堀米雄斗の「僕の人生には欠かせない人」/堀米雄斗『いままでとこれから』
更新日:2022/4/11
東京2020オリンピックでスケートボード男子ストリート初代金メダリストとなった、プロスケートボーダーの堀米雄斗。『いままでとこれから』(KADOKAWA)は、ロサンゼルスで撮り下ろした練習風景やプライベート写真に加え、今までの生い立ちからスケートに対する想いを、本人が飾らない言葉で綴ったフォトエッセイ。
スケボーが大好きな下町生まれの少年は、どうやってアメリカでプロスケーターとなり、金メダリストになったのか?
※本稿は『いままでとこれから』(堀米雄斗/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。
ストリートへの目覚め
きっかけをくれた立本和樹さん
小学生で一番大きかったできごとは、親から離れたこと。いろんな大会で普段会わないスケーターや海外のプロとも滑るようになってから、なんとなくお父さんから離れて一人で動きたいなと思い始めていた。そんなときに「それだけ滑れるんだったらストリートも本格的にやろうよ」と、パークで声をかけてくれたのが立本和樹さんだった。立本さんはストリートのプロスケーターで、当時ノーリー(デッキの前部分を蹴って後方部分を上げ、ジャンプする技)やスイッチ(いつもとは逆の足を前にして乗ること)をやっている人を初めて見てすごいなと思っていたし、自分が好きなスポンサーがついていたりして、憧れの存在だった。立本さんと仲良くなると、立本さんが撮っていたビデオパート(1人のスケーターの滑りや技を撮影し、編集した映像作品。スケートビデオ、パートとも呼ばれる)を見たり、デモンストレーションやパート撮影で、たくさん地方に連れていってもらったりした。立本さんのブランド〈TUFLEG〉にサポートもしてもらい、高1のときに初めてスケートビデオを出したときは、チームのみんなと全国の試写会に行って、すごくいい経験もさせてもらった。立本さんはストリートに目覚めるきっかけをくれて、スケートの幅を広げてくれた僕の人生に欠かせない人。僕とは23歳差でご飯にもいっぱい連れていってもらったし、いろんな人も紹介してもらって、スケートの先輩として今も感謝している人の一人だ。
早川大輔さんとの出会い
もう一人、同じ頃に出会った早川大輔さんも僕の人生には欠かせない人。僕が親離れしたがっていることを感じ取ったのか、小6のときにお父さんが「紹介したい人がいる」と言って会わせてくれたのが、プロスケーターの早川さんだった。早川さんはあまり街なかを滑ったことがなかった僕を、いろんなスポットに連れていってくれたり、撮影や編集ができる人なのでビデオパートを撮影してくれたりして、立本さんとはまた違うアプローチでストリートの楽しさを教えてくれた。さらに早川さんのボードカンパニー〈HIBRIDskateboards〉にもサポートしてもらったり、後にスポンサーとなってくれる、カリフォルニアのスケートシューズブランド〈DVS〉を紹介してもらったりと、スケートの技術だけでなく夢へと近づく後押しをいっぱいしてくれた。当時は知らなかったけれど、何度も連れていってくれた海外遠征は、早川さんの自腹だったこともあったみたい……。そうやって僕の「アメリカでプロになりたい」という夢を一緒に追ってくれて世話をしてくれた、スケート界の先輩であり、お父さん的存在。そんな早川さんとの思い出で一番印象に残っているのが、中学生のときに一緒にパート撮影をしていたときのこと。僕は遅刻癖があって、撮影に1~2時間遅刻してしまった日に、「こんなことしていたらアメリカに行ったときに信頼もなくすし、やる気なく思われるぞ」って、本気で怒られた。冗談交じりだったと思うけど、お尻も蹴られたなぁ(笑)。それからは、派手な遅刻はしないよう、気をつけるようになった(何回か失敗はしているけど……)。
アメリカでプロになるという夢
立本さんがきっかけをくれて、早川さんのサポートでスケートの世界が広がった小学生時代。街なかでは、どこかで滑れないかってずっとスポットを探して考えながら歩いていたし、いいスポットを見つけたら滑りに行った。スケートのビデオパートを見ていても、バーチをやっていた頃とは少し見方が変わって、トリック(スケートボードの技のこと)だけでなくその人のスタイルも見るようになっていたと思う。小学生の頃から、お父さんに「スケートの本場、アメリカでプロにならないと本当のプロじゃない」ってずっと言われていたので、“アメリカでプロになる”という夢は小学生でもう固まっていた。だから早川さんに初めて会って「将来はどうしたいの?」って聞かれたとき、「アメリカでプロになりたい」と答え、「じゃあプロになって、将来はアメリカにプール付きの家を買おう」と約束したことを覚えている。