襲われたりするなどでツアーはめちゃくちゃ。そして、メンバーの一人、ジョニー・ロットンは最後となったステージの上で「騙された気分はどうだい?」と言い残してバンドを脱退します。結局、ツアーは中止となりバンドは解散となりました。
果たしてパンクは“ペテン”だったのか
「騙された気分はどうだい?」というロットンの言葉は、多義的で非常に興味深いものがあります。つまり、マクラーレンの操り人形だった自分たちへの自虐、そしてロックの肥大化した商業主義を倒すという大義名分は幻想だったということ。さらにパンク・ロックはペテンだった、という意図まで読み取ることができます。
とはいえ、セックス・ピストルズがロック史をがらりと変えたのは事実です。レコード・デビューから1年、発表したアルバムも1枚という、非常に短い活動期間にもかかわらず彼らの名前が今なお残っています。これは、アルバムのクオリティもさることながら西洋の芸術批評において、コンテクストがいかに大事かということの表れでもあるのです。
パンク・ロックは、アメリカではイギリスほどシーンに影響を与えませんでした。パンク的な視点でアメリカの音楽シーンに切り込むバンドは、1980年代末に登場するカート・コバーン率いるニルヴァーナの登場まで待つことになります。
ハードコアとカレッジ・ラジオ
1979年にセックス・ピストルズが解散し、メンバーでシーンのアイコンだったベーシスト、シド・ヴィシャスがこの世を去ると、パンク・ロックは沈静化します。“旧世代の打倒”という大義名分を失った時点で、パンクは役割を終える存在だったともいえるでしょう。パンクはその後、「ポスト・パンク」や「ニュー・ウェイヴ」といったジャンルへと発展します。
一方、アメリカでは表立ってパンクがヒットしなかったとはいえ、アンダーグラウンドでは好む人たちが一定数いました。そのなかで、パンクをより高速化、より暴力的にした「ハードコア」というジャンルが生まれます。
東海岸、主にワシントンD. C. を中心に展開された彼らの活動は、今のインディーズ活動の源流といえます。たとえば、大手のレコード会社に属さず、自費でアルバムを制作し、ライブのチケットもぎりも自分たちで行うという、DIY精神が特徴です。
主義主張がさまざまなのもこのジャンルの特徴で、たとえばストレート・エッジと呼ばれる人たちは、「僕たちはドラッグをやりません」「結婚するまではセックスはしません」と言って、宣言に沿った内容の曲を書いています。他方で、史上いちばん破滅的なミュージシャンとされる、GGアリンのように「僕はエイズだけれど、ヤリまくります」という極端な主張もありました。
また、放送部的なノリで大学生たちが運営するFMラジオ局「カレッジ・ラジオ」も、1980年代のアメリカの音楽シーンに影響を与えます。
限定的な地域でのみ聴くことができる、こうしたコミュニティ・ラジオでは、地元のライブハウスで人気のあるバンドの曲を積極的に流していました。ラジオのおかげで、アンダーグラウンドで面白い音楽をやっている人たちが、だんだんと注目を浴びるようになるのです。
ハードコアとカレッジ・ラジオの二つによって、インディーズとアンダーグラウンドの音楽は表舞台に出てくるようになります。代表的なバンドには、R. E. M.、ソニック・ユースが挙げられます。そして、商業主義に染まった既存のロックに対して、非商業的でアンダーグラウンド志向のロックを「オルタナティヴ・ロック」と称するようになります。
1980年代のメガヒット型の大量消費の音楽に疲れていた、インテリ系の大学生たちが、カレッジ・ラジオを聴いてオルタナティヴ・ロックを支持するという構図が生まれます。
(第11回につづく)