アカデミー賞でも話題になった映画『ドライブ・マイ・カー』と、村上春樹の原作短編。より深く楽しむには、読んでから観るべきか、観てから読むべきか
公開日:2022/4/26
去る3月27日に発表された今年のアカデミー賞。中でも熱い注目を集めたのは、計4部門にノミネートされた日本映画『ドライブ・マイ・カー』の受賞結果ではないでしょうか。最終的な受賞数は1部門(国際長編映画賞)に終わったものの、「ひょっとして、邦画がついにアカデミー作品賞の頂点に⁉⁉」と期待に胸を膨らませ、ドキドキしながら授賞式の生中継を見守った方も多かったのでは。
ここで基本データをおさらいしておくと、映画『ドライブ・マイ・カー』の原作は、村上春樹氏の同名の短編小説(短編集『女のいない男たち』収録、文春文庫)。監督は濱口竜介(『寝ても覚めても』『ハッピーアワー』)。映画用の脚色に当たっては、同じ短編集から、さらにもう2編の短編(『シェエラザード』と『木野』)の要素も組み込まれ、濱口本人と大江崇允の両氏が「共同脚本」としてクレジットされています。
と、シンプルな情報だけ聞くと、よくある「普通の映画化作品」を想像する人がほとんどだろう。でも、実際に映画本編を観るとすぐ気づくのだけど、実は、映画『ドライブ・マイ・カー』と短編小説『ドライブ・マイ・カー』の物語は、まったくの「別物」――正確に言うと、確かに一部の設定は“生かされて”いる。でも、上映時間が3時間を超える大作映画『ドライブ・マイ・カー』が語るのはもっとずっと「大きな枠組み」の物語で、その中にあって、小説『ドライブ・マイ・カー』の要素が占める割合は、「ほんの一部」だったりするのです。
では、ここからは(ネタバレになりすぎない程度に)あらすじを紹介しながら、具体的に両者の関係を整理してみましょう。
まずは、村上春樹氏の短編小説『ドライブ・マイ・カー』。物語は、主人公の「家福」と、専属運転手として雇われた若い女性ドライバー「渡利みさき」という、年齢も境遇もかけ離れたふたりの交流を軸に描かれていく。家福の職業は俳優だが、女優である妻が急逝したため、現在は独身(=小説タイトルの“女のいない男”)。その妻が亡くなる以前、家福は、彼女が複数の若い俳優たちと浮気していたことに気づいており、その理由は何だったのか、今なお思いをめぐらせ続けている……というのが基本設定。
一方で、映画『ドライブ・マイ・カー』のメインのプロットは、2年前に妻を亡くした「家福悠介(西島秀俊。ここでは“俳優+演出家”という設定)」が広島で開催される国際演劇祭へ参加することになり、チェーホフの舞台劇『ワーニャ伯父さん』の演出準備に取りかかる……というもの。しかも、この劇はアジア各国から集まったキャストがそれぞれの言語で自分の台詞を担当するというユニークな演出法になっていて、その過程で描かれる「グローバルな創造交流の可能性」は、本映画の重要なテーマのひとつにして、白熱の見どころシーンにもなっています。
また、序章パートでは悠介の妻の「音(霧島れいか)」が生きていた時代の東京での生活も描かれ、クライマックスではさらに大きな舞台転換(と感動のフィナーレ)も待ち受けているものの、そのいずれもやはり、小説『ドライブ・マイ・カー』にはないオリジナル・ストーリーになっているーー言い換えると、映画『ドライブ・マイ・カー』は、原作の力に寄りかかった作品ではなく、むしろ、濱口監督が「独自のビジョン」を全編で大胆に描き切ったからこそ生まれた傑作だったわけです。
ただ、だからと言って、映画『ドライブ・マイ・カー』の中に原作小説の存在感が一切ないかというと、そんなことはない。公式パンフレットのインタビューなどの中で、濱口監督は原作の短編集を読んだときに特に興味深く感じた点として、「“声”について真実と思えることが書いてあった」と振り返っています。確かに、映画『ドライブ・マイ・カー』は、極上の「会話劇」です。と同時に、伝えられなかった言葉=「内なる声」についての悔恨と赦しの物語でもあり、それはまた、短編小説集『女のいない男たち』全編のテーマとも見事に呼応し合っています。
有名な原作小説の映画化では、「観てから読む? それとも、読んでから観る?」という話題によくなりますが、その点、本作の場合、①まずは短編小説『ドライブ・マイ・カー』を読む、②そこから映画『ドライブ・マイ・カー』を観る、③また原作に戻って、今度は短編集『女のいない男たち』を丸々一冊、通して読む……という順序が一番のおススメ。そうすることで、原作小説と映画をめぐる「幸福な信頼関係」を、より多角的なアングルからじっくり堪能できるのではないでしょうか。
文=内瀬戸久司