高校在学中にアメリカが近づく! そのきっかけとは?/堀米雄斗『いままでとこれから』

スポーツ・科学

公開日:2022/4/12

東京2020オリンピックでスケートボード男子ストリート初代金メダリストとなった、プロスケートボーダーの堀米雄斗。『いままでとこれから』(KADOKAWA)は、ロサンゼルスで撮り下ろした練習風景やプライベート写真に加え、今までの生い立ちからスケートに対する想いを、本人が飾らない言葉で綴ったフォトエッセイ。
スケボーが大好きな下町生まれの少年は、どうやってアメリカでプロスケーターとなり、金メダリストになったのか?

※本稿は『いままでとこれから』(堀米雄斗/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。

いままでとこれから
『いままでとこれから』(堀米雄斗/KADOKAWA)

アメリカへの道筋が見えた高校時代

スケートと学業が両立できる高校へ

高校はスケボーがメインでできて、学業とも両立でき、短期で海外に行くのにも融通が利く学校が良いなと思っていた。中3で進路を決めるときに松本と調べていたら、通信制の聖進学院が目に留まった。授業は月・水・金、朝10時から16時までという情報(当時)を見て、速攻ここに決め、松本と一緒に聖進学院東京校へ進学した。高校1年では、スケボーをやっているという理由からか、松本と一緒にやんちゃな男子が多いクラスに配属された。女子は1人しかいなくて、見た目がヤンキーっぽい感じの男子ばかり。ほとんどが学校に来ていなくて、登校しているクラスメイトの男子に、俺と松本は“オタク”ってすごくいじられていた。勉強が嫌いだったから高校生活自体は楽しくなくて、憂鬱な3年間だった(笑)。学校がない日は朝からずっと松本と滑って、夕飯は家に帰らずスケート仲間とファストフードを食べて過ごし、とにかくスケート仲間とずっと一緒。学校がある日はスケボーを抱えて授業を受け、午後はそのままパークへ。入学するときに「路上でスケートボードに乗らない」という約束をしていたので、卒業までは路上では乗らないように気をつけ、3年間約束を守った。スケボーのために選んだ高校だったので、たくさんスケボーをすることができてよかったけど、お父さんは入学のときに学費のために借金をしてくれた。でもその借金は後に、大会で勝った賞金で返すことができた。

いままでとこれから

日本の大会で上位になる

高1のとき、ロサンゼルス郊外で行われる「DAMN AM」(アメリカ・フロリダ州タンパにある老舗スケートパークショップ「Skatepark of Tampa」が主催する、トッププロへの登竜門的なコンテストの「TAMPA AM」への出場権を得ることができる、世界規模のアマチュアコンテスト。年に数回開催される)に出場するために、早川さんが大会に出場できるか問い合わせをしてくれた。すると最初は「ユウト? 誰?」というような反応だったみたいで、僕の映像を送ってみたら「OMG !」とすぐに返信が来て、無事出場権を得ることができた。早川さんと2人でアメリカに行き、結果は予選落ちだったけど、ちょっと長めに滞在していろんなスケートパークに遊びに行った。そしてVOLCOMスケートパークで、たまたまナイジャ・ヒューストン(アメリカを代表する世界最高峰のプロスケーター。5歳からスケートボードを始め、7歳の頃には世界的なスケボーブランドからサポートを受けていた天才スケーター。東京オリンピックではアメリカ代表として男子ストリートに出場した)に会った。スーパースターに会えて嬉しかったので、一緒に写真を撮ってもらい、いろいろな技をナイジャに見せてアピールした。このパークで会った3年後には、数々の大会で戦う相手になるけれど、このときはまったくそんなことは思ってもいなかったので、今振り返るととても不思議な感じがする。

高1では、ほかにも嬉しいことがたくさんあった。まずはカリフォルニア発のスケートシューズブランド、〈DVS〉がスポンサーになってくれた(当時)こと。海外のスポンサーがついたことで、海外への遠征をサポートしてくれるようになった。また『TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN』というスケート雑誌で、誌上初となるバーチカルの写真でカバーに選ばれ、AJSAのプロツアーでは初優勝することができた。年間ランキングも1位になり、グランドチャンピオンにも選ばれた。こうして日本では少し名前が知られるようになってきたけど、リベンジをして出場権を得た冬の「TAMPA AM」(「DAMN AM」で出場権を得たスケーターが出場する、世界最高峰のアマチュアコンテスト)では、予選落ちをして全然結果を残せなかった。日本では勝てるようになっても、本場のアメリカはレベルが違う。新しいトリックを常に見せないと目立てないし、このままでは勝てないと痛感した。オリジナリティある技を確実に決める。そんなスキルが必要だと思い、それからは“1大会ごとにひとつ新しい技を作る”というルールを自分で決めて、必死に練習した。

いままでとこれから

短期のアメリカ留学

高校2年の夏に、日本で「WILD IN THE PARKS」(〈VOLCOM〉がアメリカ各州をはじめ、世界各地で毎年開催しているコンテスト)という大会があり、そこで勝ってアメリカの本大会へ行くことになった(本戦の結果は2位と嬉しい結果)。ただこの大会のためだけにアメリカに行くのはもったいないので、学校を休んで短期のアメリカ留学をすることにした。そこで早川さんに勧められて、現地に住んでいることをInstagramで知っていた、フィルマー(スケーターの映像を専門に撮るカメラマンのこと)の鷲見知彦さんにDMで連絡を取った。「アメリカでスケボーをしたいので、しばらくの間、泊めてもらえませんか」。鷲見さんとは面識はなかったけれど快くOKしてくれて、大会が終わった後、1ヶ月ほど住まわせてもらうことになった。鷲見さんはミッキー・パパ(アメリカ在住、カナダ出身のプロスケーター。東京オリンピックではカナダ代表として男子ストリートに出場した)など何人かのスケーターと一緒に住んでいて、そこで初めてミッキーがパートの撮影をしている様子を見て、技のレベルの高さに衝撃を受けた。アメリカの有名スポットに連れていってもらったけれど、昔からあるスポットは数々のスケーターが滑っていて、誰かがやった技を決めても注目はされない。だから誰もやっていない技をやらないといけないし、映像を見たときはわからなかったけれど、「こんなに状態の悪い路面や高いレールで、みんなパートを撮っていたんだ」と驚いた。そのとき日本で考えていた難易度の高い技があったのでやってみたら、ミッキーも「見たことないトリックだ!」と驚いてくれて、アメリカのデッキカンパニー〈Blind Skateboards〉のチームマネージャーに僕のことを推してくれた。そしてそのことがきっかけで、翌年〈Blind Skateboards〉と契約することとなる。この短期留学では、本場のパート撮影について知ることができたし、当時はついていなかったデッキカンパニーと契約できる足がかりにもなり、初めて自分でご飯を作って“アメリカ生活”を疑似体験できた期間だった。白菜ともやしとスパムと豆腐を入れた野菜炒めと、ゴーヤチャンプルーをめちゃくちゃ作ったのはいい思い出だ。

いままでとこれから

アメリカに近づくできごとが繫がる

高2のときの短期留学がきっかけで、高3で〈Blind Skateboards〉と契約することができた。デッキカンパニーはスケーターにとってはファミリーで、ウィール(スケートボードの車輪のこと)やベアリング(ウィールの回転軸に取り付けるパーツのこと)のメーカーと繫いでくれるし、自分のことをプロモートしてくれる存在。そんなデッキカンパニーのスポンサーがついた(当時)ことで、アメリカで頼れる味方ができたので、このときには高校を卒業したらアメリカに行くことを決意した。また〈Blind Skateboards〉のチームマネージャー、ビル・ウェイスという人に出会えたことも、今振り返ると大きな転機になった。ビルが「The Berrics(ベリックス)」(伝説的なプロスケーター、エリック・コストンとスティーブ・ベラにより、2007年に立ち上げられたロサンゼルス発のスケートボードWEBメディア兼、スケートパークの名称。世界で最も有名なスケートパークでもある。世界最高峰プロスケーターたちが集結するスケートゲーム「Battle at the Berrics」も主催している)というスケートメディアに働きかけてくれたことで、鷲見さんと撮ったパートもベリックスから発表することができ、これから来そうなスケーターを紹介するニューカマー企画では、ザイオン・ライト(アメリカ・フロリダ州出身のトッププロスケーター。東京オリンピックではアメリカ代表として男子パークに出場した)やダショーン・ジョーダン(アメリカのプロスケーター。堀米と2018年から同居を始める)とともに僕も一緒に紹介してもらったりもした。さらに〈NIKE〉に携わっている人も紹介してくれて、〈Nike SB〉からスニーカーをサポートしてもらえるようになったのもこの頃。それで〈NIKE〉チームのマネージャーを務めていた、マイク・シンクレアと旅行に行った際にスケートスタイルを気に入ってもらえて、同年の夏には〈Nike SB〉と契約。11月の「TAMPA AM」前に、アマチュアスケーター数名と、さまざまな場所でクルージングするツアーに連れていってもらった。そこではご飯や宿代などを〈NIKE〉の人が払ってくれて、すごく驚いた。アマチュアなのでいままでは自分で払うことがほとんどだったけど、お金もサポートしてくれて嬉しかったし、このときからなぜか毎回、ツアーのご飯時には僕の誕生日ケーキが出てくることがお決まりになって、毎晩ケーキを食べた。この謎のネタが、後々自分のファーストデッキの絵柄となるなんて、思ってもいなかったな(笑)。そして「TAMPA AM」では4位入賞し、高校の最後の頃には、アメリカで活動して、大会で上位に入賞できるようになった。

<第5回に続く>