家康が1年早く死んでいたら…伊能忠敬の遅咲き人生…。しぶとく生き歴史に名を刻んだ、偉人たちの痛快エピソード『くそじじいとくそばばあの日本史』

文芸・カルチャー

更新日:2022/4/28

くそじじいとくそばばあの日本史 長生きは成功のもと
くそじじいとくそばばあの日本史 長生きは成功のもと』(大塚ひかり/ポプラ社)

 歴史に名を残す人物というと、薄命であるイメージがあるが、一概にそうとはいえないらしい。しぶとく生き抜いたことで成功を掴み取った歴史上の人物は意外と少なくないようだ。

くそじじいとくそばばあの日本史 長生きは成功のもと』(大塚ひかり/ポプラ社)は、超高齢社会を生きる私たちに元気を与える痛快日本史エッセイ。徳川家康、卑弥呼、藤原定家…。時に小ずるく、時に「老い」を口実にしながら、したたかに生き抜いた、歴史上の人物たちの生き様は、知れば知るほど面白い。本書の中から知られざるエピソードをほんの少しご紹介するとしよう。

・家康があと1年早く死んでいたら徳川政権はなかった

 政治の世界では、少しでも長く生きたほうが、権力を手にする可能性が高い。たとえば、徳川家康がその代表例といえるだろう。家康は、59歳の時、1600年の関ヶ原の戦いで勝利し、権力を手にした。だが、当時、西日本では、豊臣家の秀頼が未だ圧倒的な存在感を誇っていたらしい。

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 1611年、京都の二条城で秀頼が家康と対面した際は、京都中の男女が城の広庭に集まって、秀頼を拝して涙し、声を上げて泣いたとさえ伝えられている。この時、秀頼は19歳、家康は70歳。もし、家康が死んでしまったら、豊臣系の大名たちは、家康の子・秀忠よりも、秀頼との主従関係をより強めていくだろう。

 大塚氏によれば、そんな家康の危機感が、豊臣氏を滅亡させた「大坂冬の陣」の契機となったのではないかという。「大坂夏の陣」が起きたのは1615年4月。家康が死んだのは、その翌年の1616年4月。徳川家康があと1年早く死んでいたら、秀吉がもう少し長く生きていたら、徳川幕府は成立しなかったに違いない。諸国の名医を登用し、時には自分で薬を調合するほどの健康オタクだったという家康。その長寿に向けた努力が、徳川家の繁栄につながったのだろう。

・本格始動は60代後半以後…陰陽師・安倍晴明は長生きしたからこそ活躍できた

 陰陽師として知られる安倍晴明といえば、後世のさまざまな作品の影響で、「クールなイケメン」をイメージしてしまうに違いない。だが、実は、彼の活動の中心は60代後半以降、一番活躍していたのは80代だったというから驚かされる。晴明は、藤原実資や藤原道長といった30も40も年下の大貴族のブレーンとして力を伸ばしていった。超能力者的エピソードは、平安後期以降に作られたもので、現実の晴明は、膨大なデータや知識をもとに自然現象を分析し、大きなイベントを行う際、危険を回避し成功に導くように段取りするコンサルタントといった役割を担っていたようだ。敵の多い権力者に重用されたのは、豊富な経験と信頼感に満ちた高齢者だったということが一因としてあるに違いない。

 著者・大塚ひかり氏によれば、もし晴明が早死していたら、この人物ぐらいの陰陽師はざらにいたのだから、伝説化されることはなかったとさえ言われているのだという。安倍晴明は長生きしたからこそ、歴史に名を刻むことに成功した人物と言えるだろう。

・伊能忠敬の遅咲き人生……隠居後、諸国巡りで地図作りの大仕事

 伊能忠敬といえば、日本全国を歩いて回って計測し、初めて日本地図を完成させたことで有名だが、彼が実際に測量に出かけるようになったのは56歳の時のこと。そこから、71歳になるまで、足かけ16年かけて、全国で測量を行った。忠敬は若い頃から天文暦学に興味を持っており、隠居後、51歳の時に、幕府の天文方をつとめる19歳も年下の高橋至時に弟子入りした。今で言えば、定年後、留学するようなものだろうか。もしその前に死んでいたら、天文暦学を学ぶことができないのはもちろん、日本地図も作ることができなかったのだから、伊能忠敬の活躍は長生きだからこそありえたもの。伊能忠敬の晩年の活躍は、長く生きることの大切さを感じさせる。

 この本を読んでいると、年を取ることにマイナスのイメージを抱いている人も「長生きするのも決して悪くはない」と思えてくるのではないだろうか。あなたも、偉人たちに学んで、長寿を、そして、大器晩成を目指してみてはどうだろう。長生きすればそれだけチャンスは増えるもの。「年を取ったら何もできない」と悲観的になる必要はないのだ。

文=アサトーミナミ

※年齢は数え年で記載しています。