ヒップホップの歴史をひも解く/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/6/1

みの

 「ヒップホップ」は、ブルースなどのように人々のあいだで自然発生的に生まれた音楽ジャンルです。ブラック・ミュージックのなかでも突然変異的なかたちで現れました。そして、人種差別や貧富の格差に揺れた1990年代に黄金期を迎えます。

 今回は、ヒップホップがどのように発展してきたかを、歴史を振り返りながら見ていきましょう。

1970年代、ヒップホップ黎明期

 ヒップホップの黎明期は、やや遡って1970年代になります。

 1914年から50年頃までに起きたグレート・マイグレーションで都心が“人種のるつぼ”となると、上流階級、中流階級の白人たちが郊外へと移り住む、「ホワイトフライト」という現象が生まれます。

 ニューヨークのブロンクス地区では、ユダヤ系、イタリア系、アイルランド系の移民たちが多く暮らしていました。1950年代から1960年代にかけてブロンクス横断高速道路の建設が進められるようになると、彼らは郊外へと移動します。替わりにアフリカン・アメリカンたちとジャマイカからの移民、プエルトリコ、ドミニカをはじめとするラティーノたちが住み始めます。

 1970年代の不況が追い打ちをかけて、この地区の失業率は60%近くに上り、治安が非常に悪くなります。家賃収入が期待できない大家たちは保険金に頼るしかなく、そこらのゴロツキに放火させるほど深刻化。街は、いつもどこかが燃えている状態となります。スラム化したブロンクス地区はまるで、空襲後の焼け野原です。

1970年代のブロンクス地区
1970年代のブロンクス地区
(写真:The New York Times/アフロ)

 当時のブラック・ミュージックはというと、ディスコの最盛期。でも、クラブに行けない貧困層の若者たちは、公民館や公園のバスケットコートのようなところで、「ブロック・パーティー」と呼ばれる内輪的なイベントをやるようになります。

 彼らは、サウンド・システムを持ってきて、そこら辺りから電力を盗み、音楽をかけて踊っていました。ちなみにサウンド・システムは、ジャマイカから持ち込まれた文化です。移動式の巨大スピーカーのセットに、アンプ、ターンテーブルを備えた野外イベント用の音響設備で、彼らのあいだでは、大きなスピーカーをもっている人ほどモテて、集客にもつながりました。

オールドスクールの三大DJ

 ブロック・パーティーとはその名の通り、地区ごとの若者たちが小さなコミュニティを形成し、音楽を楽しむ催しです。コミュニティは、いわば縄張りとしての意味ももち、地区ごとに決まったDJが棲みわかれているのです。

 ブロック・パーティーから誕生した、カリスマ的DJが三人います。

 一人はジャマイカ系のクール・ハークです。

 1973年、ウエストブロンクスのブロック・パーティーでレコードをかけていたハークは、集まったみんなが曲の「ブレイク」部分でやたらと盛り上がることに気づきます。そこでハークは、もう1枚同じレコードを買ってきて、ターンテーブル2台に同じレコードをかけて、ブレイクの部分をつなぎ続けました。

 ブレイクとは、ドラムのリズムだけになる部分のことです。これをリプレイしたハークの発想が、「ブレイクビーツ」という技術の源流となります。ちなみに、ハーク自身は「メリーゴーラウンド」と呼んでいました。また、ブレイクのところでダンスが盛り上がるダンサーたちの踊りは流行して、「ブレイクダンス」と呼ばれるようになります。

 ブレイクビーツで踊る人を「Bボーイ」「Bガール」と呼んだのもハークです。このように、BボーイやBガールたちを楽しませたいという思いから、ヒップホップの基本スタイルが生まれました。

 三大DJの二人目、アフリカ・バンバータは、元は地元ギャングのボスでした。当時のブロンクス地区にはギャング組織がたくさんあり、縄張り争いが絶えず、殺し合いも起きていました。

 なかでもバンバータは人望が厚く、地元ギャングたちを次々と自分の配下に取り込みます。ヒップホップの可能性に気づいてからは、ケンカはやめて争いは平和的に解決すると宣言し、ズールーネイションというチームを組織します。ブロンクス地区のブロックごとに幹部をおいて、もめごとがあるとバンバータが出てきて仲裁にまわるのです。

 ダンス・バトルは、バンバータがギャングの抗争をまとめるために、銃撃戦の代わりに提案したとされています。ラップでもダンスでも、ヒップホップ文化にバトルの要素が強いのは、ギャング文化の影響といえるのです。

 三人目、グランドマスター・フラッシュは、DJの技術をさらに追求した、ヒップホップ史における重要な人物です。レコードを擦ってリズミカルな音を出す「スクラッチ」の技術は、フラッシュが確立させたといわれています。

ヒップホップの四大要素

 1970年代後半の黎明期のヒップホップは、オールドスクールと呼ばれます。1960年代にソウルからはリズムを強調したファンクが生み出されましたが、ブレイクビーツではさらにリズムだけを抜き出して、再構築されました。

 この時点でのヒップホップは商業的な要素はなく、ブロンクス地区の仲間内に限定された、フォークアート的な存在でした。

 ヒップホップの四大要素は、DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、ラップとされていますが、この時期のヒップホップの花形はDJとダンサーで、ラッパーは今日のイメージとは違い、サポート的な役割でした。ブロック・パーティーでは司会者(MC)がいて、当初はパーティーの盛り上げ役でしたが、ブレイクビーツに合わせて韻を踏み始める人が出てきます。これが今のラップの原型となります。

 グラフィティは、いち早くオーバーグラウンドへ顔をのぞかせます。エアロゾールアートとも称されるグラフィティは、スプレーやフェルトペンなどを使って壁などに描かれたアートのこと。ヒップホップ文化から生まれたグラフィティは、新しい絵画表現として、フォークアートのかたちで地元ニューヨークのアートシーンに受け入れられます。

 ただし、グラフィティはヒップホップ文化がハイカルチャーにアクセスするツールの一つとしては機能しましたが、商業的な成功には至っていません。

ブレイクダンスや壁に描かれるグラフィティ
ブレイクダンスや壁に描かれるグラフィティも、ヒップホップには欠かせない
(写真:Shutterstock/アフロ)

ブレイクダンスや壁に描かれるグラフィティ
ブレイクダンスや壁に描かれるグラフィティも、ヒップホップには欠かせない
(写真:Shutterstock/アフロ)

大衆化するヒップホップ

 草の根で広まっていたヒップホップに、アフリカン・アメリカンの女性、シルヴィア・ロビンソンが注目します。1970年代にR&B歌手として活動していた彼女は、1979年にシュガーヒル・レコードを創業しました。

 ヒップホップの商業的な成功をもくろんだロビンソンは、ブロンクスでヒップホップをやっている若者たちに、レコードを出さないかと声をかけてまわりますが、軒並み無視されます。そもそもパーティーを一つの楽曲にするという発想がなかったので、シングル盤に収めて売れるわけがないと取り合わなかったのです。

 しかし、ロビンソンはあきらめず、ニュージャージーから素人の若者三人を連れてきて、レコーディングさせます。彼らはシュガーヒル・ギャングと名づけられ、1979年に発表した「ラッパーズ・ディライト(Rapper’s Delight)」は世界で200万枚のセールスを叩き出したのです。

 当然、ブロンクスのコミュニティからは大ひんしゅくを買いますが、皮肉にもヒップホップはブレイクし、感度の高い白人アーティストたちも興味をもつようになります。

 イギリスのパンクバンド、クラッシュは、1980年にラップを取り入れた「7人の偉人(The Magnificent Seven)」を発表。1981年にはアメリカのブロンディが「ラプチュアー(Rapture)」を発表し、Billboard Hot 100でトップを獲得します。これが、ラップを含んだ楽曲初の1位作品となりました。

 ロックがヒップホップに接近しつつも、この辺りまで、ヒップホップは純粋にパーティーのための音楽でした。ヒップホップというとギャングの危険な日常を歌っていたり、政治的なメッセージが込められていたりするものを想像しがちですが、当時はブロック・パーティーのありふれた風景を歌った、娯楽的でのどかなものだったのです。

 三大DJの一人、グランドマスター・フラッシュが、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴを結成して、1982年に「ザ・メッセージ(The Message)」を発表します。

 タイトルの通りメッセージ性が強く、黒人たちのゲットーの生活を歌い、皆に「これでいいのか」と問いました。こうしたメッセージ性の強いスタイルを指して「コンシャス・ヒップホップ」とも称します。この曲を皮切りに主張性を追求する曲が増え始めたことからも、今のヒップホップのかたちを作った屈指の名曲といえます。

 1970年代のオールドスクールに対して、1980年代のヒップホップはニュースクールと称されています。ヒップホップは草の根から生まれ、発展しながらオーバーグラウンドに行くという、ブルースと似た流れをたどり、大衆化の道を進み始めます。

 そして、同じリズムをループさせるヒップホップの手法はオルタナティヴ・ロックやメインストリームのポップスに影響を与えていきます。

 また1980年代半ばになるとサンプラーが安価になり、一般人でも手に入れやすくなり普及し始めます。サンプラーは主にトラックメイキングに使われています。これは、既存の音楽から好きな部分だけを切り取り、自在に再生出力できる技術で、特にヒップホップシーンで活用されました。

 ニューヨークのDJたちを中心に、サンプラーを使って過去の音楽をコラージュ的に引用するのがトレンドとなります。過去の音楽を使用するため、著作権法との摩擦を引き起こしますが、アメリカではフェアユースの法理に基づき、サンプリングは著作権侵害とみなさないことが通例となっています。

 一方、日本の著作権法ではフェアユース規定がなく、アメリカと比べて既発曲のあからさまな引用はあまり行われていません。外国のDJたちがこぞって使うサンプラー(AKAIなど)が、日本のメーカーから発売されたことを考えると、なんとも皮肉なことです。

ブロンクスから郊外へ

 1984年に、ラッセル・シモンズとリック・ルービンによって、デフ・ジャム・レコーディングスというヒップホップのレコード・レーベルが設立されます。これが、ヒップホップがブロンクス地区から大きく羽ばたくきっかけとなりました。リック・ルービンはその後、多くのアーティストを手がける著名なプロデューサーとなります。

 デフ・ジャムからは、RUN DMC、ビースティ・ボーイズ、パブリック・エネミーといったアーティストが登場します。

 RUN DMCは、ブロック・パーティーでも人気の高かったエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ(Walk This Way)」を、エアロスミスのメンバー本人をフィーチャーして、1986年にリメイクします。大物ロッカーとヒップホップのアーティストによる前代未聞のコラボということで、驚きをもって迎えられました。ここでRUN DMCは、全国規模で白人のオーディエンスを獲得するのです。

 ビースティ・ボーイズはもともと、ハードコアをやっていた白人バンドです。ニューヨーク出身の彼らは黎明期の頃からヒップホップに親しんでいて、ツアーでもヒップホップのアーティストと対バンでまわっていました。その関係に触発されてヒップホップに転向。1986年にデフ・ジャムからアルバム『ライセンス・トゥ・イル(Licensed to Ill)』を発表します。今度はこれが黒人のオーディエンスに受け入れられて、白人ヒップホップとしてのヒット第一号となりました。

 1987年にデビューしたパブリック・エネミーは、かなり政治的な内容で攻めています。グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴの楽曲「ザ・メッセージ」から連なる、コンシャス・ヒップホップの流れを拡大します。ブラックパワー的メッセージを打ち出し、今のヒップホップ・アーティストが踏襲している部分です。

ニューヨークから西海岸へ

 アメリカは、1980年代初めまで続いた不況を乗り越え、1982年から88年まで高い成長率を保っていました。ですが、1990年代に入り、低所得層の生活状態の悪化が問題視され始めます。

 そのような社会状況のなか、1992年にロサンゼルス暴動が起きます。停止命令を無視して逃走した黒人の青年が、複数の白人警官から暴行を受けますが、裁判では警官に無罪判決がくだされました。これに憤激した貧困層のアフリカン・アメリカンやラティーノの住民たちが暴動を起こし、町で略奪行為を広げます。

 ただ、コリアン系も住民が標的になるなど、従来の“黒人対白人”の構造ではありませんでした。アメリカに根深くある人種差別に、新しい移民とのあいだの軋轢、貧富の格差などの問題が複雑に絡み合った事件へと発展したのです。

 それまで東海岸の寡占状態だったヒップホップは、混沌とした社会状況を抱える西海岸にも広がっていきます。そして、ギャングスタ・ラップが生まれ、東海岸と西海岸の東西対立の構図が生まれました。

過激すぎてFBIが動く

 「Niggaz Wit Attitudes(主張する黒人たち)」の頭文字をとった、ドクター・ドレー、アイス・キューブ、イージー・Eらを擁するN. W. Aというグループが登場します。彼らは、過酷なゲットーの環境をラップし、ありのままを表現するにはストリートの言葉を使わなければいけないと考え、痛烈で過激な表現を取り入れます。これを「ギャングスタ・ラップ」といいます。

 N. W. Aの代表曲は、1988年に発表した「ファック・ザ・ポリス(Fuck tha Police)」です。タイトルからも彼らの痛烈さが伝わるでしょう。この曲は、ジェームス・ブラウンの「ファンキー・ドラマー」をサンプリングして作ったものです。

 当時ゲットーで蔓延していたクラック・コカイン摘発のために、警察は頻繁にギャングを取り締まっていました。有色人種であればだれかれ構わず手荒に職務質問し、証拠がなくてもギャングのデータベースに登録してしまうようなありさまです。

 あまりに理不尽な取り締まりに、アフリカン・アメリカンやラティーノたちは怒っていたのです。この曲は警察のハラスメントを歌っていますが、発売するやいなやFBIが問題視するほど波紋を呼びました。

親に「聴くな!」と言わせた音楽は、勝ち

 「暴力」「性的」「犯罪」といった未成年者にふさわしくない表現があると認定された音楽作品に対して、全米レコード協会(RIAA)がステッカー添付で勧告する「ペアレンタル・アドヴァイザリー」が出てきたのもこの頃です。

ペアレンタル・アドヴァイザリーのステッカー
ペアレンタル・アドヴァイザリーのステッカー

 ペアレンタル・アドヴァイザリーは、PMRC(ペアレンツ・ミュージック・リソース・センター)という市民団体の活動によって導入された制度です。PMRCはのちの副大統領になるアル・ゴアの妻、ティッパー・ゴアをはじめとする政治の世界に強力なコネクションをもつ女性たちを中心に設立されました。

 PMRCは当初、悪魔崇拝的傾向をもつ一部のヘヴィメタルを問題視していましたが、ギャングスタ・ラップが登場してきた頃から、対象がヒップホップに向かうようになります。ヘヴィメタルの問題は保守的なキリスト教徒だけのものでしたが、ギャングスタ・ラップは露骨に殺人などに触れていて非難しやすかったのです。人種差別的動機も手伝って、ヒップホップは社会からの攻撃対象となっていきます。

 1988年に発表されたN. W. Aのファースト・アルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン(Straight Outta Compton)』にも、ペアレンタル・アドヴァイザリーのステッカーが貼られました。

 ところが、大人たちの狙いとは裏腹に、ステッカーが貼られることで「刺激が詰まった作品」だと若者たちが見抜き、売上げが伸びる結果となります。ロックンロール登場のときと同様に、大人たちが「聴くな!」と声高に罵る音楽は、若者にとっての「かっこいい」であるのは世の常といえるでしょう。

 一種の業界検閲にあたるこの制度は、ミュージシャンたちのあいだでも表現の自由とともに問題視されるようになり、フランク・ザッパやジョン・デンバーが抗議の声を挙げます。ベテラン・ミュージシャンたちが上院議会で証言する事態となり、大きな注目を集めました。ザッパは、自身が出席したこの公聴会での議員たちの発言をコラージュした『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション(Frank Zappa Meets the Mothers of Prevention)』を発表しています。

 その後、西海岸からはスヌープ・ドッグ、2Pacといった才能あるアーティストが続いて登場します。西海岸のヒップホップの存在感が増すことで、東海岸との対立抗争の構造が浮かび上がり、作品で互いに攻撃し合うビーフ合戦が始まります。対戦は激化し、西海岸では2Pacが、東海岸ではノトーリアス・B. I. G. が若くして命を落とすことになります。

(第13回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!