映画と小説の往復が楽しい! 1960年代フランス映画の原作小説が初邦訳

文芸・カルチャー

公開日:2022/5/14

気狂いピエロ
気狂いピエロ』(ライオネル・ホワイト:著、矢口誠:訳/新潮社)

 シャネルの広告などで映画のワンシーンがオマージュされたり、伝記映画『グッバイ・ゴダール!』が製作されたりするなど、世界の様々なシーンに影響力を持つフランス・スイスの映画監督ジャン・リュック・ゴダール。彼の膨大な作品群の中でも特に有名な1960年の『勝手にしやがれ』と1965年の『気狂いピエロ』が2Kにレストア(修復)され、4月中旬から全国映画館で公開中ですが、後者の原作『気狂いピエロ』(ライオネル・ホワイト:著、矢口誠:訳/新潮社)が、初邦訳され出版となりました。

 ライオネル・ホワイトは映画『2001年宇宙の旅』などで有名なスタンリー・キューブリック監督の初期作品『現金に体を張れ』の原作となった『逃走と死と』(早川書房)の著者としても有名なのですが、本書(原題は「執着」を意味する『Obsession』)に関しては、映画の題名『Pierrot le Fou』にそっくりな『Histoire de Fou』(ジョゼ・ジョヴァンニ/早川書房)が原作だと日本では長らく勘違いされていたという冗談のような理由で、今まで翻訳されていなかったそうです。

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 映画は「ピエロ」こと既婚男性フェルディナンが、ベビーシッターに来た昔の恋人・マリアンヌとパリで再会したあと、ある事件に巻き込まれ、2人で南フランス方面へ向けて逃避行に発つストーリーです。

 一方原作は、既婚男性コンラッド・マッデンが、ベビーシッターに来た17歳のアリーという女性に惹かれ、ある事件に巻き込まれた後にすべてを投げ出してニューヨーク郊外のスタンフォードから西海岸方面へ逃避行をするストーリーです。ジャンルとしては「ノワール」と呼ばれる犯罪劇にあたります。

アリーとおれのこれからの生活になにが待ち受けているとしても、もう後戻りはできない。帰ることもできない。たんにおれがそう思い込んでいるからじゃない。現実的な理由がある。帰ることなど許されないのは—自分が帰りたくないことをおれが心の底では知っているからだ。

 ゴダールやキューブリック作品のファンであれば、これだけの情報ですぐさま本書を読みたくなるかもしれませんが、そうでない方も楽しんで読み進められる切り口が本書にはあります。映画『気狂いピエロ』でゴダールは、小説『気狂いピエロ』を巨匠ならではの大胆さで解釈しているため、映画と小説を見比べると全然違って面白いのです。

 小説の映画化というと「私の好きなあのシーンが台無しに……」とか「私がイメージしていたキャラと全然違う!」などという残念な感想が鑑賞後に残ってしまうことも正直あったりします。しかし『気狂いピエロ』に関しては、話の大枠は前述の通りなんとなく同じですが、人物の行動、舞台設定、セリフなどのディテールにおいては驚くほど原型をとどめていません。

アリーの話は、信じることもできれば信じないこともできた。すべて彼女が説明した通りだったのかもしれない。反対に、すべてがまるごとでたらめなのかもしれない。そう——信じることもできれば信じないこともできる。しかしおれが選んだのは、信じることでも信じないことでもなかった。おれはただそれをうけいれた。ほかにまったくどうしようもなかったのだ。

 映画にこういったモノローグはなく、当時の時代背景にあったベトナム戦争への風刺が突如挿入されたりする目まぐるしい展開なのですが、映画のフェルディナンはもしかしたら原作のコンラッドのように考えていたのかもしれないと、また映画を鑑賞し直したくなりました。「小説と映画が全然似ていない中から、似ている点を見つけ出す」という楽しみ方は、他の原作小説と映画ではなかなかできないのではないでしょうか。

 筆者は映画を既に鑑賞済みだったので映画→小説の順番でしたが、小説→映画という順番でも違った発見があると思います。本年度のアカデミー賞で国際長編映画賞を獲得した映画『ドライブ・マイ・カー』をご覧になった方も多いかと思いますが、『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)のうち3作品を大胆に解釈・結合して1本の作品にしたものでした。ほかの「原作モノ」の話題作とあわせて、原作と映画の往復を楽しんでみてはいかがでしょうか。

文=神保慶政