金メダリスト・堀米雄斗とスケートボードとの出会い/堀米雄斗『いままでとこれから』

スポーツ・科学

更新日:2022/4/10

東京2020オリンピックでスケートボード男子ストリート初代金メダリストとなった、プロスケートボーダーの堀米雄斗。『いままでとこれから』(KADOKAWA)は、ロサンゼルスで撮り下ろした練習風景やプライベート写真に加え、今までの生い立ちからスケートに対する想いを、本人が飾らない言葉で綴ったフォトエッセイ。
スケボーが大好きな下町生まれの少年は、どうやってアメリカでプロスケーターとなり、金メダリストになったのか?

※本稿は『いままでとこれから』(堀米雄斗/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。

いままでとこれから
『いままでとこれから』(堀米雄斗/KADOKAWA)

スケートボードとの出会い

幼少期の記憶

初めてスケボーに触れた記憶……そう言われると、実はあまり覚えていない。2、3歳くらいのときの写真を見て、そういえば身近にあったかもなぁと思い出すくらい。スケーターだったお父さんの話によると、まだ歩けない赤ちゃんのときから、家から徒歩10分の小松川公園(江東区にある大島小松川公園。公園内の一角に、地元のスケーターが集う“SSP”と呼ばれるスポットがあった)に僕を連れて滑りに行っていたという。お母さんと結婚するときにスケボーは辞めると約束していたから、子守という名目で「ちょっと散歩に連れてくわ」と理由をつけ、お父さんが滑りたいがために連れていかれていたらしい。そしてパークでお父さんが滑っているあいだ僕は放置され、そこに集まっているスケーターが誰かしら面倒を見てくれていた。そうやって知らないうちからスケートボードには触れていたみたいだけど、実際にスケボーに乗った記憶があるのは、物心のついた5、6歳のとき。家のベランダにはよくわからない工具やデッキが転がっていて、お父さんと一緒に小松川公園で練習していた記憶がある。

いままでとこれから

6歳でスケボーに乗り始める

最初は足で乗るというよりは、座って乗ったり、寝そべったりして遊んでいるようにスケボーに触れていた。お父さんに連れていかれていた小松川公園にはいつも5~6人のスケーターがいて、その大人たちがスケボーをしている姿を見て、次第に「かっこいいな」と思うようになり、自然に乗り始めた。もちろん最初は上手くいかず、スケーターたちが乗り方を教えてくれて、たくさん転んでやっとプッシュ(前足をデッキに乗せ、後ろ足で地面を蹴って進む基本動作)とオーリー(デッキの後ろ部分を蹴って前方部分を上げ、デッキごとジャンプする基本技)ができるようになった。でも、人前でコケたときはめっちゃ恥ずかしかったな。大人のスケーターたちが、転んだ僕を見てめちゃくちゃ笑うから(笑)。そんな思いをしながら乗れるようになると、スケボーで坂を降りるのが気持ちよくて、歩くより全然楽だなーって感じて、スケボーが楽しくなった。でもそのときは競技としての認識はなく、やっぱりただの遊び道具のひとつだったと思う。

いままでとこれから

バーチカル漬けの日々

小学校1年生のときに舞浜にスケートパークができて、お父さんが滑りたいからよく一緒に行くようになった。そのパークにはプロのスケーターがいて、たくさんの子どももいたけど、子どものなかでも僕は一番下手くそだったらしい。そこで、体幹と空中感覚を鍛えるためと恐怖心克服のためにバーチカル(スノーボードでいうハーフパイプのように半円上のセクション(スケートボードで使用される道具の総称)を使って飛ぶスタイル・競技のこと。バーチやバートとも呼ばれる)ができるパークに連れていかれた。お父さんがすごいと思っていたスケーターたちは、みんなバーチもストリート(街なかにある斜面や階段、手すり、縁石などを使うスケートスタイル・競技のこと)も上手かったから、バーチには何かがあると思っていたからだという。初めてバーチを見たときは、12フィート(約3.7m)くらいの高さがあって、小学生の僕はただ「でかっ!」と思った。とにかくでかいなって。でも「最初からあの上まで行くわけじゃない、下からやっていくから」ってお父さんに言われて、恐怖心はなく始められたけど、エアー(空中に飛び出す技の総称)が最初は全然できなかった。バーチの上から初めて降りたときなんかは、顔から落ちた。冬だったから地面は冷たいし、めちゃくちゃ痛かった。

それからはローカルのスケーターたちがいろいろアドバイスをくれて、たくさん練習した。そしてある日、初めて空中に飛べた。すごく時間はかかったけれど、下から始めて少しずつ高くなっていき、やっと空中に飛べたときはすごく嬉しくて、あの感覚は今でも覚えている。それからはずっとバーチカル漬けの日々。お父さんやパークにいるスケーターに技を教えてもらって、毎日スケボーして、あらゆるトップスケーターの映像を見た。家ではご飯を食べているときもスケボーの映像を見ていて、さすがにお父さんが止めたみたい(覚えてないけれど)。

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コンテストへの出場

お父さんはコンテストに出ないタイプのスケーターだったので、僕には勧めてこなかったけれど、小学校高学年になると通っていたパークのオーナーに促されて、バーチカルの大会に出場するようになった。小5のときに韓国の済州島で行われたバーチカルの世界大会では、ジュニア部門で5位、小6の同じ大会ではジュニア部門ではなく大人のプロスケーターと競って、3位だった。そのときに海外のプロから褒められたけど、1位と2位の人はトップのプロだったからめちゃくちゃ上手くて、レベルが違うなと痛感。だから自分のことを上手だとは全然思わなかった。でも小学校の卒業文集でこの3位という結果について、「よっしゃ~~~~。」と書いていたので、きっと嬉しかったんだとは思う(笑)。小学校低学年の頃は、人と比べて上手いとか下手だとかはあんまり考えてなくて、できない技をできるようになりたい、あの技かっこいいからやってみたいっていう気持ちの方が強かったけれど、大会に出るようになって、出るからには負けたくはないし、1位になりたいと思うようになっていた。

そして実はちょっと前の小4くらいの頃、よく行っていたパーク、アメージングスクエア(現ムラサキパーク東京)でストリートの大会があって、その頃仲良くなったプロスケーターの立本和樹さんに勧められて出場してみたら、見事と言っていいほどボロ負けしたことがあった。それが本当に悔しくて、そこからバーチカルと並行してストリートもやり始めていた。どちらもとにかく上手くなりたいから、学校にはあまり行きたくなかったし、朝が苦手だからいつも遅刻ギリギリ。友達がいたから昼休みにバスケやドッジボールをして楽しんではいたけれど、早く帰ってスケボーがやりたかったし、スケボーしか楽しくなかった。

いままでとこれから

<第2回に続く>