日本人宇宙飛行士誕生は、江戸時代後期に宇宙論を唱えた3人の天才の功績があったからなのかもしれない
更新日:2022/4/29
何人もの日本人宇宙飛行士が誕生し、子どもたちの希望となっている。しかし、日本で文明開化が起きて欧米から天文学が本格的に取り入れられるようになったのは、それほど昔のことではない。実は、日本の天文学の息吹は江戸時代後期に起こっていた、という論があるのだ。
『江戸の宇宙論(集英社新書)』(池内了/集英社)によると、長い江戸時代の中でも、1780~1820年のほんの短い期間に、江戸時代の人々は西洋から天文学・宇宙論を学び、コペルニクスの地動説からの250年間の遅れを取り戻しただけでなく、無限宇宙論の描像においても世界の第一線に躍り出ることに成功した。その立役者は、本書が紹介する絵師の司馬江漢(しば・こうかん)、通詞(公式通訳者)の志筑忠雄(しづき・ただお)、番頭の山片蟠桃(やまがた・ばんとう)の3人だ。本書は、この3人の人物や成果、独自の宇宙論などを掘り下げて紹介している。
本稿では、3人の功績を本書からごく端的にご紹介したい。
3人の中で最初に登場するのは、司馬江漢だ。
本書によると、1790年から、蘭学を学んだ長崎通詞が先導した西洋天文学の文献を翻訳する仕事が結実し、天文学の新知識が普及しつつあった。稀代の絵師として歴史に名を残すことになる司馬江漢は、地動説の影響を受けた本の写本に魅せられ、自ら開発したエッチングの腕を活かして『地球図』(1793年)、『天球図』(1796年)を披露するだけでなく、日本人として地動説と宇宙論を人々に最初に唱道した著書『和蘭天説』(1796年)、『和蘭通舶』『刻白爾(コッペル)天文図解』(1809年)などによって、江戸時代の人々へ啓蒙していった。また、本人は「芥子粒が点々と散らばる宇宙」「荒野に馬があちこちに散策しているような宇宙」といった宇宙像を想像し、江戸の人々の宇宙論を刺激していった。
司馬江漢より13年遅れ1760年に生まれた志筑忠雄は、先述した長崎通詞の仕事に就き、西洋の天文学・物理学入門の文献を『暦象新書』として翻訳し(上編1798年、中編1800年、下編1802年)、ニュートン力学を日本に最初に紹介した。同じく西洋天文学に通ずる者として、司馬江漢の影響を受けていたのかもしれない。著者は、志筑忠雄が『暦象新書』において、「太陽系という小宇宙における地動説から広大な宇宙空間に星が点々と散らばっているとする無限宇宙モデルまで、最新の宇宙像を紹介している」と説明し、何よりニュートン力学に基づいた科学的思考によって提起されたものであることを評価している。「重力」「遠心力」「真空」など、現在でも残る数多の用語を生み出した功績も評価されている。
最後に登場する山片蟠桃は、大坂で大名貸しを営む升屋の番頭であった、と本書は紹介している。西洋天文学とは関わりのない仕事ではあったが、蟠桃は志筑忠雄による『暦象新書』の写本を読み込み、無限宇宙に思いを馳せたという。蟠桃は、江漢や忠雄とは違った、独自の宇宙論を展開した。それは、宇宙の至るところに人間が存在するというもので、現代の最新の宇宙論と比較しても遜色がない、と本書は評価している。蟠桃の論を著者は現代の言葉で次のように訳し、紹介している。
「惑星上において、土・湿気(水)、日光が揃えば水と火(熱)で(原子や分子が)反応して万物(塩基やDNA)が生じ、それが草木・虫・魚貝・禽獣と、次々と複雑な生物へと進化してきたのである。こう考えれば人民(人間)は必然的に生まれ、宇宙には人間がありふれて存在している」
著者は、この3人が天文・宇宙とは縁のない仕事をしながら、地動説や無限宇宙論に夢中になった、江戸時代の文化の深さに驚嘆している。
仕事や専門ではない物事に興味・関心をもち、熱心に学び、人々に伝えたいという思いが、後世の日本で宇宙飛行士誕生の下地を築く一因となったであろうことは、私たちに学びの可能性と大切さを教えてくれているように感じる。
文=ルートつつみ
(@root223)