理解できない難解な言葉についての実験/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人⑦
公開日:2022/4/17
周囲になじめない、気がつけば中心でなく端っこにいる……。そんな“陽のあたらない”場所にしか居られない人たちを又吉直樹が照らし出す。名著『東京百景』以来、8年ぶりとなるエッセイ連載がスタート!
友達の別れ際の挨拶、恩師の助言、恋人の意味深な言葉。
まったく意味は分からないが、とりあえず分かったフリをしなければならないときがある。
それとは反対に時間を稼ぎたいときに自分でも理解できない意味不明な言葉を放ち、相手に言葉の意味を考えさせて有耶無耶にするときもある。
ただし、その場合「結局どういう意味なの?」と聞かれるまでに自分自身が解答に辿り着いておく必要がある。そんな状況に追い込まれたときに備えて訓練しておきたい。
まず深い意味がありそうで、実はなんの意味も無い言葉を適当に考える。
その後で、無理やり意味を考えるという練習をやってみたい。
「象の鼻と目を合わすな」
「満月を褒めるなら雨の日を待て」
「ニンジン? キュウリじゃなくって?」
「祖母の爪を風呂に入れるな」
「高級ワインのコルクになるな」
「泥に落としたしゃもじを投げる」
「指で踊ってはいけない」
「裏切りはルンバ」
「千人武者の間接キッス」
「ソファベッドにバスキアの靴」
ここから無理やりではあるが解釈を展開する。
「象の鼻と目を合わすな」
対象の大きな特徴に捉われ過ぎると全体を見失ってしまう。普段なら簡単に処理できることもできなくなる。例えば、盗みは駄目だと理解しているはずなのに、その人が尊敬する人だったりすると「なにか意味があってのことなのでは?」と考えてしまうことがあるが、それは象の鼻と目を合わせてしまっている状態に過ぎない。
「満月を褒めるなら雨の日を待て」
満月が美しいと思ったなら、そのときは多くを語らずに満月を眺めることに集中するべきである。時間が経ち、月が見えない雨の日に「このあいだの満月は良かった」と振り返ればいい。「実家を出てから親に感謝しても遅いよね」と後悔する娘に、母が「満月を褒めるなら雨の日を待て、って言うからね。そのときは何も考えずに楽しく過ごしてればいいんだよ」などと使う。
「ニンジン? キュウリじゃなくって?」
ぶら下げられたニンジンで走るのは馬。一方でキュウリに誘われるのは河童。なにかトラブルが起きたとき、馬のように衝動的に走りだすのではなく、河童のように深く潜って待てという意味。
「祖母の爪を風呂に入れるな」
祖母が浴槽にゆっくり浸かっているときでも、油断して目を離してはいけない。爪が柔らかくならない程度に時間を見て声を掛けた方がいい。田舎で過ごす祖母はいつまでも優しい笑顔のまま存在してくれるわけでは無いので、たまに連絡を取ろうと呼びかける言葉。
「高級ワインのコルクになるな」
高値で取り引きされたり、一流店で提供される高級ワイン。そのコルクにはワインの匂いが染み込んでいるためコルクまで高級であるかのような錯覚に陥ることがあるが、あくまでも高級なのはワインでしかないので、自分がコルクであることを忘れてはならない。天才みたいな人の近くで遊び過ぎて感覚がマヒした知り合いに教えてあげたい。
「泥に落としたしゃもじを投げる」
自分の生活に必要なお米。それをすくうしゃもじ。しかし、泥に落ちればその汚さも武器になり得る。先入観に囚われることなく、その場にある素材を最大限有効に使わなければならないという意。
「指で踊ってはいけない」
指で踊ると、その様子を自分の目で見てしまう。目視することで脳に指令を送り、意図的に指に指示を送ってしまう。それが踊るということでは無く、自分自身が踊っていることを体と心で感じることこそが踊ることなのだという教訓。
「裏切りはルンバ」
裏切りは自動的に世界中で繰り返されていて、隅々まで余念がないのだから驚いてはいけないということ。
「千人武者の間接キッス」
多くの武者が集まって戦が繰り広げられる戦場は、彼等にしか分からない恐怖と興奮がある。敵同士であっても、家族や恋人とは共有できない重要ななにかを互いに交換し合う。それはもはや一つの盃をみんなで回し飲みしていることと等しい。敵対する間柄だが環境が似ている者にしか分からないことがあるということ。
「ソファベッドにバスキアの靴」
ソファベッドに横になってもバスキアの感性や不良性が休まるわけでは無い。彼が何年も街を歩いたことで、汚れたりすり減ったりした靴がそれを物語っている。その反対の言葉なのか「ソファベッドにウォーホルのパジャマ」というのもある。
本日は以上です。東京は雨がやんで月が出ているので、月馬車に百万氷鬼です。
(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)