『極夜行』の著者・角幡唯介が導き出した、社会システムからの究極の逸脱!「漂泊」とはいったい何なのか?
公開日:2022/5/6
ノンフィクション作家で探検家の角幡唯介氏は、前著『狩りの思考法』(清水弘文堂書房)で、極北の世界に生きるイヌイットの文化と習慣から、未来を常に予期しリスクを排除する現代の社会システムの世界観を否定する言葉「ナルホイヤ」と出会う。
以前から社会システムからの逸脱を口にしていた角幡氏は、目的を設定し到達を至上とする行為とは対極の行為に魅了されていく。それが「漂泊」であった。
その様子は、最新刊『狩りと漂泊』(集英社)で綴られる。
「漂泊」とは、天候や自然環境といった外的要因に導かれながら流浪する行為だ。角幡氏は事前情報もなく北海道日高山脈に地図無しで入り「漂泊」に魅せられる。自身にとって完全に未知と化した山で感じたのは、逃げ出したいほどの恐怖と威圧感、そして純粋な状態で浮かび上がった〈裸の山〉であった。
しかし角幡氏は同時にそこには純粋な自由があることを知る。自分を縛るものはなにも存在せず、自分と山の対峙しかそこにはなかったからだ。
そして極北のグリーンランドで犬一頭とともに徒歩での「漂泊」の旅に出る。
角幡氏の漂泊行為へのこだわりは、未来予測が当たり前になっている現代人の志向と目標到達至上主義という直線的な行動へのアンチテーゼが強く現れている。
とくに興味深いのが時間の概念である。目的到達を至上とする旅は、計画を立てることで必要な時間が決定する。そして時間の消化と行程の進捗を見ながら、目的地までの残りのスケジュールと現在地が判明する。いわば計画から時間的、空間的な引き算がされていく。しかし狩りをしながらの「漂泊」は、狩りが成功し食料が手に入ることで旅の行程が加算されていく。時間は消化されるのではなく増えていくのだ。
また、2つの行為における“見え方”も対極だ。目的地到達が至上である場合、重要なのは目的到達の「未来」であり、到達の途中である「今」は重要ではなくなる。しかし「漂泊」でもっとも重要なのは「今」なのである。それには「狩り」という行為が大きく関わってくる。
「狩り」によってグリーンランドの漂泊で土地と人間との真の姿に角幡氏は気付く。経験によって自身が持つ観念の大転換が起こり、それまでの土地の風貌はがらりと変わってしまう。この角幡氏の覚醒までの物語はとてもドラマチックだ。
これらの言葉は極地を旅する探検家の特別なもののように感じてしまうが、そこに距離をおいてはいけない。例えば、行楽でカーナビ頼りに目的地に向かう行為や、もう何年も通勤している道なのに初めて存在に気付く飲食店など、角幡氏の思索の面白さは常に読者の身近なものに通じているように思える。
前作の漆黒の闇が続く「極夜」とは違って、今回はずっと太陽が頭上に居座り続けている「白夜」であった。しかし結果として極夜行を遥かに上回る苦しい旅となった本書は、極限状況の中、漂泊という「今」を見続ける行為によって絞りだされた、人間が生きる土地の本当の姿を、読者の目に映しだしてくれる。
そして、見知らぬ場所を知り、移動の範囲を押し広げることの根源的な喜びに読者は気付くだろう。
文=すずきたけし