“おらんことにされている人”を、「いてますよ、ここに」って僕はやりたい。 又吉直樹が文庫『人間』に込めた思い(前編)

文芸・カルチャー

更新日:2022/5/16

又吉直樹

 又吉直樹にとって初長編小説『人間』が文庫化された。『火花』『劇場』に続くこの作品は、語り手である永山の、高校卒業後に上京してきた年の出来事とそれから約20年後を描くことで人間の核心に迫る力作だ。文庫化にあたり「作品を本来あるべき姿に戻したい」と又吉が行った加筆や、装丁の変更の真意、そして又吉の小説作品に通じる「弱者に寄り添い光を当てる」という執筆の動機について尋ねてみた。

advertisement

今出せる精一杯のものがこれです。文庫になって新たに見えたもの

――文庫化にあたっていくつかの変更、仕掛けがありました。まず装丁が変わりましたね。

又吉 これは『火花』の装画をしてくださった西川美穂さんの『キオクノヘンカ』という作品で、初めて見た時にすごくいい絵だなと思いました。『火花』のあの布の中にはおそらく人か何かが入っているのだろうと当時感じたんです。布らしきものを被せて目に見えない状態で絵として完成している、その中に何が入っているかわからないという不穏な世界が僕はすごく好きだったんです。そして『キオクノヘンカ』ですが、この人物が『火花』のあの布に入っていたんじゃないか、直視するとハッとし過ぎるから布を被せていたのかなって感じたんです。それくらい“剥き出し”な感じが面白いなって思い、この装丁になったんです。

又吉直樹

――この装画は又吉さんの過去の作品とも響き合っているんですね。偶然かもしれませんが、単行本の装画と絵のトーンは異なりますが、構図が似ているし、つながっているんだろうなと思っていました。

又吉 偶然なんですけど、シルエットが似てるっていうのがすごく面白いですよね。単行本の装丁もとても気に入っているんですけど、あれは背景が青いんですが、第3章(※文庫は4章構成に変更)の舞台となる沖縄の空や海みたいな色なんです。第1章から20年間の流れがあって、語り手の心境も変化している。その最終章の心境、小説の出口が単行本の装丁になっていたと思うんです。一方で文庫の西川さんの絵の不穏さや剥き出しな感じは、第1章で入口だな、と。多くの作品がそうであるように、文庫の装丁も単行本のままでもいいのかなとも思っていたんですけど、今回は2つ並べることによって面白さが際立つと感じて変更したんです。

――びっくりしたのが、1万字を超える加筆です。文庫の第3章「影島道生」の最終盤に芸人である影島に致命的な事件が起こり開かれる記者会見のシーンですが、改行なしで書かれる影島の独白が圧巻です。又吉さんにとって小説の文庫化でここまでの分量の加筆は初めてじゃないですか。

又吉 単行本当時もそのシーンを書いてみたい気持ちはあったんです。でも、まだとらえきれていない部分があった。あれから3年近く経って、今のタイミングなら出せるかなって感じたんです。それは付け加えたのではなくて、土の中に埋まっているものを単行本の時点ではあれだけしか掘れなかったけれど、今回さらに掘ってみたら別の部分が発見できた、という感じなんですね。その時々で、「今出せる精一杯のものがこれです」という。だから話を変えたわけじゃなくて、見えた部分が増えた、ということですかね。

――加筆部分ですが、過去の又吉さんの作品で表現されたことのない感情のように感じたんです。又吉さんは読者に訴えたいメッセージがあるとしても、それを表明するというよりは、物語の中に含むという印象があるんです。でもこの加筆部分は、小説全体に大きく影響を与えるほど激しいし熱い。時代や世間に対して思うところが変わった、ということでしょうか。

又吉 それは変わっていなくて一定なんです。思うところが変わったわけでも増したわけでもなくて、そもそもあったんです。でも、そういう感情を表明しても何も変わらないっていう、そんな無常観もある一方で、言わないと本当に何も変わらないじゃないですか。僕は『人間』で、結局は何も変わらない有様を描いているわけですけど、僕が今回書いたことによって「何も変わらない状態ってどうなの?」って疑問を持つ人もいるかもしれない。そうなるなら、意味があるのかなと思いますね。

しんどかったらしんどいって言っていい

又吉直樹

――その加筆箇所の主役である影島道生ですが、この物語の語り手である永山、そして執筆当時の又吉さんと同じ38歳。しかも芸人でコンビ名が「ポーズ」、芥川賞を受賞しています。「これを書いたら絶対俺だと思って読者は読むよな」って確信犯的に書いてますよね?

又吉 たとえば『火花』は全然僕の話ではなくて、僕が見てきた時代や風景をちゃんと書きたいなという作品です。でも芸人が主人公だと僕の話として読まれてしまう。『劇場』は、『火花』より主人公のマインドが僕に近いんですけど、主人公が劇作家というだけで、『火花』ほど僕の話として読まれませんでした。それでも主人公、語り手を又吉として読む人も一定数いるわけで、僕の書く小説の語り手は、僕が何と言おうと僕として読まれてしまうし、それはそれで面白いとも思うんです。もし「どっちですか?」って聞かれたら、「僕じゃないですよ。でも僕の部分もありますよ」ぐらいの曖昧さが事実なんです。僕自身も「これ俺のことなんかな」と「これ俺じゃないよな」を行ったり来たりするような部分があるんで。そんな中で『人間』を書こうってなった時に、当時僕は38歳で、38歳の登場人物を出すって決めて書き始めた。この永山という語り手は間違いなく自分として読まれるけど、読んでいったらもっと自分に近い人物(影島)が出てきたら面白いかなっていうのはありました。でもそれは、面白いからそうしただけじゃなくて、この小説にとって影島が重要であり必要だったから書いたんですね。

――芸人として先に世に出た又吉さんの宿命かもしれませんが、著者と登場人物を同一視して答え合わせしながら読まれるのは、純粋に作品として楽しんでもらえない怖さもありそうですね。

又吉 『火花』の時はめちゃくちゃ嫌でした。何回説明したらええねんってくらい「違うんですよ」って思いました。でもそれはしょうがないかな。『火花』の語り手である徳永にも、『劇場』の永田にも、僕と共通する細かさとか卑屈さが備わってしまっているから。無関係では通らないよな、とも思います。

――作品から又吉さんの痕跡を消しながら書くのも難しそうですもんね。

又吉 中学生の頃に僕が芥川とか太宰読んだ時に、すごい共感できると思ったり、ここから先はわからないんだけど将来僕はこういうことで悩むのかなとか、中学生なりに考えたりしたんですね。ということは、自分の書いていない、何十歳も年上の人が書いたものを「これ俺や」って思ってしまっていたわけです。そんな僕が自分で小説を書いて、それを読み返した時に「これ、全く俺じゃないわ」っていうのは不可能なんですよ。論理的におかしい。意識して、自分とここが被るから変えようって完全に自分を作品から遠ざけない限り書けないと思うんですよ。でも、そんなことをする必要がないじゃないですか。だから普通に書けば、僕らしさってどうしたって出ると思うんですよね。

――めぐみとカスミという2人の重要な女性の人物が登場しますが、彼女たちに、『火花』の真樹や『劇場』の沙希と共通するものを感じました。彼女たちは必ずしも幸福とは言えない場所に存在しているわけですが、そんな彼女たちに対する又吉さんの視線はとても温かいように感じます。又吉さんの女性像というか原点となる存在があるんですか?

又吉 想像で書いている部分もありますし、取材というほどのものではないんですけど話を聞いたりもするんですよ。僕自身は男がこうとか女はこうとか、そんな明確な違いがあるとは思わないけれど、でも社会とか周囲から課せられている条件みたいなものは男女それぞれあると思います。現段階では。こんな社会や時代を生きている人たち、何かを課せられてきた人たちの話は積極的に聞いているつもりです。僕が小説で書く女性は「そんな女、現代におらんやろ」ってよく言われるんです。実際に複数人がそう言う以上、そうなのかもしれない。でも、僕は「おらんことにされてる」と感じますし、誰かがいなかったことにされるのは嫌なんです。否定されるのが怖くてちゃんとしているフリをしてしまうだとか、ダメな男に振り回されてるけど、それを友達にしゃべると怒られるから怖くて言えない。そういう人はいるんですよ。僕はおらんことにされてる人たちを、ちゃんと書きたいなっていうのがあるんですね。

――おらんことにするというのは、臭い物に蓋をする、に近いんでしょうか。

又吉 部屋を片付けるのが下手な人の家掃除って、見えへんところに隠すじゃないですか。引き出しの中に詰め込んで見えへんようにするみたいな。ああいう感じですかね。

――又吉さんご自身も、おらんことにされていると感じることがあったんでしょうか?

又吉 もちろんありました。たとえば僕の書いた作品を読んだ人から、「こんな風呂なしのアパートに住んでたの? 昭和やん」みたいなことを言われたことがあるんです。昭和の頃はそれがスタンダードだったんでしょうけど、でも僕らの時代は風呂なし物件に住んでる人は昭和と比べて少なかった。ということは、格差が広がってるわけじゃないですか。70年代、80年代を過ごした人と2000年代を過ごした若者とでは、生活スタイルは似ていたとしても、「周りはそうじゃないのに」っていう感じ方が全然違うと思うんです。そこが無視されている(笑)。なぜそれを無視したいのかっていうと、みんな心理的には格差社会を是正しなければいけないと思っているから。貧困層をなんとか救わなければならないということは言うんですよ。表向きにはそういう意思を表明するんだけど、ほんまは変なねじれがあって、どこかでそんな人はいてはいけないって思っているんですよね。

――存在してはいけないというのは、恵まれている人が身銭を切って貧困層を引っ張り上げてそういう存在をこの世からなくそうということとは違うんですか?

又吉 むしろ、自分には能力があって、さらにむちゃくちゃ頑張ったから飯が食えてる、という意識があるんですよね。風呂なしの部屋に住んでる人に「ちゃんとしてないだけじゃん、自分が」ってどっかで思ってるんですよ。「貧乏自慢やん」っていう視点があって、その視点が社会からそういう人たちをおらんことにしてしまう。怒られるから言わんとこうって、掃除が下手なヤツが掃除してるみたいな。だから僕は引き出しを開けて、「いてますよ、ここに」ってやりたいんです。

――貧乏自慢って、嫌な言葉ですね。

又吉 『火花』も貧乏自慢って言われました。僕からしたら、あれを貧乏自慢って言ってる人たちは、いかに恵まれた人生を送ってこられたかを考え直した方がいいとは感じましたね。貧乏自慢って言ってる人たちってどこかでコンプレックスがあるんですよね。当事者にはなれないし、自分たちがいじわるしているような構図にはなりたくないんです。でも貧困への意識はありますよ、格差は絶対になくさなければいけない、とか言うんですよね。その人たちも簡単ではないと思うんですけど、汚いものは見えへんところ置いておけよっていう意識が潜在的にあるんじゃないかなって僕は思うから、全部見えるところに戻すっていう。おらんことにされている人たちは、もっと自分から声を上げていいし、しんどかったらしんどいって言っていいと思います。というのが僕の考え方ですね。

――生きづらい人たち、隠れるように生きている人たちに意味を持たせたい、光を与えたい、肯定したい、そういう気持ちがあるってことですか?

又吉 それは強いんじゃないですかね。(後編に続く

取材・文=編集部 撮影=三宅勝士